第3話 クレオパトラの溜息
「英雄……?」
モニター越しのラフィーネが言ったそんな言葉に、意味が分からず勇次はそう呟く。
英雄が宿っているとは、一体どういうことなのだろう。しかも、それがまるで当然の力を得られる手段であるかのように、ふふんっ、と笑っているほどだ。
英雄。
それは一般的に救世主だとか、救国の聖女だとか、歴戦の武将だとか、世界を救う勇者だとか、そういう部類だろう。少なくともここにいる全員、ただの高校生だ。英雄などという存在には程遠い。
だというのに、ラフィーネは英雄が宿っていると言う。
全くもって、意味が分からない。
『きみたちは、『クレオパトラの溜息』という思考実験を知っているかな?』
ラフィーネの言葉に、眉根を寄せる。
だが、それに対して反応する声が一つ。
「クレオパトラが最期に残した溜息が世界中に分子として拡散している状況において成人男性の行う一呼吸にどれほど含まれるのかについての思考実験」
『三番、
物理の成績が抜群に良い、いわゆる理系男子である阿賀野がそう呟くのをラフィーネが頷く。
そんなラフィーネの言葉に、黒縁の眼鏡の下にある細い目をさらに細めながら、阿賀野はモニターから目を外した。基本的に他者とコミュニケーションをとろうとしない阿賀野は、人と目を合わせるのが苦手なのだ。
『先程阿賀野が言ったが、まぁそういうわけだ。クレオパトラが亡くなるその瞬間に吐いた溜息を分子として、我々が一呼吸する空気にどれほどその分子が存在するかという内容だ。計算式を列挙してもいいが、面倒だからやめておこう。ちなみに計算上では、成人の一呼吸の中に平均して1.53個含まれている。つまり、今お前たちが呼吸をしているその空気の中には、極めて僅かながらクレオパトラが最期に吐いた溜息が存在しているということだ』
「……」
『英雄の因子というのは、少なからずそんな空気の中に存在しているということだな。そういったものを日常生活で取り込み、数多の因子が存在する中できみたちは生きている。そこにはクレオパトラが存在したり、他にもきみたちの知る数多くの英雄が存在しているかもしれない。そういうのを表在化させたのが、現在の『
「……」
『まぁ、習うより慣れろといったところだな。どうせきみたちは、ゲームを買ったところで説明書なんか読まないタイプだろう。それと同じだよ。まずはやってみてくれ。よ、っと』
モニターの向こうのラフィーネが、何やら動く。
それと共に円卓が突然に振動し、円卓の中央が左右に開いていった。そこからゆっくりとせり上がってくるのは、謎の黒い台座である。
そんな台座の上に乗っているのは――ペンのような、細い筒状のものだった。それが、一目見て数えきれないほどある。
「なんだ、これ……?」
「ペン……?」
『おやおや、あまり驚かないのだね。まぁ別に構わないのだが』
多分、それは既に驚きの極致にあるからだろう。
そもそも拉致されて、
『それは薬だよ。ちなみに、一本あたり使用できるのは二十回だ。手の甲にあてて、そのまま後ろにあるボタンを押せばいいだけだ。それだけで針が射出されるようになっている。ああ、カウント機能などは作っていないから、各々何回残っているのか把握しておくように。さて……では各自、それを一本ずつ取りたまえ」
「みんな、取ろう」
那智がまず、先に手を伸ばして薬を一本とった。それに続いて、次々と全員が一本ずつ取ってゆく。
勇次もまた手を伸ばし、最も近い場所にあった二本を手に取った。そして、そのまま一本を隣にいる妹――沙織に手渡す。
「ほら」
「あ、ありがとう。お兄ちゃん」
「ああ……」
見た目は、本当にただの先が丸くなっている筒だ。小さな穴が一つだけ開いており、恐らくそこから針が出るのだろう。
英雄とか、因子とか、よく分からないことばかりだ。だが、従わなければどうなるかを分かっていれば、どれほどわけの分からないことでも人間は従うのだろう。
全員が薬を持ったことをラフィーネが確認し、鷹揚に頷く。
『それを手の甲に押し付けてボタンを押したまえ。それできみたちの英雄としての因子が引き出される。具体的に言うならば、『きみたちの中で最も濃く存在する英雄の因子』ということだな。このあたりはどんな英雄が誰についているのか、事前の調査すらさっぱり不可能だ。やってみなければ分からない』
「あ、あの……いいですか?」
『八番、
「これを使うと……その、何か体が変わるとか、そういうことなんですか……?」
クラスでも一位二位を争う美少女――黒髪ロングの加賀優姫。
そんな加賀の質問に対して、ラフィーネは少しばかり驚いた様子で眉を上げた。
『その通りだ。よく分かったな』
「えっ……そんな……!」
『まぁ、きみが心配していることは分かる。問題はないとも。あくまで、英雄を表在化させるだけの代物で、効果がある時間は三分間に過ぎない。三分を過ぎれば元に戻る』
「そう、なんですか……?」
三分間。また新しいキーワードが出てきたことを聞き逃さない。
つまり、この薬を使うことで、英雄とやらの力を得ることができるが、その時間は僅かに三分という短いものだということだ。
遠い宇宙からやってきた巨人が、怪獣を倒すまでの時間と全く同じである。
『まずは、きみたちの適性が何なのかを確認する必要がある。そして、同じくそれをこちらでモニタリングさせてもらう。そこに置いてある薬の量は有限だが、この一度目だけは全員がこの部屋で行う必要があるのだ。分かったならば準備をするといい』
「……質問」
『十六番、
「……手袋は、外さなきゃ、だめですか?」
そう質問をするのは、加賀と並んでクラスでも一位二位を争う美少女その二――茶髪ショートの不知火涼。
髪の色が薄いのは、父方が外国人だからであり、決して染めているわけではない。ちなみにそんな事実を知っているのは、彼女が勇次の幼馴染でもあるからだ。
そんな彼女は極度の潔癖症で、常に手袋をしているのが特徴でもある。
『ふむ……初めてされた質問だね、それは』
「……だめ、ですか?」
『まぁ、問題はないだろう。厚手のものでないのならば、貫いてくれるはずだ。とりあえずやってみてくれ。それで駄目ならばまた別に考えよう』
「……わかりました」
『他に質問はないな? では全員、手の甲に薬を打ち込め』
勇次はゆっくりと、己の手の甲へと薬を近付ける。
手の甲に押し付けて、あとはボタンを押せば終わり――ただそれだけなのに、あまりの苦行にすら思える。
できることならば、やりたくない。自分が自分でない他の何かになるような――そんな、得体の知れない恐怖。
「お兄ちゃん……」
沙織もまた、不安そうな声だ。
だけれど――それでも、やらなければならない。
「やるぞ、沙織」
「うん……」
そして勇次は、薬を押し当てて。
そのまま――後ろについているボタンを、押した。
「――っ!?」
そして、その瞬間に。
勇次の視界は暗転し、暗闇が訪れた。
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