第37話 あの旧正月の日の決着を

登場人物

―メタソルジャー/ケイン・ウォルコット…軍を辞めた超人兵士、ヒーローチーム「ネイバーフッズ」の臨時リーダー。

―ローグ・エージェント…暗躍するソ連の軍人。

―ブキャナン…ヴェトナム戦争時のケインの元同僚、アメリカを裏切って東側に亡命した男。



一九七五年、八月、夕方:ニューヨーク州、マンハッタン、停泊中の貨物船上


 ブキャナンの口の端から僅かに血が流れていた。先程殴った辺りが膨らんでおり、殴られた際に歯で唇の下辺りを切ったのであろう。それはいい。

 ケインは無防備に腕を組んで顎で『来いよ』と誘った。相手の激昂でも誘発すればよい。照り付ける夕陽が心地よかった。徐々に気温が下がっており、夏の涼しい風が少し吹いた気がした。

 右半身を突き出す形で腕を組んで睨め付けるケインの様はほとんど侮辱に近かった――お前はその程度だから手加減でもしてやるか。

 かつて以上に冷たいブキャナンはそれでも、かような挑発は我慢がならなかった。かつて己を脅したあの屈辱が、今になってぶり返した。ケインらを殺したと思ったあの旧正月の裏切りの日に果たしたと思っていた復讐が実際には未完であった。

 妻や国すら捨てて、意地のために裏切ったもののあの日果たせなかった事をここで完了したいという、ほとんど熱狂に近い願望が膨れ上がった。我慢がならなかった。

 ブキャナンはだっと距離を詰め、無防備なケインに攻撃した。ケインは腕組みを解いて迎撃した。

 脇腹に二発繰り返された蹴りをあえてそこで受け、突き出した太腿を蹴らせて、足裏を斜めに振り上げるかのような綺麗なハイキックを、上半身を後ろに反らせてその威力を殺した。

 反撃するケインは直接弱い箇所を殴らず、遠回りかつ叩き壊すような打撃をブキャナンのガードの上から放った。受け易いようにしてやった。頭部を保護しながら反撃してくるので、胸や顔面を数発殴らせてやった。

 効果が見えない事にブキャナンは怯んだ。当たっているはずなのに効果が薄い。ボクシングの達人がやるような、ぱっと見では当たっているようでその実掠った程度に軽減する回避術のようでもあった。

 ブキャナンは己に叩き込まれた武と、受けた改造手術とが眼前の型落ち超人兵士に通用しない事に驚いた。己の方が新しく、性能も上のはずでは…。

 ケインは腕を垂らしてブキャナンに歩み寄った。相手が警戒したのでケインは手を振って敵意の無い事を証明した。

「まあ待て、少し休憩しよう。爆弾で都市を吹っ飛ばすよりいい事があるかも知れない」

 ケインはニューヨークの危機に慄きながらも冷静そのものであった。やれる事をやるだけだ。恐らく、事態を面白がる癖があると思われるローグ・エージェントはほとんど干渉しまい。

 ちらりと見ると、高所に腰掛ける巨体が見えた。面白がって腕を組んでいた。こちらの博愛精神でも見たいのかも知れないが、邪魔が入らなければ今はどうでもよかった。

 奴は、そしてブキャナンは、あの日彼の戦友達を奪った。だが、メタソルジャーというヒーローとして、人々の盾として、個人的な私怨や復讐以上の何かを欲した。

 止める。そうだ、それでいい。

 かなり接近した。彼らは大体、詠春拳のような短い間合いの武術が得意とする距離まで詰めていた。空手やキックボクシングの距離としてはかなり近く、組み付きになりそうであった。

「まあなんでもいいさ、そちらが投降してくれる事に私は今も期待しているよ。ブキャナン、お前はそう悪い奴じゃないはずだ」

 それ程悪い人間ではないはずのブキャナンに裏切られて戦友を殺され、己も死に掛けた事は言わなかった。演技は大切だ。過去を脇に置こうとする、少なくとも見せ掛けの寛容を示そうとする胡散臭い偽善者でも演じろ。

 ブキャナンは警戒して構えていた。腰が引けているのが見えた。

「五つ数える。五秒じゃないぞ。五つ目までにお前が投降しなければ、私は相応の対処をせざるを得ない。お前も知っていると思うが、今の私はスーパーヒーローチームの臨時リーダーだから。ワン」

 カウントを始めるとブキャナンの顔に汗が滲んだ。それでいい。

「ツー」

 ケインはその瞬間、ブキャナンの股間を蹴り上げた。相手が半身にかまえているので少し狙いにくかったが、しかし当たった。

 苦痛で意識と態勢とが下方へと向かったところで胸倉を掴み、顔面に拳と前腕を即座に二連ぶつける打撃を五発与えた。鼻をへし折り、歯をぐらぐらさせて、しかしジェームズ・フィグがパイプ−メイカーことネド・サットンを打ち負かした時のような未知の痛みを流し込む事はしなかった。

 終わってみるとブキャナンは出血と共に戦意を失っていた。

 ブキャナンは確かに本来はかなり強いはずであった。だがメタソルジャーからしてみれば、明らかにローグ・エージェント程の強敵とは言えなかった。

 射撃の腕は見ていないが、どうせそれ程でもあるまい。空手はどうか?

 以前ケインはアメリカ軍のヤナギシタという極真系流派を修めた日系アメリカ人の教官と話したり技を見せ合った事があったが、ブキャナンの技はそれと比べると明らかに劣っていた。本当の空手の恐怖はこんなものではない。

 ブキャナンは結局、肉体のスペックが高められているにも関わらず、極限に近いまで研ぎ澄まされているとは到底言えなかった。所詮は付け焼き刃という事ではないか。端的に言って修行不足。

 だが、それは別によかった。ブキャナンを無力化すればそれでよく、心まで叩き折るつもりはない。もしこちらからブキャナンへの復讐があったとすれば、裏切りの代償を支払わせるのは先程ので終わりだ。

 ヒーローであるならば、個人的な憎悪のその先に到達せねばならなかった。今のところそれは上手く機能していた。ケインは己の働きに満足できた。

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