KAC20218 尊い 開き直り宣伝
霧野
KAC20218 尊い シキミのエマトール
その村は「崖の村」と呼ばれている。
あまりに険しい山の上にあるため、人はおろか、野生動物さえも限られた種類しか登ってこられない場所に在る。水は清く、下界には無い珍しい植物が生い茂り、山に棲む者たちに豊かな恵みを与える。
その村に棲む人々は、まるで猿のように身軽に樹々の間を伝い、獣のような素早さで地を駆けることができた。
エマトールもその村の一人だ。フードのついた黒いマントを纏うその少年は、艶やかな黒髪に、
「こんなところに独りで、寂しくはないのですか?」
そのモノは儚げに微笑んだ。白い髪に透き通るような白い肌、銀色の瞳の顔に浮かぶのは、小さなそよ風にもさらわれてしまいそうな微笑みだった。
「それを聞いて、どうするのです?」
心に直接、言葉の意味が響く。そのモノは発声器官を有しない。
エマトールは己の発した言葉を恥じた。聞いたところで自分にはどうしようもないことだった。
片膝をつき、頭を垂れた。眩いばかりの神々しさに、長く顔を上げていられない。
「……ごめんなさい。馬鹿な質問でした」
「良いのです、優しき人の仔よ。もう随分永いこと、わたくしはここにいます。淋しくはありません。わたくしには、この世のすべての物事が視えるし聞こえるのです。それに、たまにはこうして遊びに来てくれる者もいる」
そう言ってまた、柔らかに微笑む。その銀色の眼差しは慈愛に満ちていた。
「前にここを訪れた者は……そう、100年以上も前。お前と同じ、シキミの眼を持つ少年でした」
エマトールは弾かれたように顔を上げた。
「前任のシキミも、ここへ?」
それは静かに頷き、厳かに、歌うように語った。
「こちらの世界とあちらの世界、そしてその狭間。縄なうように進む三つの世界のバランスが崩れる時、太古の魔物が生まれ出る。それを倒し世界のバランスを取り戻すことこそが、シキミの真の使命」
雷に打たれでもしたかのような衝撃が胸の中に走った。シキミの本当の役割とは、人の死の時を告げることではなかったのだ。
「人の死がわかる力は、その副産物のようなもの」
まるでエマトールの心の中を読んだかのように、それは優しく語りかけた。
「……今でもまだ、シキミという職を嫌っている?」
エマトールは首を振った。以前は確かにそうだったが、今は違う。シキミである自分を受け入れ、愛してくれる人がいる。
それに、大切な友人の家族の死を告げ、実際にその人が亡くなった後、その友人に言われたのだ。「お前のおかげで、命の終焉に立ち会えたばかりでなく、その前の数日を一緒に過ごすこともできた。感謝している」と。
「人の死がわかるというのは、正直、とても恐ろしい。それが親しいものであれば、なおさらです。でも普通、人はいつ死ぬかわからないという恐怖とともに生きています。どちらが不幸なのか幸せなことなのか、僕にはわからない。でももし、死ぬ時期がわかれば、その準備を整えることは、できます」
「それを厭う者がいても?」
「……シキミを嫌おうが嫌うまいが、生き物はその時が来れば否応なく死にます」
フッ、と空気が和らいだ。そのモノが、力の抜けた笑を漏らしたのだ。
「今度のシキミは逞しい。その職に、誇りをお持ちなさい。尊い仕事です」
柔らかく爽やかな風が吹いた。
薄い翼を広げ、気持ちよさそうに風に揺らしながら、それは空を見上げる。蝶のような形でトンボのように透けたその翼に、風が吹き抜けるのを愉しんでいるようだ。
風が止むと、それはエマトールに視線を戻す。
「歳若く頼もしい新たなシキミよ、こちらへ。もっと、近くへ」
エマトールは立ち上がり、洞窟の出口を離れて崖の突端へ歩を進めた。
崖の村の住民たちでさえもその場所を知らない、険しく切り立った崖の途中。突き出した岩の先端に立つそれの足元に跪く。
「これをお取りなさい」そう言って差し伸べた手の中に、白く丸い石があった。亡くなったエマトールの相棒、ヒタキの一部だ。
「無くしてしまったと思っていたのに」
驚くエマトールに、静かに語りかける。
「そう。あの、死の渡り川の中に、それは落ちたのです。他のマガリコたちの石と共に、この世界を形作るものの一部になったのです。でも、それはもう少し後でもいいでしょう。あなたが持っていなさい。あなた方が世界のバランスを取り戻した、褒美として」
エマトールは白い石を両手で握りしめ、頭を下げた。
「ありがとうございます。大切にします」
「ときどき、またあの笛を吹いてくれると嬉しい。ここからでもよく聞こえるから、気が向いた時にでも」
嬉しくなって、エマトールは大きく頷く。
「はい。必ず」
「……そろそろお行きなさい。時が尽きます」
立ち上がり、エマトールは初めて、それと間近に対面した。普通の人間よりもかなり大きく、見上げる形になる。男とも女ともつかないその顔は、この世のものとも思えぬほど美しく、優しく、淡く憂いを帯びていた。
「最後にもう一つ、聞いてもいいですか」
それは、寛容に微笑んで頷いた。
「あなたは、《神》ですか?」
「……さあ、どうでしょうね。わたくしに、名前はありません。ただ、天と地を、この世とあの世を繋ぐ楔のようなもの」
エマトールは黙って頷き、深く一礼した。
場を辞するために顔を上げた時、それは、ひねっていた身体を戻し、エマトールに背を向けていた。膝のあたりから樹のようになった脚は乾いた地に根付き、薄い翼を風に揺らしながら、遠い空を見上げていた。
神のごとく尊きその存在に背を向け、エマトールは洞窟をくぐり抜けて自分の居場所へと戻っていく。シキミの運命と、彼を待つ人が居るその場所へ。
KAC20218 尊い 開き直り宣伝 霧野 @kirino
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