蛇足 引き籠り、おかわり!
或る令嬢の婚約 前編
全くの寝耳に水。
というわけでもなかった。
ミーディアは驚きながら青空色の瞳をぱちくりと見開く。その隣で、ヴァネッサも口をあんぐりと開けていた。
「だからね。あたくし、ミーディアちゃんに良縁をお持ちしましたの」
うふふ、と笑いながら紅茶を啜っているのは、カゾーラン伯爵夫人リュシアンヌだ。ヴァネッサを紹介したとき以来、時々こうして三人でお茶会を開いている。
特別美人というわけではないが、四十を過ぎているとは思えない愛らしい容姿。亜麻色の髪を、若い令嬢の間で流行っている生花で飾りつけた様は、なんとも可憐だ。
元ご主人様ことルイーゼは、リュシアンヌのことを「合法ロリ」と評していた。ミーディアには意味はわからないが、若くて可愛いということらしい。
「い、いえ……わたしは結構です……結婚は、もう少し考えます」
「あら、そうなの? とても素敵な殿方ですのよ。家柄もカスリール侯爵家と釣りあうと思いますわ。先方からお話がありましたけれど、とてもミーディアちゃんを気に入られているようでしたわ」
そうして渡された紙面には、相手の経歴が書いてあった。
年齢はミーディアより三つ上の十八歳。ヴァロア侯爵の長男で、確かに家柄も申し分ない。夜会での記憶を辿ると、なかなかの美男で評判も上々だ。
「ミーディアちゃんは王宮務めで作法も身に付いていらっしゃるし、そろそろ婚期ではないかしら? あ、うちのユーグでもいいのよ!」
「ユーグ様は、ダメです! いけませんわ、お義母様!」
「あら、そうでしたわね。あたくしったら、ユーグが早く結婚してくれないから焦ってしまいました」
「そ、そのうち……! ユーグ様は、きっとお義母様の期待に応える御仁です!」
サラッとユーグの名前を出すと、すかさずヴァネッサが血相を欠いた。さり気なく、「お義母様」なんて呼んでいる。勿論、婚約者ではないが、違和感はなかった。
「わたし、結婚はちょっと……」
想い人がいる。
そう言おうとしたのに、口が開かなかった。
ヴァネッサが心配そうにミーディアを見ている。
前世からずっと慕っているのは、ただ一人。
しかし、その人は歳も随分離れている。それに、ずっと――。
「リュシアンヌ様、ミーディアにはお慕いしている方が――」
「……会ってみるだけなら」
助け舟を出してくれたヴァネッサを差し置いて、ミーディアは弱々しく、しかし、やや大きな声で言った。
「会ってみてから、決めます」
貴族の結婚は見合いの時点で決まってしまうようなものだ。
会ってみてから決める。
それは、半ば婚約を了承するようなものであった。
「そう。では、進めておきますわ」
リュシアンヌがニッコリ笑った。
† † † † † † †
「なあ、爺」
「なんでございましょう、陛下」
「亀甲縛――」
「しませんぞ。早く執務に戻ってくだされ」
「いや、爺には頼んでおらぬ。縛って欲しいから、ミーディアを呼んで欲しいのだが」
「陛下ぁ……!」
ガックリと肩を落として涙を堪える侍従長など見もせず、アンリは頬杖をついた。
目の前に広げた書類になど、ちっとも意識が向かない。こういうときは、だいたい無理だ。縛られていないと落ち着かない。
「しかし、陛下。カスリール侯爵令嬢には、二日間、暇を出しております。この爺で我慢されよ! 陛下のためなら、この爺は……!」
「……なら、良い。要らぬ」
「へ、陛下ぁ……!」
複雑な表情で壁にもたれかかる侍従長を無視して、のろりのろりと羽根ペン執る。
そういえば、そうだった。ミーディアは休暇だったか。
彼女を側仕えに置くようになってから、なにかと便利で、つい頼ってしまう。
気が利くし、仕事も早い。有能だし、なにより抜群に緊縛が上手かった。
アンリが必要だと思った頃合いには、たいてい近くにいる。むしろ、監視されていると錯覚するくらい、絶妙な頃合いで現れることが多い。気のせいだと思うが。
「なんでも、縁談の話があったとか」
「なに? 縁談?」
侍従長がサラリと言うので、アンリは思わず聞き返した。
「陛下、聞いていなかったのですか? 明日、見合いの席が設けられるそうですよ」
「……初耳だよ」
「カゾーラン伯爵夫人が仲介されたとか。お相手はヴァロア侯爵家の嫡男ナルシス殿でしたね。いやあ、良縁だと思います。流石は、カゾーラン伯爵夫人ですな!」
話の半分程度しか頭に入らなかった。
――でも、
泣きながら必死に訴えた告白が思い出されて、アンリは首を横に振る。
「なにを考えておるのだ、私は……」
やや間を置いて、頭を抱える。
ミーディアはアンリのことを慕っていると言っていた。
正直な話、十五歳の令嬢からそのようなことを言われても困惑してしまう。自分は四十だし、妻も子供もいる。いや、妻は既に
未だにセシリアに固執するのは良くない話だ。だからと言って新しい王妃として、ミーディアを迎えられるかと言えば、別の話である。
だが、再婚を執拗に勧める臣下が要るのも事実。アンリがルイーゼと結婚すると言ったときも、隠さず歓喜していた者もいたくらいだ。後々知ったが、祭りの準備まで進んでいたらしい。
とはいえ、あのときとは事情が違う。
最近はエミールも成長して、人前でもそれなりに振舞える。いろいろあるようだが、ルイーゼとの関係も良好のように見えた。以前のように、早急に新しい世継ぎが望まれる環境でもない。
現状、アンリの再婚は国政に関わる事柄でもなくなっている。いや、有事に備えると、二人目がいても良いとは思うが――。
結局のところ、アンリの問題か。
「カスリール侯爵令嬢がいなくなると、寂しくなりますな」
侍従長がしみじみと言う。
ミーディアが結婚すれば、王宮務めには来なくなる。
側仕えの仕事は、フランセールでは飽くまで未婚の女性が作法を学ぶための意味合いが強い。何かしらの役職に就く女性もいるが、もっと成熟して経験を積んだ貴婦人がほとんどだ。
若いながらエミールの教育係に抜擢されたルイーゼなどは、例外中の例外だろう。
おまけに、ヴァロア侯爵家の領地は遠い。長男のナルシスは軍属で王都には住まないので、恐らく、妻となるなら領地で暮らすことになるだろう。
「なにはともあれ、めでたいことです。陛下も祝辞を考えておいてくだされ!」
「……わかっておる」
婚姻はめでたいことだ。喜ばしいではないか。
それなのに、胸に引っ掛かるものがある。違和感と言うには漠然としすぎていて、他のなにかに例えるには曖昧な感覚だ。
「見合いは明日と言ったか」
溜息。
年寄りのような息をつきながら書類に向かっても、やはり内容はほとんど頭に入ってこなかった。
† † † † † † †
目の前に座った殿方は、残念なことに良い人だった。
「ミーディア様は如何されますか?」
紅茶を追加するかどうか聞かれて、ミーディアは「あ、はい……」と小さく頷いた。その様が控えめに見えたのか、目の前の青年――ナルシスは爽やかに笑った。
短く刈った金髪に、利発そうな翠の眼。軍人に相応しい恵まれた体格と、優しい表情。
ユーグとは違った方面で、理想的な騎士と言えるだろう。女性が好みそうな殿方であると言える。
「こうして会ってもらえるとは、思ってもいませんでした」
ナルシスが快活に笑ってミーディアを見据える。あまり視線を合わせていられずに、ミーディアは俯いてしまった。
「初めて拝見したのは、今年の建国祭だったか。とても美しいご令嬢だと思っておりました。カゾーラン伯爵夫人と懇意にしていると聞いて、一か八かお頼みした甲斐がありました」
「いや、その……馬目線では、ちょっとした美女だと自負していましたが、人目線だったら、わたしなんて……」
ついつい歯切れ悪くなってしまう。
「うま……めせん……? ミーディア様は馬がお好きなのですか?」
「気にしないでくださいっ!」
ミーディアは自分がなにを言っているのかわからなくなりながら、必死で誤魔化そうと首を横に振った。
ああ、壺があったら入りたいですぅ……あ、庭の隅に置いてある壺、とても良いです。大きさも丁度いいし、居心地も良さそう。ああ! あそこに! 入りたい! です!
人と話すのは苦手ではない。むしろ、得意だ。
しかし、どうも駄目だった。
いつまでも、叶わない恋に浸っているわけにもいかない。リュシアンヌの言っていたように、ミーディアも結婚適齢期の令嬢だ。名家の令嬢がいつまでも結婚せずに独り身でいるわけにもいかない。
潮時だ。
そう思って、リュシアンヌの申し出を受けたものの――。
「ミーディア様は奥ゆかしいのですね」
控えめに振舞っているミーディアを見て、勘違いしたのか。それとも、気を遣ってくれているのか。
あまり乗り気ではないとは、言える空気ではない。
きっと、他の令嬢ならもっと上手く取り繕うだろう。貴族の子女として生まれた以上、家のための結婚は必要だ。自分の恋愛を押し通すことは、贅沢というものだ。
わかっているが……。
たぶん、性分だ。ミーディアは嘘をつくのが苦手なのだと、改めて自覚した。
ナルシスは良い人だと思う。きっと、結婚出来れば幸せだろう。リュシアンヌは良縁を結ぶ夫人として、ちょっとした有名人でもある。彼女の目に狂いはなかった。
でも……でも……。
「あれ?」
ミーディアは違和感を覚えて、数度瞬きした。
気のせいだったか。庭の隅に置いてあった大きなつぼの位置が変わっている気がする。
「見間違い?」
まさか、壺目線などあるはずがない。あれは、ミーディアの専売特許のようなものである。そうそう真似など――。
「ひ、ひひぃん!?」
などと思っていた矢先に、いきなり壺が倒れた。
ゴトリと勝手に転がった壺を見て、ミーディアは思わず声を上げてしまった。
「ど、どうしましたか? ミーディア様。馬のような悲鳴を上げて」
「い、いいいいえ!? なんでも、ありません! 気にしないでくださいっ! 壺なんて気にしていませんっ! ほんとですっ!」
そう言っている間に、倒れた壺がガタガタと揺れている。おまけに、「う、うごけない……」と苦悶の声まで聞こえてきた。どう見ても怪奇現象である。
「ちょーーーっと、失礼します!」
ミーディアは雑に断りを入れると、横倒しになっている壺を木材かなにかのように、ヒョイと持ち上げてその場を離れる。
最近は必要なくなったとはいえ、一応、鍛錬は欠かしていない。そこらに転がっている騎士様よりも強い自信がある。
「な、なに!? う、浮いた!?」
壺の中からモゾモゾと声が聞こえている。ミーディアは人気がない場所で壺を下ろし、中を拝見した。
「ヴァネッサさん、なにしてるんですか!?」
「な、な、な!? 見つかってしまいました――いいえ、私は趣味であそこにいただけです。壺目線というものに、興味があっただけでしてよ! 心配して覗き見していたわけでは……」
壺の中でヴァネッサが顔を赤くして訴えている。
ミーディアは息をついた。
「わたし、心配かけちゃってたんですね」
「いえ、だから! これは!」
壺の中から、ヴァネッサがヒョコッと顔を出す。その様がおかしくて、ミーディアは思わずクスリと笑ってしまった。
「なにがおかしいのですか! 人がせっかく心配して見に――いいえ、心配などしておりませんが」
「はい、ありがとうございます」
なんだか、緊張が解れた気がする。
「私、その……」
それでも、ヴァネッサはミーディアを訝しげに、じっと眺めていた。ミーディアが首を傾げると、ヴァネッサは吹っ切るように口を開く。
「あなたのこと、仲間だと思っていたの」
大きな目に涙が溜まっていくのを見て、ミーディアは困惑してしまう。どうして、ヴァネッサが泣くのだろう。
「私も、ユーグ様に恋をしているから」
震える声を聞いて、ミーディアは口を噤む。
ヴァネッサはユーグに恋をしている。
ミーディアも、アンリに恋をしている。
互いに別の男性を好きになった。そして、どちらも成就していない。
きっと、ヴァネッサはミーディアに共感しているのだ。
いつか、自分も同じようになってしまう。ついに報われず、他の男の元に嫁ぐことになってしまうのではないか。そうなったときの自分を、ミーディアに重ねているのかもしれない。
「ごめんなさい」
ヴァネッサの気持ちが痛いほど伝わってしまい、ミーディアは頭を下げる。
「別に、私は……」
ヴァネッサがプイッと目を逸らす。
素直ではないところが、ルイーゼに似ている。そう言ってやると、きっと本人は怒ると思うのだけれど。
「あの、ヴァネッサさん。一緒に入っても良いですか?」
「へ? え? え? 入るって、あ、あの!? えええええ! ちょっと、狭くってよ!?」
うろたえるヴァネッサを軽く押し退けて、ミーディアは「よいしょ」と壺の口から中に入った。令嬢が二人入っても充分な大きさである。
「はあ……やっぱり、壺目線は落ち着きます」
しみじみと、狭い空間を楽しんで息をつく。
「私には、こんなものにいつも入っている気持ちがわからなくてよ」
「そうですか? 落ち着きませんか?」
キョトンと首を傾げてみるが、ヴァネッサには理解されないようだ。
一拍、沈黙が降る。
「わたし、やっぱり陛下が好きなんです」
沈黙を破って、ミーディアが笑う。
壺の中で密着した温かさが伝わってくる。誰かと一緒に壺に入るのも、悪くないものだと思った。
「でも……でも……」
言いながら、俯いてしまう。
いっそのこと、ヴァネッサのように泣いてしまいたい。それなのに、不思議と涙は出てこなかった。
自分は貴族の子女で、結婚は義務のようなものだ。病気や特別な理由がない限りは、家の信用を落とすだけ。
恋は自由だ。
でも、結婚は違う。
慕っている殿方と、一時でも一緒にいることが許されたミーディアは、きっと特別に幸せなのだと思う。
理解しているから、こうして縁談も断らなかった。
気乗りしない。そんなワガママなんて、言えない。
「頭と気持ちは、違うんです」
泣いてしまいたい。
思いっきり、泣ければいいのに。
「わたし、そろそろ戻りますね。ナルシス様をお待たせしてはいけませんから」
一息ついたところで、ミーディアは壺から這い出た。ヴァネッサが心配そうに見ているが、笑顔を作る。
「大丈夫です」
いつも通りに笑って。
「全然、大丈夫そうじゃないのだけれど……」
ヴァネッサの呟きも聞こえないくらい、早足でその場を後にする。
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