第139話

 

 

 

 異変に気がついたのは、エミールが四歳の誕生日を迎えた頃だった。


「アンリ様?」


 家族三人で過ごすとき、アンリはいつもセシリアとエミールから目を離さない。

 あまり見られると恥ずかしいと言うと、「セシリアもエミールも、いつまで見ていても飽きないのだよ」と笑うのだ。余計に恥ずかしくなって、鳩尾に一発入れるまでがお約束の流れ。


 それなのに、その日はぼんやりと虚空を眺めていた。

 その日だけではない。最近、時々、このような表情をしている。


「アンリ様」


 一度目の呼びかけで気がついていないようだったので、もう一度声をかけた。

 すると、アンリはようやく、セシリアの方を向いた。


「体調が優れませんか?」


 心配して問うと、アンリは「そのようだ……」と頭を抱えて首を横に振った。


 戦争が終わって、一時期のような激務ではないにしろ、国王としての仕事は山積みだ。まだ残った債権の問題もあるし、内政も落ち着いたばかりだ。疲労が溜まっているのかもしれない。

 アンリに関して言えば浮気の心配は恐らくないし、その度胸もないと思う。あったとしても、力技で捻じ伏せる用意があった。


「休めるときにお休みください。エミールの相手も疲れるでしょう」


 エミールがキャッキャと笑って二人の周りを駆けている。クロードのせいで若干引き籠り気質になってきたが、室内では元気いっぱいだ。


「父上ぇ、だっこしてくださぁい!」


 エミールがアンリの服を引いて笑う。けれども、セシリアはエミールを抱き上げた。


「アンリ様はお疲れなのよ。また今度ね」

「でも、父上あんまりあそんでくれないから……」

「わたくしと遊びましょう」


 エミールは唇を尖らせて、ぶーぶーと頬を膨らませている。この子は、セシリアに似たのかもしれない。きっと、将来はやんちゃになるだろう。


「少しくらいなら、構わんよ」


 アンリは柔らかく笑うと、セシリアの手に抱かれたエミールに触れた。エミールは嬉しそうに、アンリの方へ移っていった。


「……ふ、ぇ……なんか、やだ……やだッッ!」


 だが、アンリの腕に抱かれてすぐにエミールが暴れはじめた。

 四歳児に全力で抵抗されて、アンリは思わずエミールを手から落としてしまう。


「エミール!?」


 床に落ちたエミールは大声で泣いている。どこか怪我をしていないか確かめるが、幸い、軽い打ち身がある程度だった。


「す、すまない、エミール」


 アンリも血相を欠いてエミールを覗き込む。


 思えば、それが最初の異変だった。




 アンリの体調がみるみる崩れていった。

 気を張っているせいか、公務はなんとかこなしている。しかし、夜になると、ぼんやりしたり、眩暈を訴えてふらついたり……寒気がして一晩中、吐きはじめたこともある。

 原因不明の病ではないかと心配して、何度もしばらく仕事を休むように提言した。けれども、そのたびに「今、私が休むわけにはいかんよ」と答えられる。


「お身体を悪くされてからでは、遅いのです。一月でも二月でも、休養してくださいませ。穴埋めは、なんとか致します。これ以上、エリックや爺を酷使するのは可哀想なので、引き籠って出てこないセザールやクロードでも呼び出して、馬車馬のように働かせますわ」


 セシリアが呼び出せば、二人とも慌てて飛んでくることだろう。使えるものは使ってしまえ。なんなら、ロレリア侯爵領を継いだ兄も呼び出したっていい。

 書類に目を通して判を押すくらいなら、セシリアにも出来る。むしろ、アンリより上手く内政NAISEIする自信があった。というか、ちょっとやってみたい。楽しそう。


「案ずるな、大丈夫だ」


 けれども、アンリは首を縦には振らなかった。

 軟弱な臆病者のくせに、頑固で負けず嫌い。実にアンリらしい。


 あとになって考えると、このとき、無理にでも休ませておけば良かったのだと後悔することになったが。

 いや、無理にでも休養と称して離宮に押し込むべきだった。

 アンリを執務室に籠らせるべきではなかった――人魚の宝珠マーメイドロワイヤルに近づけてはいけなかった。




 セシリアとアンリの結婚は、実は先代の国王シャルル二世のときから考えられていたらしい。


 表向きは外国にいつ掠め取られるかわからないロレリア侯爵領との結びつきを強めるため。


 真相は転生者の血を確保して人魚の宝珠の力を使うためである。


 どうして、今頃になって転生者の血筋を求めたのか、セシリアは疑問に思っていた。王家は以前から、その存在も、人魚の宝珠の力も理解していたというのに。


 人魚の宝珠は、元々ロレリア侯爵領にあった。

 しかし、宝珠は伝説と呼ばれる海賊エドワード・ロジャーズによって奪われてしまったのだ。

 それを取り返すために、当時のロレリア侯爵は王家に助力を呼びかけた。そして、奪還後はアルヴィオス王家に火竜の宝珠サラマンドラロワイヤルが、フランセール王家に人魚の宝珠マーメイドロワイヤルが保管されることとなった。

 伝承でも語られる真実である。


 元々、二つの宝珠をこの世界に持ち込み、所有していたのはセシリアだ。

 異世界転生するときに、自称神から授かったささやかなチート能力である。


 けれども、その存在が恐ろしいと思うようになっていた。

 自分をつけ狙う悪党がいると聞いて、宝珠の一つを手放した。結局は無駄になって宝珠は二つとも海賊の手に渡ってしまったが、こうして今は安全な場所に保管されている。


 そう思っていたのが、きっと油断だった。

 アンリの体調不良も、前国王シャルル二世の急逝も、全て元凶は同じだったのだから。


「セシリア」


 暗闇の底から歌うような。雲のように掴みどころがないような。ぞっとするような声だった。

 一瞬、誰に呼び止められたのかわからず、セシリアは息を呑んだ。振り返って、ようやくそれが知っている人物だと気づく。


「アンリ様……? どうかしましたか?」


 空気が重く感じる。息をするのも苦しい。

 なにかが違う。いや、全然違う。

 セシリアの中で違和感ばかりが胸を支配していく。

 なにかが違う。なにもかもが違う。


 あなたは……誰ですか?


 セシリアはそう言おうとして、口を噤んだ。

 当然のように問うべき言葉なのに、何故か躊躇われたのだ。


「母上ぇ!」


 エミールがトットットットッと走ってきて、セシリアのドレスを掴んだ。


「エミール?」


 セシリアは戸惑いながら、アンリに背を向ける。そして、エミールに引かれるまま、その場を離れた。


「エミール、どうしたの?」


 二人きりになって、セシリアはエミールの前に腰を落とす。すると、エミールが泣きながらセシリアの胸に飛び込んできた。


「母上、わすれちゃダメ!」

「え?」


 忘れる?

 なんのこと?


 よくわからなかった。けれども、エミールに触れていると、何故だか身体の中に温かい波のようなものが流れ込んでくる気がした。

 この感覚は、覚えている。

 人魚の宝珠を使用するときに近い。セシリアは思わずエミールを見下ろした。


「エミール、あなた……」


 エミールの手や衣服を確認するが、宝珠を持っている形跡はない。されど、エミールのサファイアの瞳が波打つように蒼く光っていた。


 エミールはセシリアの子――転生者の子だ。宝珠の能力を扱う力を持っている。

 触れていなくても、宝珠が使えるというのだろうか。セシリアの前世にも、ここまで素養のある存在はいなかった。


 だが、いくらなんでも、近くに宝珠がないのに能力が使えるはずがない。宝珠はアンリの執務室の隠し通路に保管されており、普段は誰も触れることが出来ないはず。


「まさか、宝珠が外に持ち出されているのですか?」


 だとすれば、誰が。

 その答えは、わかっている。


「アンリ様、どうして……」


 セシリアは口元を押さえた。


 その瞬間に、頭の中に忘れていたはずの記憶が蘇ってくる。


 一度目はアンリが宝珠を持ち出している現場を目撃した。そこで記憶が途切れ――忘れてしまった。

 二度目はアンリの様子がおかしいことに気づいたときだ。先ほどのように、まるで別人となっていた。セシリアが「あなたは、誰?」と問い――忘れてしまった。

 三度目も、四度目も同じだった。


「わたくしとしたことが」


 セシリアは何度もアンリの変化に気づいていた。しかし、そのたびに記憶が消され、無限ループのように同じことを繰り返していたのだ。

 まさか、有り得ない。

 されど、それが現実だった。


 考えられることは一つだ。


 人魚の宝珠に誰かの魂が入っていた。そして、接触の機会が多かったアンリを乗っ取っている。

 最近、体調が優れなかったのも、そのせいかもしれない。


 あれはセシリアの前世たちが所有していたものだ。使い方は、大方、自称神から頂いたときに自然と理解していた。


 ずっとそいつは宝珠の中に潜んでいたのだ。

 そして、接触の機会が多い国王を少しずつ浸食していった。前王シャルル二世が急逝したのも、恐らく、そのせいだ。シャルルは元々が病弱だったため、耐えることが出来なかったのだろう。


 アンリは歴代稀に見る激務をこなす王だ。

 式典で身につけるだけではなく、常日頃から宝珠と一番近いところにいた。少しずつ、歳月をかけて浸食されていたのだとしたら……。


 そうだとすれば、辻褄が合う。今頃になって、王家が転生者の血を求めた理由。きっと、乗っ取られることに気づいた前王シャルルが、残った意識で下した決断だったのだろう。

 宝珠を扱う者を産んで、そこに巣食う悪魔を消し去るための結婚だ。それを息子アンリの代に託した。

 託された子は――エミール。


「どうすればいいのよ」


 早く、彼の中に入り込んだ者を追い出さなくては。

 アンリだって身体が強い方ではない。前王のように――。


「母上ぇ……」


 エミールがセシリアに抱きついてすすり泣く。

 この子は幼いながらに危険を察知していたのだ。そして、セシリアの記憶が消されるたびに、戦っていたのかもしれない。


 このままだと、この子だって危ない。

 宝珠を扱うエミールの存在は、こちらにとってはアドバンテージだ。けれども、まだエミールは幼すぎる。巻き込むわけには、いかない。


「エミール、大丈夫よ」


 我が子をぎゅっと抱き締める。きついくらいに。エミールが痛がってもぞもぞとしていたが、気にせず力を込めた。


「わたくしが守ります」


 あの中に入っているのが誰なのか。仮説を立てることは出来る。

 そして、その男とセシリアは前世で会っている。セシリアの前世の一人を殺した男だ。


 人魚の宝珠を奪い、わざと殺された。そして、その魂を宝珠に移した。

 だが、なんのために。彼はなんのために、そんなことを? 王位が欲しかった? しかし、まるで呪い殺すような方法で国王を乗っ取っても、長くは持たないだろう。

 まだなにかありそうだ。

 必ず打ち砕いてみせる。


 セシリアは決めたのだ。

 なにがあっても、この幸福な現世を守るのだと。




 機会は訪れた。

 建国祭のパレードでは、国王は宝珠を身につける決まりになっている。

 そのとき、アンリは確実に宝珠を手にする。それは、宝珠の中の人にとっては好都合だろう。


 しかし、逆に言えば終わったあとは必ず、然るべき場所へ安置することになっている。


 アンリを上手く操った中の人は、いつも宝珠を保管庫から持ち出しているに違いない。保管してもすぐに取り出すつもりだろうが……その前に、セシリアが盗み出す。


 宝珠とアンリを遠ざける必要があるのだ。

 それが出来るのは、セシリアしかいない。


「わたくしが守ります」


 全部、守る。


「きっと、セザールやクロードに怒られるわね」


 フッと笑って目を伏せる。

 セザールはサングリア領でセシリアの代わりにワイン造りをしている。クロードは建国祭に帰っていたが、パレードが終わると三日目の宴にも出席せず早々に王都を発ってしまった。

 二人ともセシリアが呼べばすぐに来る。

 いや、確実に来てくれるだろう。


「でも、これは、わたくしの戦い」


 助けは求めない。

 それよりも、これからのことを託したいと思った。

 こんな方法での戦いなんて、たぶん、二人は許してくれない。


 だから、わたくしは独りで戦うの。

 

 

 

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