第216話 さよりちゃんの悩み


 翌日。


 朝起きて、身支度などを整えて……台所の清掃を軽く行って、朝食を作る前にと冷蔵庫をあけて、イカの塩辛が入ったタッパーを取り出し、箸でもって中身をぐるぐると、よく味が混ざり、馴染むようにとかき混ぜていると、テテテッと聞き慣れた足音が居間の方から聞こえてくる。


 それはコン君のいつもの足音だったのだけども……まだ早朝、コン君が来るような時間ではないし、いつもの「きーたよ」という元気な声の挨拶も無い。


 そうするとこの足音の主は……? と、そんな事を考えていると、台所と居間の合間にあるガラス戸に隠れたさよりちゃんが、どこか申し訳なさそうに、こちらへとじぃっと視線を送ってくる。


「おはよう、どうかしたの?」


 そんなさよりちゃんに俺がそう声をかけると、さよりちゃんはおずおずとした態度で隠れるのをやめて「おはようございます」と、そう言ってからこちらにゆっくりと近付いてくる。


「その……少し相談したいことがありまして……」


 続けてそう言ってくるさよりちゃんに俺が「いいよ」と言いながら頷くと、さよりちゃんは流し台の上へと飛び上がり……自分用の椅子にちょこんと腰掛けてから、相談とやらについてを話し始める。


 さよりちゃんはコン君と違って毎日のように我が家に来ている訳ではない。


 昨日も来ていなかったし、それ以前も何度か来ていなかったことがあるし……家庭の用事とか、仕事をしたいからとか、そういった理由で畑などに行っていたらしい。


 ある程度の貯蓄があるコン君と結婚が決まった以上、あえて働く理由もないのだが……たとえば欲しいものがあるとか、コン君と結婚した時の為に貯金を増やしておきたいとか、そんな理由で働くことがあって……昨日も畑でテチさんと一緒にお仕事をしていたんだそうだ。

 

 で、昨日はお小遣いを求めて働いていたんだそうで……なんでお小遣いを求めていたかというと、習い事をしたかったそうで……今月分のお給料が出れば、習い事の月謝くらい普通に払えるくらいのお金がたまるそうなのだけど、そこでさよりちゃんは、重大な問題にぶち当たってしまったらしい。


「私、どんな習い事をしたらいいのでしょう?」


 習い事をしたいけど、どんな習い事をしたら良いのか分からない。


 そんなことを言われて一瞬俺は、哲学の問題でも出されているのだろうかと困惑し、硬直してしまい……「いやいやいや」と首を左右に振ることで我に帰ってから、さよりちゃんに言葉を返す。


「えぇっと……どんな習い事をしたら良いかも分からないのに、どうして習い事をしようと思ったの?」


「だって、コン君って凄く良い方ではないですか。

 私、最近ずっと一緒にいたり遊んだりしていたんですけど……他の子とは比べ物にならない程良い方ではないですか……だから私、習い事でもして少しでもコン君に相応しくなろうと思ったのです」


 なんてことを言ってさよりちゃんは、コン君がいかに良い子であるか、他の子と違う部分があるかを語り始める。


 真面目で優しく、悪ふざけをせず、人が嫌がることをせず、働く時も真面目で、お手伝いなんかもきっちりやれる他の男の子とは比べ物にならない程の良い子、とかなんとか。


 確かにまぁ、コン君は良い子だと思う。


 元気で明るくて、年相応な部分はあるけども、たとえば変なイタズラをしたりとか、思いつきでとんでもなく危ないことをしたりとか、物を壊したりとか……大人が怒るようなことはまずしない子だ。


 俺がコン君くらいの年齢の頃は、それなりに……例えば特に意味もなく、家にあるものを分解したりとか、ハサミで切って糊で貼り付けての謎の工作をし始めたりとか……ちょっとした思いつきで川に飛び込んでみたり、高いところから地面目掛けて飛び込んでみたりと……今思えば馬鹿としか思えないことをしでかしたものだ。


 手伝いをしろと言われたらぶつくさ言って逃げ回って、宿題などのすべきことにも言い訳になっていない言い訳をして……子供の頃の俺が両親を怒らせたことは数え切れない程あったはずだ。


 そして畑で働いている子供達にも、大なり小なりそういう部分はあって、時折テチさんがそういう子を叱っている所を見かけることがある。


 だがコン君は今まで一度も、そういったことをしたことがなく、俺やテチさんが叱ったということもなく……手伝いなんかも積極的にやっているし、暇な時間には自ら進んで学習ドリルなんかを解いていることもある。


 料理をしてみたいという強い思いはあっても、大人の体になるまではとぐっと我慢が出来る子でもあるし……親御さんから離れてうちに泊まっていた時にも、我儘を言わず泣いたりせず、俺達を困らせたことは一度も無かった……。


 そう考えると確かにというか、理想的なくらいにコン君は良い子で……そんなコン君のことを側で見続けたことによりさよりちゃんは、もう少しだけ良い子になろうというか、コン君の隣に立つのに相応しい子になろうというか、そんな決意を抱くようになったようで……そんな決意の下に考え出したことが、何か習い事をしてみる、ということだったらしい。


「なるほどねー……それで習い事か。

 習い事をしようっていうこと自体は……まぁ、悪くはないんじゃないかな?

 書道でもそろばんでも、やって無駄ということはないし、どこかで役に立つものだしねぇ……。

 ピアノとか楽器を習うのも、音楽的感性を磨くってことは悪いことじゃないし……料理教室とか、そういう生活に役立つのも悪くないと思うし。

 自分でやりたいと思って自分でお金を用意して、その上で頑張るっていうのは凄く良いことだと思うし……習い事の種類とかはもう、関係ないんじゃないかな。

 そうなると俺がどうこう言うより、自分で自分がやりたいものをこれ! って選んだほうが良いはずで……多分その方が、俺がどうこう言った習い事をするよりも良い結果になるはずだよ」


 さよりちゃんの話を最後まで聞いた俺は……正直に思ったことをそのまま言葉にする。


 コン君に相応しい子になろうと思って習い事をするというのが、良いことかどうかは分からないけども、習い事それ自体は良いことのはずで、そのために自分でお金を稼ぐというのも立派なことで……それだけの想いがあるなら後はもう、習い事の内容に関係なく、良い結果になるはずだ。


 いずれ大人になった時さよりちゃんがコン君に、この習い事を始めたのは相応しくなれるように、ずっと側にいられるようにと思ってのことだと、そう言えばコン君も悪い思いはしないはずだし……それによって夫婦の絆がより深まることもあるかもしれない。


 そう考えての俺の言葉を受けてさよりちゃんは、深く考えて「うぅん」と声を上げながら悩みに悩んで……そうしてから何か答えを出せたのか、


「分かりました、私なりに考えてやってみようと思います」


 と、そんな言葉を口にするのだった。

 

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