第5話

 俺と円寺えんじさんがクラス委員になって一週間が過ぎた。それは同時に高校生活が一週間過ぎたことを意味するわけだけど、特に問題なく平和に時間が進んでいった。


 そう、特に何もなく……。


 この一週間まともに会話していない。

 前の席の上田くん、後ろの大野くん。どちらも自分から話し掛けるようなタイプには見えないが、クラスの中で気の合うやつを見つけたらしく休み時間になるとそこに行ってしまう。


 左の列は女子の列というのもあるし、円寺えんじさんを中心に俺では近付けないオーラを放出していた。

 中でも小山内さんは俺に敵意を向けているけど、それを毎回円寺えんじさんがなだめている。

 感情の起伏がジェットコースターのようで心配になるレベルだ。


金雀枝えにしだくんって友達いないの?」


 教室移動の直前。円寺えんじさんが突然こんなことを言い出した。


「……」


 否定するのは嘘を付くことになるし、肯定すれば自分で自分の心を折ることになる。俺は黙り込むことしかできなかった。


「彼氏彼女ってさ、教室移動の時も一緒に歩いてそうじゃない?」


「どうかな。学校の中では友達と一緒にいるイメージだけど」


 恋人どころか友達もろくにいない中学時代を過ごしていたので本当のところはよくわからない。


「私はクラス委員の仕事を頼まれてるからって、みんなには先に行ってもらったの」


「へー、そうなんだ」


 その仕事には心当たりが全くなかった。浅倉先生も俺じゃなくて円寺えんじさんの方を頼っているのかもしれない。さすが教師、人を見る目があるぜ!


「クラス委員の仕事なんて嘘なんだけどね」


「え?」


 いつも教室の中でみんなに見せる天使の笑顔ではなく、たくさんの男を誘惑してきた魔女みたいな妖しい笑みを浮かべている。


「こういう嘘はね、練習したんだ。最初は誰も信じてくれなかったけど、一人になり

たい時とか、よくこうやって人払いしてた」


「そっかー。一人になりたいなら俺はこれで……」


 ただならぬ雰囲気を察した俺はこの場が立ち去ろうとする。しかし、ガッと腕を掴まれてしまった。

 円寺えんじさんは俺を逃がすまいと掴んだ腕を体にギュッと近付ける。


金雀枝えにしだくんは私の恋人の練習台なんだから、もう少し積極的になってよ。これじゃあ全然練習にならない」


「あの話……マジだったんだ」


 円寺えんじさんがファスナーを下ろしてしまうというミスにより話がうやむやになっていたけど、彼女は本気で俺を練習台にするつもりらしい。


「そうじゃなかったら一緒にクラス委員なんてやらないわよ」


「最初からクラス委員にはなるつもりだったの?」


「それは……まあ。クラス委員になれば部活に入らない口実になるし」


円寺えんじさんバスケとかバレーとか得意そうだけど」


 トップ選手に比べたら背は低いかもしれないけど手足はスラッと長い。それにユニフォームも似合いそうだ。


「練習すればできるようになると思うけど、勉強も1番にならないといけないし、それに今は……か、彼氏だって」


 いつもの自身と慈愛に溢れた顔ではなく、恥ずかしそうに頬を染める姿は守ってあげたくなるような女の子のそれだった。


「と、とにかく! 誰かに見られるまではこうして腕を組んで……っ!」


「どうしたの?」


 円寺えんじさんは俺の腕を解放して一気に後ずさる。


金雀枝えにしだくん……腕に私の……お……む、胸が当たってて黙ったでしょ?」


「……」


 円寺えんじさんが随分と力強く抱き寄せるものだから不可抗力でそういう形になってしまっていた。

 俺から指摘するのもなんか違う気がしてどうにか心を鎮めるようにしていたんだけど。


「いや、だって、それは円寺えんじさんが」


「うぅ……失敗した。力加減がわからないからつい……」


 彼氏が居たことのない女の子がいきなりあんな積極的なスキンシップをしたらああなっちゃうよな。俺も人のことを言えないだろうけど。


「あの、ほら……ブレザーって生地が厚いから感触はそんなに」


 なんてフォローしてみたものの、女の子の胸に腕が当たっている事実は高校1年生にはいささか刺激が強いわけで。


「……本当?」


「ほ、本当だって。ハハハハハ」


 若干前屈みになりながら笑って誤魔化した。


「腕を組むのはまだ早かったみたいね。手……手を繋ぎましょう」


「まだやるの!?」


「私に残された時間は少ないの。どんどん練習して、最高の彼氏を作るのよ!」


 まだ見ぬ最高の彼氏を追い求める円寺えんじさんを俺は応援すればいいのか。よくわからないまま恐る恐る彼女の手を掴む。


「ひゃっ!」


「そんなに驚かなくても。手を繋ぐって言ったの円寺えんじさんじゃん」


 女子と手を繋ぐなんていつ以来だろう。そんなことを考えると手汗が止まらない。


「ごめん。なんか……汗が」


「へあっ!? べ、別に気にすることはないと思うよ。人間だもの、汗くらいかくわよ」


 人の手ってこんなに暖かいんだな。だけど死んだらきっと冷たくなる。

 例え練習台だとしても円寺えんじさんが生きていた証、体温を感じられた俺は奇跡の体験をしているのかもしれない。


「あ、ほら。他のクラスの人が廊下を歩いてる。やっぱり手を繋いで移動は無理だよ」


 手の温もりを感じられたのは幸せだけど、こんな姿を誰かに見られたら一気に噂が広まってしまう。

 なんせ相手は天使だ。俺が弱みを握って脅してるとかあらぬ噂が立つ可能性だってある。


「……私と手を繋ぐの……イヤ?」


 身長差はほぼないけど、ほんの数センチの差から生まれた上目遣いにドキッとしてしまう。


「イヤじゃないけど……」


「けど?」


「俺達練習のカップルなわけじゃん? 円寺えんじさんは練習が終わったら最高の彼氏を見つけるわけだし、俺と変な噂が立つのはよくないんじゃないかなーって」


 その最高の彼氏も高3の時に最愛の天使彼女と永遠のお別れをするのに、なんで円寺えんじさんの応援みたいなことを口走っているのか自分でもよくわからない。


「……それもそうね。わかった。手は繋がない。でも……」

 パッと手を離したかと思うと円寺えんじさんは全体重を俺に預けた。


「うわあ!」


「えっ!? えええ!?」


 突然の出来事で俺は反射的に回避行動を取ってしまい、同時に円寺えんじさんはそのまま床に倒れてしまう。


「危ない!」


 初めから俺が円寺えんじさんの体重を支えていればこんなことにならなかった。その責任感もあって咄嗟に手が伸びる。


「いっっ!」


 体ごと床に倒れ込んで思い切り背中を打った。人間の生存本能は素晴らしく、無意識に顎を引いたおかげで頭は無事だ。


「最高の彼氏ならもっとカッコ良く私を助けられると思うんだけど?」


「最高の彼氏だったらあそこで避けないでしょ」


「それもそうね」


「ところでさ」


「なーに?」


「早くどいてくれないかな」


「重いって言いたいの?」


「次の授業遅刻するって言いたいの」


 俺の体には何がどうなったのか円寺えんじさんが覆い被さっていた。

 俺が下敷きになったので円寺えんじさんにケガはないと思う。


 胸に腕が当たっただけであんなに恥ずかしがっていたのに、今は体全体でその膨らみを感じている状態だ。

 しかも円寺えんじさんの頭が真横にある。お互いに顔を向き合わせたらキスできる距離だ。


「私ね、金雀枝えにしだくんが練習相手ですごく良かったと思ってる」


「どうしたの急に?」


「もし相手が恋愛上級者なら、こんな風に失敗した時に愛想を尽かされちゃう」


「それって遠回しに俺のことバカにしてない?」


 彼女(仮)をカッコ良く助けられないから反論はできないんだけど。


「……本当に遅刻しそうね。練習は一旦おしまいにして理科室に行きましょう」


 円寺えんじさんが起き上がると、自然とその顔を見上げる形になった。


「顔、赤いわよ?」


「そういう円寺えんじさんだって」


 天使みたいな女の子とこんなに密着して興奮しない男子高校生はいない。

 自分の体のことは自分でよくわかっているけど、円寺えんじさんも俺と同じ反応を示していることがちょっとだけ嬉しかった。


「わ、私は……失敗して恥ずかしくて……そういうことだから!」


 勢いよく立ち上がると円寺えんじさんは小走りで教室を抜け出した。


「いてて。立つ時にちょっと辛いかも」


 背中のダメージは本物だから今の出来事もきっと夢じゃない。

 円寺えんじさんの体温、柔らかさ、全て俺が感じたものだ。


「もし俺があそこで勇気を出してたら、俺が最高の彼氏になれたのかな」


 背中の痛みに耐えながらそんなことを考えていると始業のチャイムが鳴った。

 授業には遅刻したけど、実験中にこっそり理科室に入ったらセーフだった。

 俺の存在感って一体……。遅刻扱いでいいから、せめて先生くらいは気付いてほしかった。

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