第7話 弟月はじめの青春 その2
12月3日 放課後 校舎2階休憩所
「いやー、さすがかんな。上手くやったな」
生徒会選挙の余韻を残したままやってきた週末。
いつものように自主練を自主的に休んでいる弟月はじめと、見事生徒会選挙に当選した如月かんなは、いつもの席で雑談に興じていた。
「まさかあいつらを生徒会役員に任命するとはな」
「なかなか良いアイデアでしょ?」
人差し指を顎に当て、わざとらしく首を傾げるかんな。
その仕草に、冷静を装うはじめの心音は明らかに速度を早めた。
12月2日 朝
最終投票の次の日。
始業時間よりもかなり早めに学校に着いたかんなは、二年教室にやってきた赤みどりに拉致されていた。
「ちょっと先輩!?どこ行くんですか!?」
「まあまあ。面白いとこだよ」
珍しく慌てふためくかんなの腕をグイグイと引っ張り、たどり着いた場所は放送室だった。
「さあ、はいったはいった!」
何が何だかわからないまま、赤の手によって強引に開かれた扉の先には、
「かんなおめでとう!」
「うわ!」
こちらに向けてクラッカーを鳴らす青りんごの姿があった。
呆けた顔をするかんなを見て、満足したように笑う赤がようやく状況説明を始める。
「如月生徒会長の誕生日ってわけだよ!」
よく見ると、青の前の机にはろうそくが一本だけ刺さったショートケーキが置かれていた。
「まあ、正式にはまだだけどね」
「もう、みどりは空気読めないなー」
馴れ合う先輩ふたりを見てようやく我に返ったかんなは、込み上げる嬉しさから身を震わせた。
「ところでかんなちゃん。この放送室を使ってしたいことがあるんじゃない?」
「・・・赤会長ってはじめくんと同じくらい扱いづらいですね」
「それは褒め言葉かな?」
けろっとした顔でこちらを見てくる赤に、かんなは感服の意を込めて溜息まじりに頷く。
この先輩には敵わないと、心の中で白旗を振りながら。
ピンポンパンポーン
始業を告げるチャイムの少し後、対比で陽気に聞こえるチャイム音が校内に鳴り響く。
「みんなの生徒会長赤みどりですよ〜。突然ですが問題です!赤と緑を混ぜると何色になるでしょうか?チックタック、チックタック。正解は・・・レインボーでした〜!今、茶色と思ったそこのあなた。その思考回路は腐りかけています。今すぐに脳内を浄化しないと手遅れになりますよ。それは是が非でも阻止したいですよね。そんなあなたにオススメなのがこの壺。今ならなんと5万円から・・っイタタッ!!」
「任期満了間近の赤会長が失礼しました。本日は赤ではなく、この人から発表があります」
暴走する赤を止める青のファインプレー。
各教室では事前に担任から説明があったため、生徒たちの意識は自然と放送の内容へ向いている。
「えー、皆さんおはようございます。如月かんなです。先日行われた生徒会選挙ですが、私が次期生徒会長に選ばれる結果となりました。応援してくれた皆さん、ありがとうございます」
赤と違いきっちりとした話し方のおかげで、全校生徒の頭に内容がスッと入る。
「それでですね。これは私の提案というか、お願いというか、只のわがままなんですけど。最終候補に残っていた他の4人にですね。生徒会役員になって、一緒に学校を盛り上げて欲しいんですよ」
かんなの発言に、各教室にざわめきが広がる。
「ルールに則ると強制もできてしまうんですが、私は4人の意見を尊重したいと思うので、意志があれば立候補して欲しいんです。よろしくお願いします!」
「はいはーい。次期生徒会長のかんなちゃんでした〜。それにしても2年連続女子が生徒会長とは考え深いですね。考え深い・・いや、よく考えると別に深くないですね。考え浅い。浅いといえば、私最近浅漬けにハマってまして、この間も・・」
ピンポンパンポーン
青がボタンを押したと思われるチャイム音によって、赤の言葉が遮られるかたちで朝の緊急放送は終了した。
「よーし、それじゃあ授業始めるぞー」
担任の声で生徒たちの意識は日常へと舞い戻る。
最終候補者の4人に、咲く花が分かっている種を植え付けて。
12月3日 放課後 校舎2階休憩所
「演説の前から決めてたんだろ?」
「やっぱはじめくんにはばれてたかー」
お見通しであることを見越していたかんなは、相手を讃えるように手を合わせた。
如月かんなが演説で公約として挙げた二つの内の一つ。
『如月かんなに票を入れた生徒からは生徒会役員を選出しない』
生徒会役員に選ばれたくない生徒の浮動票を獲得するための公約だったのだが、これには一つ問題があった。
というのも、投票は匿名であるため誰が誰に投票したか判らないのだ。
この性質にいち早く気づいた弟月はじめは、ある結論に至っていた。
それこそが『最終候補者から生徒会役員を選出する』というものだった。
先日演説を行った5人に関しては投票権がなかったため、公約を守りながら最終候補に選ばれるほど人望の厚い生徒を役員にできるといったわけだ。
もっと言うと、杉咲花の了承を得たことで、同じ部活の後輩である石田文もほぼ確定。
これにより、文に恋心を抱く中村拓の加入も濃厚であり、そうなれば彼が主将を務める野球部の後輩であり、従兄弟でもある石田武も断る理由はないだろう。
更に、拓と文が同じ生徒会役員となることで、かんなが約束した『拓の望む方向』に一歩進むというわけだ。
そして、その結果は既に出ており、最終候補者の4人はかんなの提案を受け入れ、この後生徒会室に集まる手筈となっていた。
「一つだけ訊いてもいいか?」
「うん。いーよ」
「拓に何を吹き込んだんだ?」
「うーん。やっぱ気になるよねー」
訊かれると予想していたのか、苦笑いを浮かべながら、かんなはこう答えた。
「それは、今は言えないかなー」
「そうか・・・」
はじめの反応が想像より暗かったことが気になったが、生徒会の集合時間が近づいていたため、「そろそろ行くね」と声をかけて、かんなは生徒会室へと向かう。
その背中を見送ったはじめは、複雑な表情を浮かべ、ひとり帰路についた。
「はじめちゃ〜ん。一緒に帰ろう!」
「ん?なんだ徹か・・・」
「ちょっとひどくない!?」
校門を潜ろうかといったタイミングで、はじめに話しかけてきたのは同じ野球部に所属する九重徹であった。
「練習はよかったのか?」
「だってたくみんとたけみんは生徒会だし、はじめちゃんも来ないんだもん」
「そうか」
どうやら、中村拓と石田武の不在を理由に、自主練は中止となったようだ。
「そうだ徹。ちょっと寄り道して行かないか」
「別にいーけど、金ないよ」
「そういや俺もピンチだな。それなら・・・」
学校からそこまで離れておらず、お金がかからないという条件で場所を絞り込んだはじめの脳内では、一つのポイントがヒットしていた。
その場所で近い将来。九重徹は運命の出会いを果たすのだが、それはまた別の青春のお話。
「着いたぞー」
「おう、いい景色っしょ」
長らく手入れをされた形跡のない神社。
長い石段を登った先にあるこの神社の裏側には、常盤町を一望できる隠れスポットがあった。
「んー、今日はいないみたいだな」
「はじめちゃん。どうしたの?」
「いや、なんでもない」
言葉を交わしながら、まるでその為に置かれているかのような大きな石に腰掛ける。
「はじめちゃん。なにかあった?」
「・・・わかるか?」
「野球は心を通わせるスポーツっしょ」
夕日に照らされた眩しいくらいの徹の笑顔に、苦笑いを浮かべるはじめが観念したように言葉を吐き出す。
「この間、拓の密会を尾行しただろ」
「ああ、あのうらやま・・おもてやましい事件ね」
『おもてやましい』が、一体どういう感情なのかは理解できなかったが、ツッコむと長くなりそうなので無視して話を進める。
「その時ちょっと気になることがあってさ。あの後、もう一回あの場所に行ってみたんだよ」
ちょうど一週間前の今頃。
中村拓と松咲花の密会現場を、はじめと徹は盗み見していた。
その後、気づかれそうになったはじめと徹は、近くの空き教室に逃げ込んだのだが、その時にすれちがった女子生徒がいたのだ。
その女子生徒。如月かんなが、あの場所にいたことを不自然に感じたはじめは、徹と別れた後、屋上へと続く階段に戻った。
そして、そこで険しい顔で言葉を交わす拓とかんなの姿を見たのだった。
「・・・ってことがあったんだけど、どう思う?」
「え、浮気じゃん!たくみんがそんな『みたらし男子』だったなんて・・」
徹が言いたかったのは『たらし』のことだろうと理解した上で、女たらしな男子のことを『みたらし男子』と呼ぶのは流行りそうだなと考えるはじめ。
「たらし」と「みたらし」。「男子」と「団子」が二重で掛かっていていい感じだ。
まあ今回の場合、拓と花は付き合っている訳ではなく、あくまで徹の勘違いによるもので、風評被害も甚だしい指摘なわけだが。
それに、付き合い始めた数秒後に浮気をするなんて、女たらしというよりもサイコパスの域だ。
心の中で一通りのツッコミを終えたはじめは、話を本題へと戻した。
「拓が演説で言ったこと覚えてるか?」
「えーと確か『俺に票を入れてくれるつもりだった人は、如月かんなに入れて欲しい』でしょ?』
あまり似ていない中村拓の真似をしながら徹が答える。
はじめはコクリと頷いた。
「拓がああ言ったのには理由があるはずなんだ。それこそ、かんなに何か吹き込まれたとかな」
中村拓とは中学からの付き合いであるため、彼と石田兄妹がいとこ関係にあることなど知らないはじめは、拓とかんなの間で交わされたやりとりを測りかねていた。
まあ、知っていたとして、その解に辿り着けていたかは疑問だが。
「はじめちゃんが解らないのに、俺が解るわけないっしょ」
「まあ、それもそうだな」
「でも・・・」
「でも?」
思わせぶりに間を置く徹に歯がゆさを覚えるはじめ。
いつもよりも落ち着きのない友の様子に気がついた徹は、視線を町の方に移してこう言った。
「わからないことをいくら考えても、わからないままっしょ」
「・・・・・それもそうだな」
徹の言葉を受け取ったはじめは、自分の悩みが急に馬鹿馬鹿しくなり、負の感情を搔き消すように笑い出した。
それに釣られるように、徹も腹を抱えて笑う。
ふたりの笑い声が夕暮れ時の町へと溶け込んでいく。
こうして、様々な思惑が交差した生徒会選挙は、一度その幕を閉じた。
弟月はじめの心の奥底に、わずかなしこりを残して。
中学三年 夏
時は流れ、如月かんなは生徒会長として、弟月はじめは野球部のエースとして、その地位を各々の肩書きとして確立させていた。
そして、今日は夏休み初日。
休みといっても、弟月はじめの所属する野球部は練習日であった。
合同チームとして大会に参加することになった丸美屋中の野球部との顔合わせの日でもあるため、はじめは朝早くから学校を訪れていた。
「ちーす」
「「「ちーす」」」
練習着の後ろポケットに片方の手を突っ込み、もう片方の手で欠伸をする口元を隠しながら、グラウンドにやってきたはじめ。
そのだらけた態度と、集合時間ギリギリにやってきたという事実から、後輩たちの挨拶も自然と緩くなる。
「おう、やっと来たか」
「はじめちゃん遅いっしょ」
今日から合流する丸美屋中の野球部のために、部室を整理していた中村拓と九重徹が揃って顔を出す。
その状況から、昨日拓が「明日は部室を整理するから早く来いよ」と言っていたのを思い出し、「あーすまん」と、やはり眠そうに欠伸を噛み締めながら詫びを入れた。
そんな横柄とも取れる態度を前にしても、拓の顔に怒りや憐れみの色が浮かぶことはなかった。
そんな彼のポーカーフェイスっぷりを、隣でブーブーと文句を垂れる徹が引き立たせている。
そんないつも通りの野球部の光景の中に、
「みんな揃ってますね」
野球部顧問である田辺が、新たなる青春を引き連れてやってきた。
『おはようございます』
「はい。おはようございます」
常盤中野球部の元気な挨拶に柔和な笑みで返す田辺は、自身の背後にいる5つの人影に向かって視線で合図を送った。
それに気づいた一つの人影が、後ろポケットに両手を突っ込んで一歩踏み出す。
常盤中野球部主将である拓も一歩前に出たところで、田辺が口を開いた。
「今日から大会までの一ヶ月弱。皆さんのチームメイトとなる丸美屋中の皆さんです」
「丸美屋中野球部キャプテン梅月松竹。まあ一つよろしく頼む」
「常盤中野球部キャプテン中村拓だ。よろしく」
田辺を間に挟み握手を交わす二校の主将たち。
梅月松竹と名乗る男は、飄々という言葉がぴったりな態度と、同学年と比べて低めの身長が特徴的だ。
「ねえ、はじめちゃん。チーム名ってどうなるんかな?」
「さあな。無難に『常盤丸美屋合同野球部』とかじゃね?」
「えー。なんかカッコ悪くない?もっとこう『ジャイアンツ・タイガース』とかさあ?」
「いや、俺らと何も関係ねえじゃん」
その裏では、はじめと徹がいつも通りの会話を繰り広げていると。
「おうおう、それ俺も考えてきたぜ!」
「ほほう。聞かせて貰おうか?」
「名付けて『トキワ・マルミーヤ』よ!どうだ!」
「おー!なんか美味しそうっしょ!」
そこに割り込むかたちで握手を終えた梅月松竹が登場し、初対面のはずの九重徹と肩を組んで踊り出した。
「初見で徹に合わせられるやつがいたとはな・・・」
そんなカオスな状況から逃げ出すように、ちょっとした疎外感を感じながら歩き出すはじめ。
その前に、背の高い一人の男が立ちはだかる。
「あー、すまん。お前も丸美屋中の奴だよな?」
「・・・」
はじめの問いかけに、背の高い男は何も応えない。
「なんだよ、どいつもこいつも」
不貞腐れたはじめがその場を離れようとすると、
「・・・まって」
名前も知らない長身の男が、腕を掴んではじめを引き止めた。
「・・・つき・・しゅん」
「え?」
何かを伝えようとしていることは伝わるのだが、肝心の内容が聞き取れない。
どうしたものかと立ち往生していると、そこに丸美屋中野球部主将の梅月松竹が現れた。
「あー、すまんな。うちのエースが」
「エース?こいつが?」
梅月松竹の言葉を受け、長身の男を値踏みするような目でまじまじと見つめる。
「こいつは極度の人見知りでな。それに加えて声が極端に小さいんだわ」
「しょう・・・へるぷ」
長身の男が、表情を変えないまま視線だけを梅月松竹へと向ける。
「ああ、わかったよ。こいつは睦月王春。俺の幼馴染で、丸美屋中野球部のエースナンバーを背負う男だ」
梅月松竹が睦月王春の体を回転させ、はじめに背番号を見せつけようとする。
「いや、練習着だから背番号はわからんが」
「あー、そういえばそうだな」
ミスもご愛嬌といった感じで、後ろ頭をポイポリと掻きながら笑う梅月。
そこに「もう、しょうちゃんはドジっしょー」と、九重徹が乱入し、何故か笑いながら睦月王春の背中を叩き出した。
「・・・いたい」
睦月王春という仰々しい名前がぴったりな長身の男は、梅月松竹に回転させられたままの向きで、九重徹に叩かれ、固まっている。
「大丈夫か。このチーム・・・」
不安そうに呟かれたはじめの言葉は、総勢11人となった野球部の誰の耳にも届かず、太陽の光と共に真夏のグラウンドへ溶け込んでいった。
「それじゃあ、睦月。ストレートから頼む」
「・・・うん」
ランニングに体操にキャッチボール。
一通りの基本練習を終えた野球部の面々は、今日が初めての合同練習ということで、交流の意味も踏まえた練習を行っていた。
すっかり意気投合した梅月松竹と九重徹は、キャッチボールの延長で遠投を行っており、先ほどから、
「俺はまだまだいけるぜー!」
「こっちもまだ余裕っしょ!」
などといった大声での会話を交わしながら、心の距離と反比例するように、その距離を段々と広げていた。
2年生組は丸美屋中の生徒も3人ということで、それぞれが交代でキャッチボールをしながら親睦を深めている。
そして、ブルペンでは捕手側に中村拓が、投手側に弟月はじめと睦月王春がおり、現在は王春の球を拓が受けている状況だった。
「おう。なかなか速いな。はじめといい勝負じゃないか?」
「は!?どうみても、俺の方が速いだろ」
抗議するはじめの声を受け流し、再度球を要求する拓。
それに頷くと、拓が構えたミットに向かって一直線に球が放られた。
「コントロールも抜群だな。はじめ危ないぞ」
「・・・」
拓の言葉に今度は反論することをしなかった。
いや、出来なかったという方が正しかった。
それほどに王春の制球を正確で、拓は構えたミットを一ミリも動かしていなかったのだ。
まぐれである可能性も考え、もう一度彼の投球を観察する。
パンッ
ミットにボールが収まる瞬間の乾いた音。
今まで何度も聞いてきたその音が、気持ち良さの象徴であるはずのその音が、今のはじめの耳には全く違った窮屈な音に聞こえる。
それは睦月王春という存在が、弟月はじめの築き上げてきたものを奪ってしまう存在になり得ると、はじめ自身が感じたことの証明だった。
そして、そこに追い打ちをかけるように、拓の元へ一人の男が駆け寄る。
「どうよ?うちのエースは?」
「ああ。良いピッチャーだな」
「そうだろ。なんてたってうちのエースだからな」
遠投を終えた梅月松竹が、拓に向かって「大事なことだから2回言ってやったぜ」と、睦月王春の自慢を始める。
「なになに。もしかしてはじめちゃんピンチ!?」
松竹よりも遅れてやってきた徹が、はじめと王春がいる投手側に駆け寄り、いつもの冗談交じりの笑顔ではじめに話しかけてくる。
「まあな・・・」
しかし、今のはじめは、その冗談に上手いこと返すだけの心の余裕を持ち合わせてはいなかった。
他の部活との兼ね合いで練習は昼で終わり、野球部の面々は部室で帰りの支度を始めていた。
常盤中の野球部の部室は3つあり、3年と2年しかいない今は、1つを用具倉庫として使い、残りの2つを各学年で使用している。
「あれ?たくみん制服?」
「ああ。この後生徒会の集まりがあってな」
「ふーん」
アンダーシャツを脱ぎ、上半身裸となった徹が興味なさげに呟く。
「おう、なかなかいい体してんな!まあ、俺も負けてねえけど」
「お!さすがしょうちゃん!ムチムチっしょ!」
ムキムキをムチムチと言い間違えてしまう無知無知な徹と、梅月松竹のボディビル大会が始まる。
一方の睦月王春は、借りてきた猫のように大人しく、帰りの支度を黙々と進めていた。
和やかな空気のまま合同練習の初日は終わるものかと思われたのだが、
「おいはじめ。さっきの投球はなんだ」
「は?」
そう上手くいくほど、青春は甘くなかった。
はじめと拓と徹に、梅月松竹と睦月王春を加えた5人が屯する三年組の部室に、不穏な空気が流れる。
「初日から飛ばす必要はねえだろ。調整だよ調整」
スパイクの紐を解きながら、拓の問いに答えるはじめ。
「何が調整だ。びびっただけじゃないのか?」
「・・・なんだと」
拓の言葉にわずかに眉を上げたはじめは、顔を上げ、睨むような目つきで拓を見る。
「大体お前はいつもそうだ。練習はまともに来ないし、大事な時にすぐ逃げる」
「おい、いい加減にしろよ!」
荒々しく立ち上がったはじめが、上半身だけ制服姿となった拓の胸ぐらを掴む。
「ちょっ、はじめちゃん!?落ち着くっしょ!」
「けんか・・よくない」
そんな剣呑な雰囲気をいち早く察した徹と王春が、二人の間に割って入る。
拓の胸ぐらを掴んでいたはじめの手は外されたが、興奮状態はそう簡単に冷めない。
「はじめ。今のお前は・・・」
「たくみんも落ち着くっしょ!」
いつもは冷静な拓も、一度暴走を始めた心を上手くコントロールできないでいた。
「エース失格だよ」
「・・っ!」
決定打となる言葉を浴びたことで、はじめの中でなにかが壊れた。
無意識の内に握られた拳が、拓目掛けて振り下ろされようかとしたその時、
「ばかやろう!!!」
部室内に、梅月松竹の叫び声が響き渡った。
「中村に弟月!お前らそれでもキャプテンにエースか!?」
体格は他の者と比べて一回り小さいにも関わらず、今の松竹はここにいる誰よりも迫力があった。
「いいか!キャプテンやエースの前に、後輩を怯えさすようじゃ先輩失格じゃ!!」
拓とはじめが松竹の言葉の意味に気づき、部室の入口付近に視線を移す。
そこには、ふたりの姿を見て怯える2年組の姿があった。
「キャプテン?先輩?冗談ですよね・・・」
口を開いたのは、2年組の中でも特にふたりと親交が深い石田武だった。
そのおかげで視野が広がったはじめは、苛立ち混じりの舌打ちを残し、部室を飛び出した。
「はじめちゃん!?ちょっと待つっしょ!」
「やめとけ。気持ちは分かるがひとりにしてやれ」
追いかけようとする徹を松竹が引き留め、はじめはグラウンドを後にした。
こうして、幸先の良いスタートに見えた合同野球部練習初日は、最後の最後に最悪のスタートへと形を変えて、その幕を閉じたのだった。
「はあ・・・」
野球部の練習着に身を包んだ少年の溜息が、セミの鳴き声に掻き消されながら、真夏の町の一部となって消えていく。
丸美屋中野球部との顔合わせがメインの練習を終えた弟月はじめは、いつもの帰り道を外れ、海が見える歩道をひとりで歩いていた。
彼の溜息の理由は明確。親友との初めての喧嘩だった。
今までなんだかんだ上手くやってきたのだが、今日はどうしても我慢できなかった。
はじめにとって『エース』という肩書きは、想い人である如月かんなとの繋がりを対等だと認識できる唯一のブランドなのだ。
それを失った瞬間。二度と彼女と同じステージに立つことは出来なくなるといった抽象的な錯覚が、彼の脳内にはこびりついていた。
故に、拓が最後に発した「エース失格」という言葉は、はじめの心に深く突き刺さったのだ。
時折自分自身のことをそう表現することはあったが、他の誰でもないバッテリーを組む拓に言われたのでは、言葉の重みがまるで違った。
まあ、それ以外の指摘は尤もであり、タイミングが悪かったという点を含めても、はじめに非があることは否めないが。
「ん?」
そんな不安定な感情を抱きながら歩くはじめの目に、一人の少女の姿が映った。
と、次の瞬間。
「・・・あっ、弟月さん!遅いですよ」
「は!?」
どこか見覚えのあるその少女は、はじめの姿に気づくなり、意味深な言葉と共にその足をはじめの方へと向け、最後には彼の腰に腕を回すように抱きついたのだった。
そんな非日常的な展開に、はじめは豆鉄砲を食らった鳩のような顔で身体中を硬直させる。
季節は夏。
気温の上昇と共に心のボルテージも高まることから、恋の季節とも称される季節。
人生の春。
青い春を加速させる夏という季節に、弟月はじめの青春に1人の少女が迷い込む。
果たして、その結末はどう転ぶのか。
それは、次に自分の鼓膜に届くのが、波の音かセミの鳴き声か判らないように。
今のこの時点では、誰にも予測できないのであった。
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