第3話 如月かんなの青春 その1
幼少期の如月かんなは、完璧とは程遠い極めて平凡な女の子であった。
勉強もスポーツも容姿も全てが平均的。
間違っても才に恵まれた子どもなどではなかった。
そんな女の子は、ある夏の日、1人の少年と出会った。
その少年も決して特別な子どもではなかったが、彼女の目には違って見えた。
自分にはない『何か』を持っているように映ったのだ。
そして、その事実は、良くも悪くも少女を大きく変えた。
果たして少女が手にしたのは、少年が持っていた『何か』だったのだろうか。
如月かんなは、中学生となった今も、その答えを持ち合わせてはいない。
中学二年 冬
冬特有の乾いた風が、学生に平等に訪れる無慈悲な別れを連想させる。
「か〜ん〜な!!」
「わぁ!」
4限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、昼休みとなった教室。
号令で立ち上がった後、購買に向かうかどうかで迷っていた如月かんな。
綺麗な髪を器用に編み、校則を破らない程度に制服を上手く着崩した彼女に、1人の女子生徒が後ろから抱きつくかたちで飛びついた。
「かんなの抱き心地は抱き枕を軽く凌駕しますね。私専用の抱き枕になってはくれませんか?」
「もう、花ってば。みんなの前で止めてよ〜」
花と呼ばれた女子生徒は、かんなの言葉に聞く耳を持たず、中学生の華奢な手が発展途上の体を縦横無尽に駆け巡る。
クラスの中でも美少女として有名な2人のイチャイチャに、教室の男子たちの視線は自然と釘付けになる。
男子たちの邪な視線に気づいたほかの女子生徒たちが、「男子サイテー」「変態」と非難の声を上げ始めた。
ピンポンパンポーン
そんなカオスな状況の教室に、陽気なチャイムの音が響く。
『常盤中のみんな〜!げんき〜?』
子供向け番組のような呼びかけが流れるが、その問いかけに応える生徒は現れない。
『あれ〜?聞こえないなあ?もう一度聞くよ!みんな〜!げんき〜?』
再度の問いかけに「げっ、げんきー」といった声が、校内の至る所からポツポツと聞こえ始めた。
『まあ、返事があってもなくても、放送室には聞こえないんだけどね!』
反応に困る生徒たちを置き去りに、やけにテンションの高い放送は続く。
『ハッ!私としたことが名乗るのを忘れていたね!もう気づいている人も多いと思うけど、生徒会長の赤みどりです。赤に緑で赤みどり。信号の色に例えて、止まった方が良いのか進んで良いのかかよく判らないと言われることがありますが、人生には黄色。すなわち立ち止まる時があっても良いと私は思うのです!』
良い話のように聞こえる雑談を、校内放送で突然喋り出す生徒会長。
長々と話しているが、放送の趣旨と思われる内容は未だに一つもない。
『えっ、早く内容を話せ?もう放送委員長ったら、そんな恐い顔しなさんなって!そんな顔ばっかしてるから彼氏に逃げられ・・っイタタッ!!』
生徒会長の悲鳴を最後に、束の間の沈黙が訪れる。
しばらくすると、やや投げやりになった生徒会長が再び放送を始めた。
『えー、私としては信号機の進めは青色なのか緑色なのかという全人類の永遠のテーマについて徹底討論といきたかったのですが、大人の事情というやつで、早速本題に移りたいと思いまーす』
(一体何処が早速なんだ?)
全校生徒の脳内に同様の疑問が浮かんだ。
『私、赤みどりをはじめとした現生徒会は、2学期の終業と共に解散となります。よって、12月1日。今から2週間後に次期生徒会選挙を執り行います!!』
長々と引っ張った挙句に内容は生徒会の選挙。
多くの学校では一部の生徒しか関心を示さないような内容であったが、ここ常盤中学校の生徒は固唾を呑んで耳を傾けていた。
というのも、常盤中学校の生徒会の引き継ぎの全てはその年の生徒会長に一任されており、その決め方も生徒会長の言った通りとなるのだ。
極端な話、生徒会長が「お前次の会長な!」と指名してしまえば、その生徒が次期生徒会長となってしまうわけだ。
「自分が指名されるのでは?」という恐怖感と、単純な好奇心から全生徒の関心が放送に集まる。
『そして、肝心の方法ですが・・・今年は全生徒が生徒会長に強制立候補となります!!!』
生徒会長の思いがけない発表に、校舎のあちらこちらで様々な声が響き渡った。
放課後 校舎2階休憩所
部活に所属しない如月かんなは、先生の頼まれごとを片付けると、すっかり恒例となっている場所を訪れた。
「はじめくん!部活は?」
「グラウンドに未確認危険生物が大量発生してな。避難中だ」
「ふーん」
弟月はじめの話ではパニック状態であろうグラウンドからは、元気な部活生の掛け声が聞こえてくる。
彼の冗談にツッコむことも乗ることせず、かんなは隣の椅子に腰かけた。
「今回の選挙は最高だな」
「へぇー、はじめ君は乗り気なんだ」
「まあな。あのシステムならサボり常連の俺はまず選ばれんだろ」
自嘲気味に笑うはじめに合わせて、「確かに」とかんながくすくすと微笑む。
その光景は、側から見るとカップルのそれと同じであった。
しかし、当の本人たちは、まるでそんなことなど気にしていないかのように、至って自然に言葉を紡いでいく。
「それにしてもかんなは大変だな」
「なんで?」
「だって、間違いなく最終候補に残るだろ」
「そうかな?」
昼休みに大まかな発表があった後、放課後にはその詳細がプリントにまとめられて配られた。
現生徒会長の長すぎる前置きを除いた主な概要は、以下の通りだった。
1.候補は新生徒会長のみとし、候補者は1年生と2年生の全生徒とする。
2.1週間後の11月24日に一次投票を行い、候補者を5名にまで絞る。
3.2週間後の12月1日に演説及び最終投票を行い、新生徒会長を決する。
4.新生徒会の構成については新生徒会長に一任するものとする。
現生徒会長の性格が、良くも悪くも大きく反映された結果だといえるだろう。
「まぁ、かんなは最終候補確定だよ。嫌か?」
「嫌ではない・・かな」
それは如月かんなにとって、むしろ好都合なことだったが、その理由故に彼女は口を濁した。
「そろそろ部活に顔出すかな」
「未確認危険生物はもういいの?」
「ああ。怒ったキャプテンの方が恐いからな」
そう言い残すと、弟月はじめはグラウンドへと歩きだした。
「負けてらんないな」
その姿を見送ると、如月かんなは張り詰めていた糸を緩め、机に突っ伏した。
小学三年 夏
如月かんなは夏休みを利用して祖母の家を訪ねていた。
「かんなちゃん。お昼はなに食べたい?」
「・・・なんでも」
「そう、じゃあ素麺でいいかい?」
「うん」
かんなに対して優しい笑顔を見せると、祖母は台所へと歩いていった。
残されたかんなは、読んでいた本に栞を挟むと、退屈そうに溜息をこぼした。
小学生の如月かんなは『特別』に憧れていた。
より正確に言うならば、幼少期の自分に両親が向ける無償の愛。その特別感が忘れられなかったのだ。
小学校という小さな社会に一歩出て、少女は気づいてしまった。
自分が特別ではないということに。
その事実は彼女にとって、行動を制限する足枷となった。
凡庸な者は目立ってはいけない。
小さな少女が導き出した答えは、あまりにも辛く現実的なものだったのだ。
「はい、おまたせ」
腰を曲げ、少しおぼつかない足取りの祖母が、ガラスの器に盛られた素麺をテーブルに置く。
静かに座り直したかんなは「いただきます」とボソッと呟き、小さな手で箸を手に取った。
チリン
ベランダに繋がるドアに設置された風鈴が、耳心地の良い音色を奏でる。
しかし、社会を拒絶する少女の耳には、自然が生み出す綺麗な音が、自分と世界とを乖離する不協和音として届いていた。
「あら、お出かけかい?」
玄関で靴紐を結んでいたかんなに、祖母が後ろから声をかける。
マジックテープから紐に変えたばかりの彼女は、紐を結ぶのに苦戦している様子だ。
「うっ、うん。図書室に勉強に」
「そうかい。そうかい」
何も持たずに勉強に行くという少女に、敢えて言及することはせず、優しい声色で頷く祖母。
嘘がバレていないと安堵した少女は、再び靴紐を結ぶことに意識を集中する。
「できた!」
数秒後、少女の足元には二つの不格好な蝶々ができていた。
「それじゃあ、行ってきます」
「ああ、気をつけてね」
「いってらっしゃい」と手を振る祖母に、少しの罪悪感を覚えつつ、少女はドアをゆっくりと開く。
もわっと包み込むような熱気に歓迎された少女は、夏の景色の中を小さな足で駆けだした。
都会とは程遠いが、田舎と呼ぶには自然が少なすぎる町。
その町の中でも比較的緑が多い区画の片隅には、長らく手入れをされた形跡のない神社がある。
その神社へと続く石段を、小さな足で必死に登る、一人の少女の姿があった。
「おじゃましまーす」
石段を登り終えた少女が、寝起きドッキリに来た仕掛け人のような声で、誰もいない神社に呼びかける。
返事はないが、少女はそれを当然のように受け入れると、境内へと足を踏み入れた。
少女の目的地は既に決まっているらしく、小さな足は迷うことなく社殿の横へと進む。
しかし、社殿の曲がり角まで到達した時、少女の足は歩みを突然止めた。
「だれ?」
少女が紡いだ素朴な疑問。
それは、社殿の横で子猫と戯れる1人の少年に向けられたものだった。
「んにゃー」
「お腹空いたのか?」
「にゃーご」
「そうか」
まるで本当に会話をしているかのように、子猫に向かって言葉をかける少年。
少女はその少年と子猫の様子を、値踏みするような鋭い目で見つめた。
少女は、祖母の家を訪れたその日に、家の周辺を案内してもらっていた。
その時に訪れた神社でこの子猫の存在を知り、それから毎日のように会いに来ていたのだ。
悪いことをしているわけではないが、少女はこのことを祖母に話していない。
知られても問題はないが、秘事を楽しんでいるのだ。
祖母の話では、子猫は誰かに飼われているわけではなく、近所の猫好きが餌をあげているらしい。
そして、今。
いつものように子猫に癒しを求めてやってくると、見知らぬ少年が先客として居たというわけだ。
(あ・・・)
社殿に背中を貼り付け、さながらスパイのような形で少年の様子を観察していた少女。
その集中力が小学3年生の限界に近づきつつあった時、彼女は自身の靴の紐がほどけていることに気がついた。
(結びが甘かったのかな)
そんなことを考えながら、靴紐を結び直すためにしゃがみこむ。
そう、少女はビニールテープの靴から紐の靴に変えたばかりだったのだ。
この年相応の可愛らしい変化が、年相応の油断を生み、結果として少女をピンチへ導くことになる。
「だれだ!!」
古びた神社に少年の叫び声が響く。
靴紐を結ぼうとした際に、少女の重心の些細な変化から、大きすぎはしないが、決して小さくもない音が生まれてしまったのだ。
咄嗟に反応したかんなは両手で自身の口を塞ぎ、身を潜める。
解けたままの靴紐。泣きわめくセミの声。高鳴る鼓動の音。
少女の身体をかつてない緊張が硬直させる。
(お願い。来ないで)
そんな少女のささやかな希望をあざ笑うかのように。少年のものと思われる足音が、こちらにしっかりと確実に近づいてくる。
その音が少女のすぐ側で止み、少女の鼓動の高鳴りが最高潮に達した時。
少年の声が少女の耳に突き刺さった。
「なんてな。驚かせてごめん。大丈夫か?」
「えっ?」
先ほどまで硬直していた少女の体はだらりと緩み、脳内はたくさんのはてなマークで埋め尽くされた。
「お前、よくここに来てたろ?」
「うっ、うん」
「俺もここの常連なんだ!よろしくな」
少年が真っ直ぐな笑顔で差し伸べてきた手を、恐る恐るであるがしっかりと握る。
「同じ学校じゃないよな?」
「うん。おばあちゃんちにきてて」
「そうなんだ。猫好きなの?」
「うん!大好き!!」
今日一番の目の輝きを見せる少女に、少年は少し驚いた顔をする。
それからニカッと笑って、手に持っていた猫の餌を差し出し。
「あげてみる?」
と、少女に尋ねた。
その問いかけに「うん!」と元気に頷くと、少女は餌を片手に子猫の元へ駆けた。
解けたままの靴紐など記憶の彼方に飛んでしまったかのような、元気な足取りで。
その日から、2人の間に共通の秘密事ができた。
太陽が熱気を緩め始める夕刻。
その時間に神社に集まり、子猫と遊んで癒される。
当初の目的はそれだけだったのだが、そんな日が続く内に、少女の中ではもう一つ明確な目的が生まれつつあった。
そんな生活が2週間ほど続いたある日。
「なんか、今日は元気ないな。どうかしたのか?」
「・・・うん」
古びた神社と愛くるしい子猫。泣きわめき続けるセミの声。
そして、名前も知らない同い年の優しい男の子。
すっかり日常となった光景が、少女の目の前に広がっている。
「俺でよかったら相談に乗るぞ」
こちらを真っ直ぐに見つめてくる少年の目を、見つめ返しては俯きは繰り返すこと3回。
少女は意を決したのか、拳を握り締めるとこう告げた。
「実は、明日おうちに帰るの」
「・・・そうか」
その理由は至極単純なもので、夏休みが終わりに近づいていたのだ。
つまり、少年や子猫と会えるのは今日が最後。
少年がどう返したものか悩んでいると、少女は続けてこんなことを言い始めた。
「ねえ、最後に教えて。どうしたら君みたいに特別になれるの?」
子猫に自発的に餌をあげる優しさと、見ず知らずの自分を招き入れる器の大きさ。
少女はこの2週間。少年と接することで、彼の中に自分にはない『何か』を感じていた。
それは、『特別』を求める少女にとって極めて重要なヒントであり、今後の人生を大きく変える可能性のあるものだった。
そんなことを知ってか知らずか、少年は「うーん」と頭をひねる。
「ニー」
2人の足元では、いつも通り子猫が呑気に鳴いていた。
「俺が特別かは別として。やっぱり頑張るしかないんじゃないかな」
熟孝の末、少年が導き出した答えは、当たり障りのないありふれたものであった。
しかし、彼が特別であると信じて疑わない彼女にとって、それは明確な答えとなって身体に刻み込まれた。
「そう、だよね」
納得するように頷くと、少女、如月かんなは少年の目を真っ直ぐに見つめてこう問うた。
「最後にあなたの名前を教えて」
「まだ言ってなかったっけ?俺ははじめ。弟月はじめだよ」
「はじめ・・・」
かんなは少年の名前を脳に刷り込むように復唱すると、こう続けた。
「はじめ。私、特別になって帰ってくるから」
言い残すように話すと石段の方へと駆けていく。
その直前で振り返ると。
「またね!」
と、大きく手を振り、そのまま夕暮れの町へと消えた。
取り残された少年はその背中を見送ると、子猫に対して呟いた。
「名前、聞きそびれたな・・・」
「ニー、ニー」
別れを惜しむ少年を慰めるように、少年の靴に身を寄せ付けながら鳴く子猫。
その頭を撫でながら、少年、弟月はじめは深い溜息をこぼした。
中学二年 冬
「・・・あれ?いけない、寝てた?」
自分の置かれた状況を理解するため、周囲を見渡す如月かんな。
彼女が目を覚ました場所は、校舎2階の休憩所だった。
どうやら、部活をサボっていた弟月はじめと選挙の話をした後、そのまま寝てしまっていたようだ。
「帰らなきゃ」
辺りに誰も居ないことを確認し、口からはみ出していたよだれを拭き取りつつ、席を立つ。
窓から見える景色から察するに、結構な時間眠っていたようだ。
ただでさえ日が短い季節なのだ。防犯の意味でも早く帰るに越したことはないだろう。
「ん?」
生徒用玄関に足早に向かっていたかんなの足が、ちょっとした違和感によって動きを止める。
2年1組の教室
2階の階段横にある自クラスの教室の電気が、点きっぱなしになっていたのだ。
(誰かが消し忘れたのかな?)
消し忘れであれば自分が消しておこうという純粋な善意から、彼女の足は教室へと向かう。
しかし、その足も再び止まる結果となった。
彼女の瞳に映る、いつもとは雰囲気の違う教室。
そこには、如月かんなの席に座り『如月』と書かれた体操服に身を埋めながら「かんな」と名前を連呼する、一つの人影があった。
(花?)
その正体は、かんなの親友。
放課後の誰も居ないはずの教室には、如月かんなの知らない、松咲花の姿があったのだった。
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