第20話 下らないゲームの終わり

登場人物

―メタソルジャー/ケイン・ウォルコット…軍を辞めた超人兵士。

―謎の忍者…ローグ・エージェントが放った刺客



一九七五年、八月:ニューヨーク州、ブルックリン、ウィリアムズバーグ


 束の間の思考の後、ケインは相手と互いの攻撃圏内に入るのを感じた。打ち合いのできる距離だと思った。まあ見ていろ、お前の目の前の型落ちは見掛け以上だ。

 その瞬間、相手が無事な方の腕を振るって爪を斜めから振り下ろした。袈裟斬りやオーバーハウ、あるいはその他の言葉によって各地の剣術に存在するような技だが、ともあれそのシンプルな軌道は読み易かった。

 相手とてそれを知っているはずで、恐らくここから派生する。

 だがケインはそうさせなかった。相手の振り下ろしを、その爪と同じ硬さの先程折った爪で受け止め、相手が次の手に移る前に顔面を横合いから打ち、更には胴を打ってから鈍い方の先端で腹を突いて距離を離した。一瞬の出来事であった。

 相手は己の肉体より出現し、そして分離した一部を使った打撃に見舞われた。皮肉であろうが、そのようにして利用されたわけだ。あらゆる予定を打ち崩された事で精神的に参っていた。

 怪物は己の内側で生じ続ける破壊衝動が、新参者によってその占める領域を狭くされているのを感じた――負けを認めろという衝動が襲い掛かった。

 負けなど、認めてなるものか。そう考えるのも無理は無かった。屈辱と肉体的な痛み、そして精神に入り込む未知の痛み。

 そのような、存在する事すら先程まで知らず、故にただのまやかしや幻痛であると思いたくなる痛み。それはなんだ? 痛い。本当に痛い。だがまだ…。

 ケインは相手の葛藤を見抜いていた。肥大化した筋肉によって、筋肉の塊の怪物と化した謎の忍者の強壮な精神に入り込む痛みを見た。

 そうだ、それでいい。これは痛いぞ。まだ続けるならもっと痛みをくれてやろう、お前がそれを望むのであれば。

 荒い呼吸と必死の睨み。相手は目に見えて焦っていた。ケインの心はミシシッピ川のようにどっしりとしていた。

 その心は底が見えず、無数の残骸と傷を内包する川であった。数多の苦痛を経てなお、平常通りに運行するのだ。怪物化した忍者はそれを見て躍起になった。

 リーチの長い、そして回避の難しい横合いからの薙ぎ払いが放たれた。ケインは当然ながらそれに対応できて、当たりそうで当たらない具合いに後退していた。

 返す刃もまた空振り、その次の一撃を躱しつつ捌いて地面にその爪先を誘導して激突させ、同時に相手の爪を踏んで跳躍、相手の顔面に膝を叩き付けた。

 仰け反って後退った相手の無事な方の上腕と肘を一度ずつ打ってからまた距離が離れた状態へと戻った。

 そうだ、これは痛いだろうな。忍者は精神の中に入って来る未知に追い立てられた。痛みは心に直接響いた。先程までは己と繋がっていたはずの爪、そして超人兵士の強固な膝。

 それらが与える肉体の痛みとはまた違う何かがあった。それが痛みを与えていた。それが痛みとして作用したのだ。

 痛みはずきずきとしていて、ひりひりとしていて、その他様々な、考えようによって無数に変化した。とにかくそれは純粋な痛みの原型に思えた。

 肩を斬られ、打ち合いや投げ合いを経て、ラウンドは落としたもののそれでもなお戦いを欲したはずのパイプ−メイカーを屈服させた一撃を思わせた。

 膝が動かなくなっても恐らく戦い続けたであろう強壮かつ怒りに満ちた精神性を一気に減退させた痛み。

 その卓越した技量故に剣のアトラスと謳われたジェームズ・フィグが得意とした棍棒の技とまでは行かなくても、その入り口には立てているであろう。

 筋肉という鎧に覆われた大柄な怪物は心に受ける強烈な痛みが理解できなかった。それは肉体を屈服させる程に痛かった。

 どうしようもなくて、泣き叫びたくなる程であった。爪を剥ぐ痛みと足をハンマーで叩き潰される痛みとを足して何十倍にも増幅したかのような、想像を絶する痛み。それはどんどん強まっていた。

 もうやめてくれとすら思い始めた。まだだ、まだここで終わるわけにはいかないと矜持が待ったを掛けていた。だがそれがなんであるのか。

 故にもはや破壊衝動にのみその身を委ね、ほとんど自動的に攻撃を仕掛けた。高速の連撃、及び背後に回り込む特殊な術の組み合わせでアメリカ軍の元超人兵士に襲い掛かった。だがそれだけの事であった。

 ケインは見飽きた技に対して、見飽きた手段で対応した。それは執行であった。

 刑は残酷なまでに精度を保ったまま実施され、それはこれまでで最大級の痛みを怪物に与えた。

 己の肉体よりも遥かに矮小なはずのケイン・ウォルコットが放った攻撃は再び腕に襲い掛かり、同じ箇所を殴打され、そこから肉体的な痛み及び精神的な痛みが同時発生した。

 肉体的な痛みに耐えられようとも、このような精神の大泣きには耐えられなかった。

 遂に、その破壊衝動によって暴れ狂っていたはずの忍者が屈服した。痛みが後遺症として打たれた後も続く事に絶望し、子供のようにのたうち回って絶叫した。

「頼む、頼むからもうやめろ! もう沢山だ! やめてくれ!」

 ある種情けなさすら感じたが、これはお前が始めた戦争であろうが。ケインはヒーローとして冷ややかに相手を睨め付けた。

「お前がもしかすると傷付けていたかも知れない人々に詫びろ。詫び続けろ。二度とこんな事はするな。それを約束するなら、残りの人生を刑務所で過ごさせてやる」

「もうしない! もうしないから――」

「周りを見ろ! お前は奴に暴走させられる前から周りの被害も無視して暴れていた。どうでもいいような人々などどこにもいない! ここがスラム街だとでも考えたか!? つまりスラム街ならどうなってもいいと!? もし彼らがどうでもいいなら、お前は遥かにどうでもいい! わかったらそこで警察が来るまで腹這いになっていろ! そして裁きを受け、然るべき刑期を務めるがいい!」

 土砂降りは不意にその勢いを失いつつあった。空が見渡し易くなり、気が付けばあのソ連の超人兵士は消えていた。

 ケインは奴を可能であれば捕まえたかったが、しかし今回は人々を守れた事でよしとする事にした。それが大事なのだ。誰からも必要とされていないような人々などどこにもいない。

 少なくとも彼らは相互に意識し合っており、確かに生きていて、それを見下すなどもっての他だ。ここは治安が悪いかも知れないが、それでもアメリカだ。

 ならばケインは彼らを守るべきだと確信しており、遠巻きに民間人が見え始めた。戦闘が終了した事を悟った人々がやって来たようであった。

 彼らは必要以上に接近する事はあるまい。しかしそれでも、恐ろしい災害が今終わった事を確認していた。

 そうだ、これで終わりなのだ。ケインは何も言わなかった。ただ、この街の住人達が遠巻きにそうしているように、彼自身も彼らを無言で眺めた。それだけでも通じるとわかっていた。

 雨はそろそろ終わり、これまでそうであったように数時間か数十時間かすれば、また晴れ空が見えると思われた。

 ケインはメタソルジャーになる前の因縁が復活したのを感じた。あの人殺しの敵が戻って来た。

 だが不思議と憎悪は感じなかった。否、それを邪悪として憎悪する事は可能であったが、しかし仇とは思わなかった。彼らのための報復は考えていた。だが、復讐ではない。

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