第145話
その日の目覚めも、ごく平凡なものである。
いつもと変わらない朝。
いつもと同じ朝。
何一つ変わらない日常を、これからこなすのだ。
変わったことなど、なにもない。
なにもない。
「寄越せよ、全部」
深淵から急速に呼び醒まされる感覚。
いや、暗い闇の底に引き摺りこまれている?
氷の刃のように、ぞっとするほど冷たく。
闇の底から歌うように美しく。
雲のように掴みどころがなく。
心を鷲掴みにされ、握り潰されるような恐怖を刻む声。
「奪い尽くしてやる」
闇に呑まれまいと、もがく。されど、いくらもがいても、前に進まない。焦れば焦るほど絡め取られる。まるで、蜘蛛の糸のようだ。
「待っていろよ、劣化版」
高い場所から一気に落下して行くような感覚が襲った。
必死に手を伸ばし、されど、振り払い――落ちて、墜ちて、堕ちて――そして、覚醒する。
「――――ッ!?」
両目を開くと、そこには見慣れた天井があった。
「ゆ、ゆめ……ですわよね?」
息を整えようと試みるが、上手くいかない。全身から噴き出る汗のせいで、寒気がした。
ルイーゼは伸ばしていた自分の手を眺める。
今のは、夢?
確かに、誰かがすぐ傍にいる気配があった。腕を振り払い、抵抗した気がする。
ぞくりと嫌な予感がして、急いで周りを見回したが、部屋には誰もいなかった。珍しいことに、お約束のように寝台に潜り込んでくる父や兄すら見当たらない。
「よかった……」
夢で良かった。ルイーゼは一息ついて、安堵の笑みを漏らした。
驚かさないでほしい。
最近の夢は、悪いものばかりで困る。どうせなら、良い夢が見たい……理想の筋肉を思う存分触ったり、カッコイイ大きなゾウが現れてくれたり、ハッピーエンドな人生を迎えたり……そういう良い夢を見たいものだ。
「本当に残念だな。夢であることが、残念だ。そうだろう、劣化版?」
ぞくり、と肩が震える。
背後に気配を感じて、ルイーゼは振り返った。同時に、肩を掴まれて寝台に押し倒される形となる。
「あ、あ……な、にを……」
首を掴まれて、声が出せない。息も満足に出来ず、ルイーゼはパクパクと口を開閉させた。
目の前に迫る、見覚えのある顔。
漆黒の双眸が笑みを描いていた。長い黒髪が垂れ下がり、ルイーゼの上に落ちる。完全に組み敷かれる形となり、ルイーゼは抵抗することが出来なかった。
「エドワード・ロジャーズ……!」
相手の名を呼び、抵抗しようと力を込める。だが、ルイーゼの筋力では、どうすることも出来なかった。戦闘の勘は働いても、単純な力勝負では男に勝てるはずがない。
「一つ言っておいてやるよ、劣化版」
愉しげに細められる目。左眼が黒から蒼へと変じ、波打つような光を放った。
「お前の全てを奪ってやる。なにもかも、だ」
弄ぶような口調だ。息がかかるほど顔が間近に迫っているのに、視線を逸らすことすら出来ない。
顎に指がかけられ、持ち上げられる。
震える唇に覆い被さるように、唇が重ねられた。
嫌だ、嫌! やめてくださいッ! 抵抗しようにも、身動きが取れない。口の端から吐息が漏れて、妙な声が出てしまう。
「んッ、ふ……い、やです、わ……やめてッ!」
ようやく顔を逸らすが、無理やり押さえつけられてしまう。
こんなの嫌だ。絶対に嫌。ルイーゼは必死に抵抗しようと試みた。
「やだ……助けてください! 助けて……嫌です。エミール様、助けてッ!」
自分がなにを言っているのかわからない。
わからないまま、ルイーゼは声の限り叫んでいた。
「よろしゅうございませんっ、お嬢さま!」
扉が開く音がする。
誰かが部屋の中に踏み込んできた?
「お嬢さま、お嬢さま」
声は遠く。けれども、次第に近く。
「お嬢さま、大変でございます。よろしゅうございませんよ!」
気がつけば、揺り起こされていた。
周囲の景色が闇に消えて、一瞬のうちに覚醒していく。なにもかもが幻のように消え失せる感覚に、ルイーゼは眩暈を覚えた。
「…………?」
見慣れた天井。
穏やかな陽だまり。
うるさい執事の声。
「ゆ、め……?」
今度こそ、夢だったのだろうか。
ルイーゼはぼんやりとする思考で、辺りを見渡した。
寝台の脇には、慌てふためくジャンの姿が見える。珍しく、モーニングティーの用意をしていない。いつもと同じなのに、いつもと違う。
ルイーゼは自分の首に手を触れた。誰かに絞められた感覚はなく、息も正常だ。
「本当に、夢ですか……?」
夢オチからの、夢オチ。
なんだか、気分が晴れなかった。もう一段階くらい、同じ展開があるかもしれない。そういうお約束も考慮しながら、身体を起こした。
「お嬢さま、大変にございます! そ、外を……外を見てください!」
「はあ……外、ですか?」
なにが大変だと言うのだろう。大袈裟に慌てる様子から、ますます三度目の夢オチフラグが強まった。
だいたい、さっきの夢はなんだ。
悪趣味にも程がある。
なにが悲しくて、自分の前世と同じ顔に襲われなければならないのだ。性質が悪い。悪趣味だ。吐き気がする。
どうせなら、もっと良い夢が見たい……理想の筋肉に思う存分触ったり、カッコイイ大きなゾウが現れてくれたり、ハッピーエンドな人生を迎えたり……そういう良い夢を見たい!
「夢オチにも、そろそろ慣れてきましたわ」
ルイーゼは一人で息をついて、窓へと歩み寄る。
そして、カーテンを開けた。
「…………は?」
思わず、声が出てしまった。
「…………は?」
もう一度、出てしまった。
「…………は!?」
三度見して、ようやく頭の中に目の前の光景が入ってくる。窓を開けて、ルイーゼは叫んでしまった。
「これは夢オチで間違いありませんわね!?」
まったく現実味のない光景に、確信して叫んだ。
「あ、ルイーゼ。やっと、起きたんだね! おはよう!」
楽しそうに笑う声。無邪気な子供のようで、とても明るかった。
声の主――エミールは片手を振って、ルイーゼの傍まで近寄ってくる。目の前に迫った王子を見て、ルイーゼは目をパチクリと見開く。
因みに、ここは二階である。普通は、窓の外から近寄るなんて無理だ。
「見てよ、ルイーゼ。街に来てたサーカスをね、父上が呼んでくれたんだよ! ゾウ、とってもカッコイイでしょ! ねえ、絶対にルイーゼも気に入ると思ったんだ!」
「ぱぉぉおおおおん!」
エミールが笑うのに反応して、ぱおぉぉおおんと鼻を持ち上げて鳴く巨大生物。
「ありえませんわ。夢オチ確定ですわ」
ゾウに乗った王子様が窓の外にいる。
そう、これは夢に決まっている。
「あはは。おかしい。絶対にありえない光景ですわ。だって、ゾウですわよ。ゾウ。王宮から、お屋敷までゾウで移動してきたと言うのですか? ……ありえませんわ。ありえません。ありえませんわよね!?」
夢であるかどうか確かめるために、ルイーゼはジャンを軽く鞭打った。ベシィンッと気持ちの良い音が鳴り、確かな手応えがある。夢にしては、実にリアルで気持ちが良い。
「よろしゅうございます、お嬢さまっ!」
「あ、あら……お、おかしいですわね!?」
ルイーゼは早く夢オチにしてしまおうと、鞭を連打。それに応じて、ジャンは大歓喜。
窓の外では、楽しそうに笑うエミールの声と、ゾウの鳴き声が響いているのであった。
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