有坂課長とコユキちゃん
宮嶋ひな
課長のひみつ
有坂課長は、完璧だ。
きっちりと出社時間にオフィスへ入り、無駄な朝礼などすることなくスムーズに一日を始める。部下への指示はもちろん、ちょっとした体調変化も見逃さない。
今日は経理の山下が青い顔をしているのをいち早く見つけ、今日のタスク内容を把握し、素早く全員に割り振って彼女を帰宅させた。
有坂課長は、魅力的だ。
今年で40歳になる有坂課長には、浮いた話が一切ない。社内一の美人である日比野が酔って有坂課長に絡み、帰宅困難になった日も、スマートにタクシーに詰め込み、住所まで言って送りだしてやった。
四十路を迎える有坂課長だが、その体には無駄な脂肪など一切なく、毎日寸分の隙もなくスーツを着こなしている。しわ一つ、ほこり一つないスーツに、よく磨かれた靴。さらさらの髪を軽く撫でつけ、爽やかなムスクの香りが嫌味でない程度に香る。
有坂課長は――――謎だ。
そんな完璧人間である有坂課長は、彼女がいないことを公言している。左手の薬指も寂しい様子で、飲み会などがない日は必ず定時で帰る。
これほどまでに好条件がそろっている男など、女子社員が放っておくはずもなく――
「有坂課長、すきぃぃぃ~~~」
「ほんっと、カンペキだよねー。横顔マジイケメン神」
「ね~彼女いないんならあたし立候補したいよぉ」
――そんな女子社員の与太話も、有坂課長にとっては日常茶飯事だった。
だが、場所がよくなかった。
階下につながるエレベーターへ向かうためには、女子社員がきゃあきゃあ言い合う給湯室の前を抜けて行かなければならない。ここで見つかってしまえば、気まずい上に何かと絡まれるのは目に見えていた。
「やめときなって、絶対女がいるよ、あれ」
女子社員の一人が、確信めいた口調でそう言った。「そうそう、あれだよね、あれ!」と他の女子社員も調子を合わせる。
「あんなの絶対おかしいもん!――お弁当のハートマーク!」
そう。有坂課長には、彼女はいない。
けれども、毎日持ってくる弁当には――
なぜか、ハートマークが必ずどこかに配置されていた。
一見して分かるラブラブな愛妻弁当を、しかし有坂課長は恥ずかしそうに社外で食べる。たまたまそれを見つけた女子社員が興奮気味に語った言葉を、最初は信じるものが少なかった。
料理が不得意と語っていた有坂課長が、自炊をして作るにはあまりにも豪華で、見せつけるようなその弁当の謎に、女子社員は夢中になった。
「「「ぜったい恋人いるぅぅぅ!」」」
三人の意見が完璧に合致した瞬間、下を向いて有坂課長は真っ赤になりながら廊下を駆け抜けていった。
(まずいな、弁当の噂……もうここまで浸透してたのか)
今日もカバンの中には、桜でんぶで作ったハートマーク入りのお弁当が入っていた。中身はもちろん完食している。
有坂課長は、誠実だ。彼は、嘘をついていない。
事実、彼に恋人はいない。彼女でもない。だが現実として、彼の昼食を支える弁当を作り続けている“何か”は存在しているのであり、その存在の不透明さが女性社員を、ひいては他の社員全員の興味を引く事態となってしまっている。
(だって、こんなのどう言ったらいいんだ……!)
有坂課長の足が速くなっていく。まるで焦りに背中を押されているかのように、よろける寸前の足取りで家路へと急ぐ。
「――ただいま!」
はあ、はあ、と肩で荒く息をし、スパイ映画の主人公よろしく家に駆け込んできた有坂課長を待っていたのは。
「……まぁ。どうしたんですか、そんなに慌てて」
――――真っ白な割烹着を身にまとい、お玉を手にして、後ろ足でピンと立った真っ白な猫だった。
「ぁああぁあコユキぃぃぃぃ!」
有坂課長はカバンを放り投げる勢いで廊下に置くと、靴を脱ぐのももどかしくその白い猫に抱きついた。
「にゃニャウッ!? あ、ありしゃかしゃん、手洗いうがい……!」
「するする手も洗う君には触れないからもふもふさせてぇぇぇ!!!」
会社でのクールな有坂課長が、コユキの胸毛にとろかされていく。
「んにゃぅ……ありしゃかしゃん、また会社でいやなことが……?」
コユキはピンク色の肉球で優しく有坂の髪を撫で、穏やかに彼を包み込んだ。
その優しさだけで涙腺がゆるみそうな幸せを感じていた有坂は、ぐりぐりとコユキの胸毛に顔を押しつけ、抱きしめるのをこらえて、なんとか立ち上がった。
「手を洗ってきます……」
とぼとぼと洗面台に向かう有坂の背中を見ながら、コユキが困惑げに小首をかしげていた。
(わかってるんだ……俺がしっかり、堂々とコユキのことを好きだって公言できれば……)
三ヶ月前、嵐の夜中、有坂の家の扉をずぶ濡れになって叩いたコユキ。
有坂も最初は受け入れられなかった。見た目はどう見ても白毛に金の瞳の美しいただの猫なのに、二足歩行を上手にして、あまつさえ言葉まで発するなど。
だが――彼女の澄んだ深い湖のように清らかな心に触れ、恋をせずにはいられなかった。
(コユキをなんて呼べば良い? 彼女? 恋人?)
その呼称はどちらもしっくりくるものではなかった。有坂課長のコユキへの愛は、彼女で留まってはくれなかった。
「ありしゃかしゃん……」
てぽてぽ、と長い尻尾を引きずりながら、コユキが心配そうに洗面所を覗いてくる。
「……やっぱり、お弁当作らない方がよかったですよね」
しゅんとうなだれ、ヒゲも耳も地面を向いたコユキを見た瞬間――
有坂課長の中で、何かがはじけた。
「――すまない! コユキは何も悪くない。君を妻だと公言できない、俺の心の弱さが原因なだけなんだ……!」
もふもふな体を抱きしめ、有坂は胸の内を吐露する。
「えっ……妻って、ありしゃかしゃん……?」
「ああ。……俺と結婚してくれるかい、コユキ」
この尊い生き物と、ずっとずっと一緒にいたい。
彼女がなにものであるかなど、些末なことに過ぎない。
満月のように美しいコユキの黄金の瞳が、嬉しさにうるむ。
「……はい。もちろん、喜んで」
明日の弁当には、たくさんのハートが飛んでいることだろう。
有坂課長とコユキちゃん 宮嶋ひな @miyajimaHINA
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