僕の妻はバカだ

水棲虫

僕の妻はバカだ

 僕の妻はバカだ。

 物覚えは(そこまで)悪くないのだが、とにかく抜けているのだ。


 僕と妻は所謂幼馴染、しかも家が隣で誕生日も十日違いという筋金入り。

 悔しい事に妻の方が先に生まれているので、幼い頃の彼女はいつも僕にお姉さんぶろうとしていた。できた事は一度たりとも無い。


 現在でも内外ともに幼く見られる妻だが、子どもの頃から言動はやはりそのように見られていた。

 対して僕は大人びているという評価を受け続けてきたが、間違いなくそれは一番身近な反面教師のおかげだろう。


 そんな僕だったので、二日に一回は何もないところで転ぶ妻を見て、齢五つの頃にはこいつは僕が守ってやらなければ死んでしまう、という謎の義務感に駆られていたと記憶している。

 そんな訳でこの頃から空手を習い始める事になる。一度道着姿を見せた時、妻は「しゅーくんかっこいいねー」と目をキラキラとさせていて、悪い気はしなかった。空手は結局大学受験で忙しくなるまで十年以上続けた。


 小学校に入っても妻は抜けていた。


 バカではあるが理解力に乏しいわけではないので勉強で置いていかれる事は無かったが、テストで名前を書き忘れる事は多々あった。

 済ませていたはずの宿題を忘れるなどは日常茶飯事で、二年生以降は毎朝必ず僕が確認するようになった。

 週に最低二回は上履きで外に出た。僕の懸命な教育によって六年生になる頃にはあっても週に一回にまで抑えた。僕はもっと褒められるべきだろ。


 そんな小学校の卒業式、妻の母からこれまでの感謝を告げられた。まるで別れが近いような言いように心臓を掴まれたような気分だったが、ただ単に節目だからだったらしい。妻がおばさん似だという疑いを確信に変えたのはこの日だった。


「しゅーくんありがとー」


 妻はと言えば別の中学に進む友達(妻は友達が多い)との離別でずっと涙を流し続けていて、その勢いで僕に抱き着いて感謝を告げながらわんわんと泣いた。しばらく背中をさすってやったが、妻が離れた後で見ると服には鼻水がついていた。


 中学に入る頃になると、僕と妻が付き合っているという噂が流れた。男女でありながら距離の近い僕たちをそのように見るのはある意味自然な事だったが、真偽を尋ねられれば偽であると答えておいた。

 そして中学に入って半年ほど経った頃だっただろうか、いつものように噂を否定したところ、クラスメイトが「じゃあ俺告っていい?」と僕に尋ねた。


「好きにしろ」


 そう答えると、何故か彼はひどく怯えた表情で「すまん」と言って逃げるように去って行った。成人式で再会した時にこの話をした彼は、「殺されると思った」と苦笑していた。


 それから何度か似たような事があり、僕は初めて妻が意外にモテるのだと知る事になる。「あいつのどこがいいんだ?」と聞いてみると――

 穢れ無い純粋な感じがいい(ただ何も知らない上に何も考えていないだけである)、一緒にいると癒される(僕からすれば何をやらかすかとハラハラするのだが)、見た目が可愛い(?)などという答えが返って来た。


 その後ちょくちょく妻を観察してみたのだが、相変わらず友人は多い。気の利いた受け答えなど一切できないのに、妻と話す者は皆どこか楽しそう、と言うよりも幸せそうに笑っていた。

 そしてやはり、その中には男もそれなりにいた。


「お前結構モテるみたいだぞ」

「えー私がー? それは無いよー」

「僕もそう思う」

「しゅーくんひどーい」

「彼氏作るなら男子連中がお前に騙されてる今がチャンスだぞ」

「えー、いいよー。彼氏なんて要らないもん」

「そうか」


 取り敢えず妻の髪をぐしゃぐしゃにしておいた。「やめてよー」などと言いながらも僕から離れようとしないので、その後彼女の髪は手櫛では直らないほどボサボサになっていたが、嬉しそうにしていた。


 中学三年になり高校受験が近付いて来る頃、妻は何故か猛勉強を始めた。頭が良くなる気がすると言って伊達眼鏡を買った時はやっぱりバカだと思ったものだ。

 理由を聞いても彼女は「えー? 知りたい?」と聞いてほしそうにしていたくせに、「やっぱり内緒ー」とだらしない顔で笑っていた。髪の毛をくしゃくしゃにしておいた。


「しゅーくんと同じ高校に行きたいって、頑張ってるみたい」


 口止めをしていなかったせいでおばさんがあっさりばらしてくれたのだが。


「僕の志望校は男子校だぞ」と、妻に告げるまでには少し時間を要した。

 どんな反応をするだろうかと、怖かったのだ。


 結果から言えば妻は「そうなんだー」とあっけらかんとしていた。

 泣かせてしまうだろうかと思っていたのは僕の思い上がりだったようで、もちろん彼女が泣くところなど見たくはなかったのに、胸がチクリと痛んだ事をいまだに覚えている。


 こうして幼稚園からずっと一緒だった彼女とは高校で離れた。とは言え、家は隣のままだし使う駅が乗降ともに同じなので、ほぼ毎日会う事になるのは変わらないのだが。

 僕がいなくて大丈夫だろうかと思っていたが、彼女は毎日楽しそうにしていた。この頃の僕は、今になって思えば多分気付き始めていたのだろう。


 その後の大学生活、実家から通える距離ではあったのだが、僕は両親に頼んで一人暮らしを始めた。妻の方は大学こそ違ったがやはり家から通える距離で、彼女は家を出なかった。

 しかし何故か毎日毎日僕のアパートに来ていた。高校の間に妻は料理を覚えたらしく、それを披露したがった。僕も僕でそんな彼女のいる生活に甘えさせてもらっていた。


 そしてまあ、なし崩し的に両家両親の許可の元で同棲生活が始まり、二人で社会に出て、しばらくして責任を取るという名目で籍を入れた。

 しっかりとしたプロポーズはしなかった。妻がしてほしそうにしていた事は知っていたのに、今更そんな言葉など必要な関係ではないだろうと、僕は甘えていたのだ。代わりに結婚式はできる限り望みを叶えるから、それで許してくれと思っていた。


 結婚式から披露宴にかけて、妻はずっと幸せそうにしていた。隣にいる僕を見てはニコニコとして、何度も何度も「嬉しい」と口にしていた。

 披露宴では食事をする暇もないくらいにメイン席に客が来た。学生時代の友人たち、職場の同僚たちだけでなく、参列してくれた彼女の上司からも、妻は愛されているのだという事がよく分かった。僕の側の出席者たちは、「お前とは全然タイプ違うな」と笑っていた。「絶対離すなよ」とも。


 新婚生活も同棲の延長のような気分でいた。少なくとも僕は。

 だけど妻は「しゅーくんの方がお給料いいんだし、私色々頑張るからね」と、その言葉通り頑張ってくれた。知らない間に、いや、ずっと見ていたはずの彼女はいつの間にか随分としっかりした女性になっていた。もちろん抜けている部分はまだまだたくさんあるが。


 より顕著になったのは妻が妊娠してから。「お母さんになるんだから」だそうだ。

 流石に身重の彼女の家事負担は減らしたかったのだが、本人がやたらと頑張ろうとするので、お義母さんおばさんと母さんを何度も何度も召喚した。


 そして今日、仕事中の僕にお義母さんおばさんからメッセージが入った。妻が病院に運ばれた、という旨の。

 そこから先、どうやって病院に来たのか全く覚えていない。


 お義母さんおばさんから聞いた病室は五階なのに、エレベーターは全て上の方の階で止まっており、壁を殴った。

 冷静に考えればそのまま待った方が絶対に早かったはずなのに、もう階段を使う以外の手段は考えられなかった。


 妻はバカだ。家事なんてやらなくていいのに。掃除くらい僕がやるし、料理だって今の時代作らなくてもどうにだってなる。僕じゃなくたって母さんやお義母さんおばさんに頼ったっていい。

 お母さんになるんだろ? もっとお腹の子の事を考えないとダメじゃないか。

 そして何より、自分の事を考えないとダメだろう。


「ひーちゃん!!」


 病室のドアを開け放つと、ベッドの上で目を閉じる妻がいた。


「僕は、ひーちゃんがいないと生きていけない」


 もう何年も前に気付いていた。


「ずっと僕がひーちゃんを守ってやるんだって、ひーちゃんは僕がいないと生きていけないって、そう思ってた」


 だけど逆だったんだ。

 ひーちゃんを守ってやると言いながら、かっこいいと言ってほしくて空手を頑張った。

 勉強を教えてやらなくちゃと、でも頼ってほしくて。

 今の僕は全部ひーちゃんにいいところを見せたくてできた僕だ。


 ひーちゃんはバカだ。でも僕はもっとバカだ。

 今まで甘えてごめん。僕だけが大人になれなかった。


「ダメなんだ。ひーちゃんがいないと。お願いだから目を開けてよ」

「うん。おはよう、しゅーくん」

「………………え?」


 ベッドに縋っていた僕の頭上から、一番聞きたかった声が聞こえた。



「食べすぎちゃったみたい。お母さんになるからたくさん食べなきゃって思ってたんだけど。お母さんが早とちりしちゃって、ごめんね」


 スマホを見てみると、確かにお義母さんおばさんから続報が入っていた。

 いまだ何を言っていいか分からない僕に、妻は笑った。緩々になった頬に手を当てながら。


「でも嬉しいなあ。しゅーくん、名前呼んでくれたの久しぶりだよね」

「……そこじゃないだろ」

「えー、そこだよー」


 一生ものの失言をした自覚があるのだが、妻は「だって」と笑う。


「しゅーくんが私の事大好きなのはずっと前から知ってるから」


 顔から火が出そうだ。


「……そうか」

「うん」


 ニコリと笑った妻が頷き、「ごめんね」と少し頭を下げる。


「何が?」

「心配させちゃって」

「まったくだよ」


 そう言って僕は妻の髪をくしゃくしゃにした。


「これも久しぶりだね」

「大人になったんだし、困るだろ?」

「たまにだったらいいよ」


 手櫛で髪を整えながら、妻は優しく笑った。


「でも名前はたまにじゃ嫌だなあ」

「…………分かったよ、ひーちゃん」

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