第134話

 

 

 

 セシリアが誰のために人魚の宝珠マーメイドロワイヤルを盗んだのか、アンリにはわからなかった。


 いや、わかってはいる。

 だが、納得はいかない。


 あのとき、なにがあったのか。想像は出来るが、憶測でしかない。

 そこにどんな想いがあったのか。また、彼女になんの考えがあったのか。アンリには想像しか出来ない。だが、それは彼女の意思であるとは限らない。

 直接、言葉を聞いたわけではないのだから。


 ――安心してください。


 最後に見たのは、確か笑顔だった。


「そのようなことをするくらいなら」


 あのとき言えずに飲み込んだ言葉を吐き出す。


「ずっと、ここにいてくれた方が良かった」


 セシリアの行動が誰のためだったのか。なんのためだったのかは関係ない。

 今、彼女がここにはいない。それだけは紛れもない事実で、それが現実。そして、アンリにとって、それが結果だった。


 本棚が左右に割れるように開き、暗い通路への入口が現れる。

 普段は特に立ち寄る用事はない。

 そこに安置してあるものは抜け殻で、意味はないのだから。ただ、今は少し見ておきたくなった。


 ――ぼ、僕……もっと父上とお話したいです。


 今朝、エミールと初めて朝食を摂った。

 二人きりの食事はぎこちなくて、会話はほとんどない。でも、エミールは懸命にアンリに話かけ、アンリもそれに応えた。

 十五年、まともに顔を合わせてこなかった息子は、いつの間にか大きくなっていた。


 エミールの年頃で、アンリは既に王位にあった。そして、傍らにはセシリアがいた。支える臣下にも恵まれていた。

 あの頃の自分が良い王であったとは思えない。エミールに誇れるほどのことをしたかと問われると、疑問もある。やはり、アンリは弱いのだ。

 今もセシリアが忘れられない程度に。

 だから、母親がいなくても強くなろうとしているエミールが、羨ましくもあった。


「なんだ……話せることは、なにもないと以前にも言ったはずであろう」


 隠し通路を潜ろうとしたところで、アンリは足を止める。そして、振り返った。


「陛下」


 戸口に立っていたのは、カゾーランだった。

 表情から感情を読み取ることが難しい。感情の起伏が激しい彼にしては、珍しいことだ。いや、どう表現すればいいのか、わからないだけかもしれない。

 アンリは一旦、通路を進むのを辞めてカゾーランに向き直る。


「この奥には、なにが?」

「ここには、なにもない。なくなってしまったのだよ」


 問われたことに対して、素直に答えてやる。

 エミールの教育係にルイーゼを就けた頃から、カゾーランがなにかを知りたがっていることには、気がついていた。それが十五年前の事件――セシリアの死に関することであることも、承知している。


 人魚の宝珠について知っている人間は、ごくわずかだ。王家にも、ロレリア侯爵家にも関係のない者に易々と話すことは出来なかった。

 アンリは、それ以上に、カゾーランが知るべきではないと思ったのだ。


「ここにあったのは、人魚の宝珠――今あるのは式典で使用する抜け殻だけだ。中身はない」


 淡々と述べると、カゾーランは若草色の目を細める。怪しんでいるのだろう。


「本当のことだよ」

「左様ですか」


 アンリは執務室の中を歩いて、自分の椅子に腰かける。カゾーランにも、中のソファに座るよう促した。

 カゾーランは素直に応じる。


「カゾーラン」


 アンリは机に両肘をついて指を組んだ。


「私は、やはりそなたは知るべきではないと思う。少なくとも、私の口からあの事件について語りたいとは思わない。それは理解しているか」

「……以前にもお聞きしました」

「そうか」


 アンリは姿勢を保ったまま、カゾーランを睨んだ。カゾーランは戸惑っているようだが、なんとか視線を返す。


「そなたは、我が国で最も強い男だ。頭も良い。私はそれを評価しているし、何度も救われた。だが、そなたの脆さも充分にわかっておる」

「陛下は、このカゾーランを理解しております。その上で、お話にならないことも」


 カゾーランは拳を握り締める。


「ですが、陛下。それでも、知りたいのです」

「親友を刺したからか?」


 核心を突くと、カゾーランは閉口した。彼の言おうとしていることは、いつもわかりやすい。


「私の口から、あのとき、そなたはオーバンを刺すべきではなかったと言ったらどうする? そなたのしたことの方が罪なのだと責めたら?」


 カゾーランが信じられないと言いたげに目を見開いた。アンリは軽く唇に笑みを描いて首を振る。


「冗談だ。だが、当てつけでもある」


 いつまでも核心に迫らないアンリの物言いに、業を煮やしたのか、カゾーランは立ち上がった。

 それに応えるように、アンリは組んでいた指を解く。


「人魚の宝珠を盗んだのは、クロード・オーバンだ。そして、改心を訴えたセシリアが首を斬られて死んだ。誰もが納得する筋書きだと思っておるし、当人たちもそれでいいと思っているだろう」

「……クロードは、そのような謀反を起こす男ではなかったと、このカゾーランは知っております。奴は王家に忠誠を誓っております。このカゾーランと肩を並べる唯一の騎士です。それが……」

「そなたが串刺しにした男が善人であった。無実の男を刺し殺して、そなたは国民から英雄のように語り継がれている。と、言われたとすれば、そなたはどうする?」


 カゾーランが愕然とした表情を浮かべた。

 彼が真相を知りたがる要因は、ここであると理解している。

 自分は、本当にあのとき、クロード・オーバンを刺してよかったのか。今でも迷っているのだろう。そこに後ろめたさがあり、疑念がある。


「そなたの知りたいことの答えを、私は持ち合わせていない。実のところ、本当のことはわからないのだよ」


 以前に言った通りだ。

 アンリは事実を知っている。だが、それはカゾーランの知りたい答えではないかもしれない。


「ただ、これだけは言える」


 アンリは椅子から立ち上がって、カゾーランの前に立った。


「きっと、オーバンはそなたが刺さなくとも死んでいたぞ」

「……どういう、ことですか」

「その必要があったから」


 自分よりも高い位置の肩に手を置いて、アンリは言葉を続ける。


「推測だが……きっと、無二の友に刺されて死ぬ方が、彼にとっては幸せだったのかもしれぬ。自分勝手な理屈だよ」


 カゾーランは納得がいっていない様子だ。だが、心なしか表情が落ち着いていると思えた。


 アンリは息をついて、カゾーランに背を向けた。

 真相はわからない。想像しか出来ない。だから、アンリはカゾーランに話してやることは出来ない。


 だが、憶測は出来る。


「本当に、そう思っているのか?」


 室内に三つ目の声が響く。

 闇の底から歌うような、雲のように掴みどころのない。背筋の凍る声だった。部屋の気温が下がった気がして、アンリは悪寒を覚える。


「貴様……!」


 背後でカゾーランが身構えるのがわかった。

 アンリは振り返ろうと、足を動かす。だが、震えてしまって自分の身体はなかなか言うことを聞かなかった。


「まさか」


 既視感に眩暈がした。

 寒気がして、その場に崩れ落ちそうになる。だが、なんとか持ち堪えて机に手をついた。


「そんな……何故……?」


 わけがわからない。この声は、間違いない。


 ――寄越セヨ。オ前ノ全テヲ。


「久しぶりだな、国王陛下」


 笑う声と同時に、背後に気配を感じる。アンリはとっさに振り返ろうと、身を翻す。


「陛下!」


 だが、横から突き飛ばされた。

 カゾーランに押し退けられる形で、アンリは床に転がってしまう。

 身体の痛みに耐えながら、アンリは視線をあげた。


「その男を庇うのか?」


 外套のフードを深く被った男が立っていた。手には片刃のサーベルが握られている。

 カゾーランが刃を受け止める形で、アンリとの間に入っていた。カゾーランが突き飛ばさなければ、今頃、アンリは斬られていたかもしれない。


「陛下にはお考えがあってのこと……!」


 カゾーランはそう叫んで、相手の刃を押し戻した。相手の男は体勢を崩すことなく、刃を構え直す。


「お前はいつだって馬鹿正直だな」

「このカゾーランは貴様のような輩は知らぬ! 去るがいい!」

「冷たいなぁ」


 狭い部屋の中で刃の重なる音が響く。机やソファが押し退けられ、部屋がみるみるうちに荒れていった。


 その隅で、アンリはただ呆然と座り込んでいる。

 あの男は――考えが至ろうとするたびに、思考を止めた。蘇る記憶を振り払って、頭を抱える。


「その男が言わないなら、やはり、俺が教えてやろうか?」


 影のように男が笑う。

 その声が脳に響く気がして、強い眩暈がした。


「人魚の宝珠を盗み出したのはセシリアだった」


 男がカゾーランの剣を払う。そして、隙の出来た喉元に刃を向けた。

 カゾーランが息を呑んでいる。アンリは息を殺して、その光景を見ていた。


「王家はある目的のために、人魚の宝珠を使おうとしていた。それを阻止するためにセシリアは裏切って、宝珠を盗んだんだよ」


 深く被ったフードの下で男が笑った。左の眼が波打つように蒼く揺らめいている。

 あの輝きは間違いない。人魚の宝珠のものであると、アンリは直感した。


 フードが落ちる。

 晒された顔に、カゾーランもアンリも目を大きく見開いた。


「何故」


 漆黒の髪と、漆黒の瞳。男は自らの顔を見せるように、長い髪を掻きあげた。

 その顔は間違いなく、見たことがある顔だった。

 彼がここにいる。しかも、この言い草は間違いなく――。


「何故だ!」


 アンリは思わず声を荒げる。このように取り乱すことなど、もう何年もなかった。

 信じられない。

 だって、彼がここにいるということは――考えたくもない。


 セシリアが死んだことは、無駄だったのか?

 

 

 

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