第7話 外へ

 異形の腕――そう言うべきだろう、巨大な腕である。

 黒い体毛に覆われた先に、鉤爪のようなものが三つついている。その大きさは、鉤爪だけで勇次の腕ほどの太さがあるものだ。腕の太さなど、勇次の体よりも太いかもしれない。

 そんな、常軌を逸したものがそこにある――それこそが、未だ嘗て彼らの見たことのない存在、凶蟲バグ


「勇次! 逃げるぞ!」


「あ、ああっ! 沙織!」


「うんっ!」


 廉太郎の言葉と共に、勇次は沙織の手を取って隣へと逃げ出す。

 異形の腕は鉤爪をうようよと動かし、それからゆっくりと引っ込めた。大きく開いた風穴から覗き込むのは、真紅の光。

 だが、それ以上その正体を見たくはなかった。これから戦うべき相手であるとはいえど、恐怖の方が先に立つ。

 急いで、隣の部屋へと向かい。


「逃げろ! 凶蟲バグが襲ってきたぞ!」


 必死に、ちゃんと全員に伝達できるように大声で叫ぶ。

 そうしながら、既に十数人が集まっていた食料庫――缶詰やペットボトルの水などが置かれたその部屋に置かれているリュックに、ひたすら食料を詰め込む。

 少しでも、外に出て僅かにでも長く生きてゆくことができるように。

 それほど大きくもないリュックはすぐにいっぱいになり、ぱんぱんに荷物の入ったそれを背に抱えて。


「いやああああああああっ!!!」


 勇次たちの後、すぐに入ってきたのは青葉だった。

 その頰に血を浴びながら、がたがたと震えて目を見開きながら。

 一体何があったのか――それを、語らずともその表情が、その状況が、語っていた。


 その間も、延々とシェルターは振動を続ける。外側に、ここの破壊を目論む何かがいるということだ。

 それが一体なのか、二体なのか、それよりも多いのか、それも全く分からない。


「くそっ! ここがホームってわけじゃなかったのかよ!」


「龍田ぁ! 食料はきっちり詰め込んでおけぇ!」


「分かってらぁ!」


 とにかく、少しでも食料を――そう焦る面々が、ひたすらにリュックへと缶詰を詰め込んでゆく。

 だが、そこで――振動が、止まった。

 はっ、と顔を上げる。

 侵入しようと攻撃を仕掛けていたがゆえに起こっていた振動だ。それが止まったということは――その帰結は一つ。


 既に――破壊、された。


 まだ、食料をリュックに詰めている者は多くいる。

 誰もが、必死だ。少しでも多く詰めよう、少しでも長く生き延びよう、と。


「もうっ! このリュックださいし!」


「んなこと言ってる場合じゃないっしょ!」


「詰めて詰めて!」


 化け物は――凶蟲バグは、いつここまでやってくるか分からない。

 そして、再びの振動――それは恐らく、内側から破壊したものだ。先程の円卓があった部屋から、ここまで向かってくる狭い通路を通れなかったために、そちらを破壊し始めたのだろう。

 この食料庫には、那智を除いた全員が集まっている。そして凶蟲バグが既に入ってきているというのに、那智がここにいない、その理由を考えれば。

 彼がどうなったかは――想像に容易い。


「ひっ――!」


 そして、誰かがそう悲鳴を上げて。

 それと共に。


 絶望が――顕現した。


 食料庫の入り口から、覗き込む黒い異物。

 真っ黒の体毛に、空洞のような穴が開いている。その穴の向こうに、薄ぼんやりとした赤い光があった。

 そして、その鉤爪のついた腕の先に――首のない、男の屍。

 那智大介の――変わり果てた姿だった。


「那智……!」


「あんな化け物勝てるかよっ! 逃げろっ!」


「どこに逃げるんだよ!」


「やだぁ! もうやだぁ!」


「……さない」


 誰もが、そうやって混乱して。

 逃げ惑い、震え、叫ぶ中で。

 ただ一人――青葉さくらだけが、静かにその瞳に怒りを湛えていた。


「許さないっ! 那智くんをっ!」


「お、おい!? 青葉!?」


「お前だけは絶対に許さないっ!!」


 そして青葉は、恐らくポケットの中に入れていたのだろう――薬を手にとって。

 思い切りそれを右手の甲へ叩きつけて、そのままボタンを押した。

 それと共に顕現するのは――青葉さくらという女と共にある英雄の外殻。


 兵士がかぶるような真っ赤な笠に、急所だけを覆った軽装の鎧。

 だが、何よりその瞬間に生まれたもので異質なのは、その両手に構えた――火縄銃。


「あああああああああっ!!!!」


 青葉はその銃口を、凶蟲バグへと向けて、何の躊躇いもなく引き金を引く。

 火縄銃の先端から、思い切り凶蟲バグへ向けて発射される銃弾。それが黒い体毛に突き刺さり、凶蟲バグが僅かに退くのが分かった。

 英雄の力があれば、凶蟲バグと対等に戦うことができる――そんなラフィーネの言葉を、まさに体現したかのようなそれ。

 だが、あくまでそれは火縄銃。

 一発一発を弾込めしなければならないという性質から、かの長篠の戦いでは織田信長が銃兵を三列にしたという三段撃ちが有名である。

 激昂している青葉は、どれほど引いても弾丸の出ない銃の引き金を、延々と引き続けて。


「なんでよ! なんで出ないのよ!」


 そして、凶蟲バグは己の体を傷つけた青葉へと、その赤い光を向けて。

 空洞の並んでいるようなその顔――その、口がある位置から。

 何かが、飛び出した。


「あ、あ……」


 それは、舌。

 先端が鋭く、ぬるりと光っているそれが、青葉の喉へと突き刺さっていた。

 そして力を失い、だらりと火縄銃を持っていた腕が下ろされる。それでも英雄として共にあったがゆえか、火縄銃はその手から離れることはなかった。

 ひゅんっ、とまるで出てきたときと同じように、しかし青葉と共に凶蟲バグの舌は戻ってゆく。そして嬉しそうに空洞の口を歪ませていた。

 あまりにも一瞬で、命が消え去った――その事実に、勇次は全く動けずにいた。


「逃げるぞ! 勇次!」


「れ、レン!」


 だが――どこに逃げればいいのか。

 食料庫に出入り口らしきものはなく、唯一の出入り口の前には凶蟲バグがいる。そんな状況で、逃げるにも逃げようが全くない。


「どこに逃げるんだよ!」


「そんなん、決まってんだろ! 出入り口がねぇなら――」


 廉太郎はそう叫びながら、自分の右手甲へと薬を当てて打つ。

 それと共に、着流しの和装に加えて腰に刀を差した――先程勇次が見ることのできなかった、英雄の外殻となって。

 その刀を――抜いた。


「作ればいいんだよ!」


 そして、達人の如き流れるような動きで、シェルターの壁を叩き斬る。

 無駄な力をかけず、ただ『斬る』という一点にだけ特化した武の顕現。それが鉄製であろうシェルターの壁を、まるで豆腐を切るかのようにあっさりと切断する。

 そして、食料庫の片方の壁を、完全に切断して。


「逃げろぉっ!」


 安全なはずだったシェルター。

 そこから彼らはバラバラに――凶蟲バグが跋扈する大地へと、逃げ出した。



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