第8話 石田文の青春 その1
「はぁ、はぁ」
季節は春。
この日、常盤中の1年生として入学してきた石田文は、チャームポイントであるポニーテールを揺らしながら走っていた。
場所は玄関先。
慌てて履いた買ったばかりの靴を、走りながらベストポジションに整えていく。
天気は晴れ。
どこか安心感を覚える優しい風が、浮き足立つ心を優しく包み込む。
目的は・・・。
「・・・ふぅ、着いた」
膝に手をつき、息を整える文の視線の先には、常盤中が誇るおんぼろブルペンがあった。
「おい拓。部活紹介盛大にスベったな」
「ああ。あれは完全に徹のせいだな」
「体格のいい男の女装とか・・・ああ、あれだ。カレーのない肉みたいなもんだよな」
「なんだそのちぐはぐな例えは」
「ちょっと2人!聞こえてるっしょ!」
3年生の先輩と交代でブルペンに入っていた中村拓と弟月はじめ。
それから、ブルペン横で素振りをする九重徹を足した3人が、いつものようにふざけ合う。野球部にとっての日常風景。
それを目の当たりにした石田文は、微かな違和感と共に、確かな衝撃を感じていた。
「はぁ、はぁ」
咄嗟にブルペン近くの木の裏に隠れた石田文は、落ち着いたはずの鼓動音が再び動きを早めたことを、胸に手を置くことで確かめていた。
文がここにきた目的は、中村拓との再会だった。
従兄妹関係であり、実の兄である武と並んで兄のように慕ってきた年上の男の子。
幼い頃から遊び相手になってくれた拓だが、彼が中学生になった1年ほど前から疎遠となり、最近では全くと言っていいほど接点がなかった。
そのような背景から、晴れて同じ中学生となった今日。石田文は彼の元を訪ねようと走っていたわけだが、その直前で彼女の足は踵を返す結果となった。
(なにこの気持ち・・・)
文の視界に映った2人の男子生徒の姿。
その内の一人である中村拓。
彼のことをよく知らない者から見れば、先ほどの彼の顔は感情の見えない無表情に映ったことだろう。
しかし、幼い頃から彼のことを知っている文の目には、『喜』という感情が滲み出た笑顔に映っていた。
それは、これまでの長い付き合いの中で、彼女が一度も見たことのない表情であった。
そして、その要因となったのが、文の瞳に映ったもう一人の人物。
拓と一緒に話していた男子生徒であるという確信めいた考えが、文の中で膨らみ、心を支配する。
本当はもう一人、徹もその場にいたのだが、文の目には映らなかったようだ。
「あれ、もしかして見学にきたんですか?」
そんな不安定な状態の文の存在に気づいたのは、拓でもはじめでも徹でもなく、顧問の田辺だった。
「あっ、すみません」
単純な疑問と純粋な親切心で声をかけた田辺だったが、心の圧迫により思考が乱されていた文は、その場から逃げるように走り去ってしまった。
「あれ、田辺せんせー?こんなとこで何してんすか?もしかして、せんせーも立ちションすか?」
告白してもいないのに振られたような気分を味わっていた田辺の横で、九重徹が立ちションを始める。
「シャー」という爽やかな音を聞きながら、田辺はこぼれ落ちそうな涙を必死に堪えるのだった。
石田文が常盤中に入学してから数日が経過したある日の昼休み。
昼ご飯を食べ終えた文は、校舎2階の休憩所でココアを飲みながら考え事をしていた。
「お隣いいですか?」
「え?あっ、はい」
周りに空席がいくつかあるにも関わらず、わざわざ文の隣に座ってくる女子生徒。
その行動に文がちょっとした疑問を感じていると、
「もう、我慢できない!」
「えぇ!?」
突如、その女子生徒にほっぺたを摘まれた。
頭が追いつかない展開に、文が目を回しながらジタバタしていると、その女子生徒は文のほっぺたを摘んだまま弁明を始めた。
「いやー。私可愛いものに目がないんですよー」
「なんでふかそれ。はなひてくだひゃいよ〜」
一向に手を離そうとしない女子生徒に、文が必死に抗議する。
そのリアクションを一通り楽しんだ後、女子生徒は笑いながらこう問うた。
「元気になりましたか?」
「ひゃい?」
疑問に疑問で返す文。
「なにかあったんでしょ?悩み事なら聞きますよ」
その言葉を受けて文は理解する。
彼女は頭を抱える自分を見かけて、元気付けようと考えたのだと。
「むふ。むふふふ」
尚もほっぺたを摘まれた状態の文の口から、笑い声が漏れ出す。
その様子に満足した女子生徒、松咲花も釣られたように笑い出す。
休憩所の一角に、可憐な春の花が二輪咲いた。
「なるほどー。それは、世に聞く『一目惚れ』というものかもしれませんねー」
「ひとめぼれ・・・」
片方の手で顎をポリポリと掻きながら、少しにやけた顔で花が言う。
文はその意味を咀嚼するように、ゆっくりと復唱した。
文はこの間の出来事を、所々ぼかしながら花に伝えた。
とある男の子を見た瞬間。突然胸の鼓動が早まり、息が苦しくなったと。
その症状を聞いた先輩女子は、その気持ちに『一目惚れ』という名前をつけたのだ。
「それで、その男の子は一体誰なんですか?」
「それは・・・」
既の所で言い淀む文に、「こっそり教えて下さいよー」と、花が急かすように問いただす。
しかし、文は答えない。
いや、答えられなかったのだ。
それもそのはず、文は彼のことを何も知らなかったのだ。
名前も、過去も、想い人の存在も。
そのことに気づいた文は、同時に違う願望が湧き上がっていることに気がついた。
彼のことをもっと知りたいという純粋な好奇心に。
文の顔から迷いの色がなくなったことに気がついたのか、花がやれやれと呟きながら立ち上がる。
「私はそろそろ行きますね」
「あっ、はい。ありがとうございました!」
お礼を言う文に手を振って、花は教室へ戻っていく。
「あっ、そうだ。良かったらバドミントン部に入りませんか?」
「バドミントンですか・・・。考えときます」
途中で振り返り、番宣に来たバラエティ番組のゲストのように部活の勧誘を済ませると、「じゃあね」と言葉を残して、再びスタスタと歩いていく。
「不思議な人だったなー」
残された文も、飲みかけのココアを飲み干して、自身の教室へと戻った。
偶然か必然か。
青春の風は合流し、勢力を増していく。
周りの風に影響を受けながら。ゆっくりと。確実に。
「よしっ、今日こそ!」
放課後の教室。
同級生達がそろそろ帰ろうかとしている中、石田文は何かを決意したように席から立ち上がった。
勢いそのままに、気持ち大股で、いつもより少し早く歩く。
中村拓と一緒にいた名前も知らない男子生徒に、想いを馳せるだけの最近の日々。
窓から練習風景を眺めることもあったが、距離が距離だけに、どれがその男子生徒か判らなかった。
そして迎えた今日。
意を決した石田文は、野球部が練習しているはずのグラウンドに向かうことにしたのだった。
靴を履き替え、早歩きが駆け足に変わり、野球部の元へ段々と近づいていく。
そして、ブルペンがある場所までやってきたのだが。
「・・・あれ?」
先日は弟月はじめが立っていた投手側には、見知らぬ男が立っていた。
正確にはこの間もいたのだが、視界の狭くなった文の目には映っていなかった男子生徒。
「たくみん超直球ストーレートいくっしょ!」
威勢のいい掛け声とは裏腹に、放られたボールはキャッチャー後ろのネットに突き刺さる。
何を隠そう、その男とは九重徹であった。
「おい、どこ投げてるんだ・・・ん?もしかして文か?」
そして、徹が暴投した球を拾いにきたことで、幸か不幸か、拓は戸惑う文の姿に気づいたのだった。
「練習はもう良かったの?」
「ああ。もう終わるとこだったからな」
部活終わりの帰り道。
自転車を押す中村拓の横には、ポニーテールを小刻みに揺らす石田文の姿があった。
ブルペンにて文の存在に気づいた拓は、徹とのピッチング練習を切り上げ、文を連れて帰路についたのだった。
「たくみん!?俺を置いてかないで!捨てないで〜!!」と、叫ぶ徹の姿が記憶に新しい。
「それで、どうかしたのか?」
「え?ああ、えーとね・・・」
「野球部の人に一目惚れしたかもしれなくて」などと、面と向かって言うのは躊躇われ、言葉を濁す文。
脳内で適当な言葉を検索した結果、精選されたものを口にした。
「野球部の人に用事があったんだけど」
「ん?誰のことだ?」
「この間。入学式の日に拓くんに向かって投げてた」
「はじめのことか?」
「はじめ・・・」
拓が口にした名前が、電流のような衝撃となって文の身体を駆け巡る。
「あれ、違ったか?入学式の日は、はじめの球しか受けてないはずだが」
「ううん。たぶん合ってる!今日はどうしていなかったの?」
「ああ、今日は自主練の日だからな。はじめは自主練には滅多に来ないんだ」
「そうなんだ」
そう、皮肉なことに今日は金曜日。
常盤中のほとんどの部活が自主練の日であり、故に弟月はじめは部活に出ていなかった。
「ん?ということは、入学式の日も部活を見に来てたのか?」
「うん。ちょっと様子見てみようかと思って」
「言ってくれればよかったのに」
そう、入学したばかりの石田文は、知らなかったのだ。
「・・・なあ文。ちょっといいか?」
「なに?どうしたの?」
「文に伝えたいことがあるんだ」
この皮肉に満ちた些細なすれ違いが、石田文と中村拓。さらには周囲の人々も巻き込んだ、運命の分岐点となる。
これも、気まぐれな青春による、趣味の悪い悪戯なのかもしれない。
それから時は流れ、弟月はじめへの想いと中村拓からの想いに挟まれたまま、石田文は2年生になった。
当然、一つ上のはじめや拓は3年生なわけで、タイムリミットは刻一刻と近づいていた。
そんなある日。
夏休みの初日である今日という日が、あの日分岐した運命と、その隣で流れる青春の合流点となる。
石田家
「んー。おはよー」
昼前に起きた石田文は寝ぼけたまま制服に着替え、朝食兼昼食を取るためにリビングに来ていた。
「あれ?武まだ起きてないの?」
「もう部活に行ったわよ」
「ああ、そっかー」
母親が用意してくれたトーストをかじりながら、未だ半分眠ったままの脳で今日の予定を確認する。
如月かんなの提案で生徒会役員となった4人の生徒。
その内、中村拓と石田武は野球部。松咲花と石田文はバドミントン部にそれぞれ所属しており、部活に所属しない如月かんなへの負担は自然と大きくなっていた。
4人はいずれも生徒会選挙の最終候補者に選ばれたほどの人格者であり、かんなに負担を強いることのないように勤めてはいた。
しかし、かんなの仕事は4人の心配を凌駕するほど正確かつ迅速であり、時が経つにつれてその完璧さに頼るようになってしまっていた。
そして、一学期の最後の週。
珍しく体調を崩した如月かんなの抜けた穴は大きく、生徒会の雑務が夏休みにまで及んでしまったのだった。
「それじゃ、いってきまーす」
「気をつけてねー」
母に見送られ、文は学校を目指す。
今日が青春の合流点などとは、夢にも思わずに。
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