第9話

「それじゃあ早速ドリブルから始めようか。まずはこう重心を低くして」


 円寺えんじさんが前屈みの姿勢になるとサイズの大きいTシャツは胸元に隙間を生み出した。

 その隙間からは淡いピンク色のブラジャーに支えられた白い谷間が見える。俺は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。


「ちょっと金雀枝えにしだくん、ちゃんと見てる?」


「み、見てるよ」


 胸の谷間を。なんて言えるわけもなく、上下に移動するボールに意識を集中しようと試みる。

 しかし俺の本能はボールではなく重力に従う二つの双丘にいってしまう。


「やっぱりこの服を選んで正解だった」


「え?」


 天使の顔に悪魔のような黒いオーラが見えた気がした。


「ずーっと私の胸を見てるでしょ? バレバレだよ?」


「いや! そんな……っ!」


 顔はボールの方を向いて目だけ胸を見るように心がけていたつもりなんだけど。


「そういう反応するってことは本当に見てたんだ」


「……っ!」


 耳がカーっと赤くなって自分の顔が真っ赤になるのを感じた。カマを掛けられた。


「いいんだよ? 私が死んだら『あのおっぱいを見れた日が懐かしいな』って感慨にふけってもらえるから」


「なんだよそれ。死ぬ前にサービスしてるってこと?」


 ダムダムと響いていたボールの音が止む。


「そんなところかな。金雀枝えにしだくんの記憶には歳を取ってしわしわになったおっぱいじゃなくて、女子高生時代の綺麗なおっぱいの記憶が残る。私のおっぱいは永遠の美しさを手に入れるの」


「誰も居ないとは言え、あんまり外で女子高生がおっぱいおっぱい言うもんじゃないぞ」


 話の流れを変えたくて死ぬ関連には触れずにツッコミを入れた。


「なるほど。彼女には外でおっぱいと言ってほしくない、と。いい練習になったわ」


 俺のツッコミは円寺えんじさんにとっては最高の死に近付く一歩になってしまったらしい。


「見てるだけじゃうまくならないから俺にもボール貸してよ」


 このままだとどんどん円寺えんじさんのペースに巻き込まれてしまう。

 それならむしろ苦手な運動をする方がまだマシだ。


「ようやくヤル気を出してくれた。私の彼氏なんだからカッコイイところ見せてよね」


 円寺えんじさんがボールを投げるも『私の彼氏』なんて堂々と言われて動揺してうまく受け止められなかった。あくまで動揺したせいだ。


「ごめん。取ってくる」


 自分の手で弾いたボールはコロコロと転がっていく。こうやってボールを追いかけるのってなんか惨めだ。


「ふぅ、追い付いた」


 ボールは少しずつ減速して、俺はようやく手に取ることができた。


「こんな調子がうまくいくのかな」


 まずはドリブル練習という話だけど、このボールを扱える自信が全く湧いてこない。


「練習してできるようになるんだから、やっぱり円寺えんじさんはすごいよな」


 元々ポテンシャルが高いか、あるいはできるまで練習したのか、どちらにせよその努力できる姿勢は間違いなく円寺えんじさんの才能だと思う。


「死ぬなら俺みたいなやつだよ……」


 自分の不甲斐なさと円寺えんじさんの輝きに脳内がネガティブに埋め尽くされた。


「おーい! ボールあったー?」


 透明感のある円寺えんじさんの声が近付いてきた。小走りで胸が上下に揺れている。さっきまで死にたいという考えに支配されていたのに、おっぱいでまた生きる気力が湧いてくる。

 男が単純なのか、俺が目先の欲望に弱いのか。とにかく元気が出た。


「あんまりおっぱいに見惚れちゃダメだよ?」


「だからそんなにおっぱい言うなって」


 パスを受け取れなかったのはおっぱいを見ていたせい。円寺えんじさんの中ではそういう風に処理してくれた。

 彼女にこれ以上カッコ悪いところを見せられない。失敗したら全部おっぱいのせいにしよう。


「そもそも、そんなに露出したらただの痴女じゃない?」


「ええ!?」


 円寺えんじさんは本気で驚いている。男子高校生からしたら痴女はありがたい存在……なのか? 本物の痴女に遭遇したことがないからわからないけど。


「痴女……ちょっと辛いな。なんかこう、ただの変態というか、私が理想する人間の形ではないわね」


「わかってくれたなら良かった」


「やっぱり最高の死に方をするには一人で考えるだけじゃダメね。ありがとう。参考になった」


 感謝こそされているものの『どういたしまして』なんてともて言えなかった。またしても彼女の死を後押ししてしまったから。


「ねえ円寺えんじさん、どうしたら生きてくれるの?」


 彼女が死ぬと決めているのは高校3年生の時。それが進級してすぐの4月なのか、卒業する寸前の3月なのかはわからない。

 早くて2年後、遅くて3年後には円寺えんじさんは最高の死に方をする予定だ。

 高校に入学したばかりでずっと先のように感じるけど、人の命が掛かっている時間だと思うとすごく短く感じる。


「……私のことはいいからさ、金雀枝えにしだくんの練習しよう。私はドリブルできるって確認できたし。努力は裏切らないね」


 ふふんと得意げな表情を浮かべるいつもの天使だ。

 あんな風にバスケがうまいのも、学年トップの成績になるのも全て死というゴールを目指したものだと考えるとすごく寂しい。


円寺えんじさんはどうやって練習したの? なにか特別な方法?」


「ネットで練習法を調べてそれをひたすら一人で繰り返す!」

 思っていた以上に地味というか体育会系な練習法だった。


「友達と一緒じゃないのは意外だ」


「練習中はめっちゃ変な顔をしてる……気がするんだ。そんな姿を見られるのはイヤ」


「努力の中の努力って感じ。ほんと凄いよ円寺えんじさんは」


 優雅に見える白鳥も水の下ではものすごくジタバタしてるみたいな話だ。


「それじゃあ金雀枝えにしだくんも凄くなってみようか」


 ふふふふと黒いオーラをまといながらとびきりの笑顔で言う。


「それは遠慮しておくよ。ほら、ハイスペックな美女ってダメ男が好きだったりしない?」


「私は最高の彼氏を求めてるんだけど」


「あくまで俺は練習台だよね? 最高の彼氏ではないよね?」


 バスケがうまいことに越したことはないけど円寺えんじさんみたいになるのは無理だ。どんな手を使ってでも厳しい練習は回避したい。


「あー、ほら。そんなに胸元が緩い服だと俺の視線がイヤでしょ? やっぱり今日のところはお開きにして……」


「ダーメ」


 くるりと公園の出口に回れ右をした瞬間、左手をギュッと握られてしまった。


「もう手を握る練習は完璧。絶対に逃がさないから」


 とっても嬉しいシチュエーションとセリフのはずなのに俺の気はどんどん重くなる。


「これでバスケの練習を中止してくれたら円寺えんじさんは最高の彼女だと思うよ?」


「私は本当の彼女じゃないし」


「くうううっ!」


 自分も同じ言い訳で逃げようとしただけに何も言い返せない。


「ほら、こんなことをしてるより練習した方が有意義だよ」


 ああ、そうか。円寺えんじさんは高3で死ぬって決めてるから時間に限りがあ

るんだ。だから残された時間を自分のために使おうと……。


「わかった! わかりました。もう逃げないから」


 こんなに前向きで死にたがりな円寺えんじさんの精神状態は全く共感できないけど、俺が円寺えんじさんの時間を奪うことだけはしたくない。

 渋々ながらバスケの練習をする気になった。

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