第129話

 

 

 

 勇気を出して、一歩を踏み出さないと。


 ヴァネッサは深呼吸して集中力を高めた。

 傍らでは、ルイーゼは力強く頷いて、唇の端を吊り上げている。本人はたぶん気づいていないと思うけれど、彼女は恐ろしい笑みを浮かべている瞬間が頻繁にある。

 指摘すると、「ええ~! そんなぁ。ルイーゼ、怖くないですぅ。キャピッ☆」と気持ちの悪い呪文を唱えはじめるので、無視することにしていた。


「大丈夫ですわ」


 禍々しい魔王のような笑みでルイーゼが言った。目の奥が打算に満ちていた。


「上手くいってくれなければ、困ります。わたくし、偽装でもなんでも、もう婚約騒ぎは御免ですから」


 どうやら、ユーグから偽装婚約を申し込まれたのが不服らしい。


「私だったら、泣いて喜びますのに」

 ヴァネッサがそんな申し出を受けたら、きっと泣いて喜ぶ。むしろ、そのまま結婚したい。


 ユーグの元に縁談話が山のように舞い込む原因となったのは、ヴァネッサの書いた小説だ。

 エミールの身代わりで引き籠っているときに暇潰しで書いたものを、仲間の令嬢たちが印刷所へ持っていってしまい、そのまま王都で流行ったのだ。

 妄想の滾りをぶつけた渾身の一作。自信作である。

 でも、そのせいでユーグが迷惑していると聞くと、悲しかった。


「ユーグ様は高嶺の花なのです」


 ぽつんと呟く。


「ユーグ様は、皆様が思っているような貴公子ではありません。でも、私が軽々と触れても良い存在ではないことも理解しています。あの方には、あの方なりの誇りがあって……そこに、私が手を伸ばすことは許されません」

「なんだか、あなたの書いた小説みたいに美化しすぎていません? 大丈夫ですか? よく見てください。アレ、ただのオネェですわよ?」


 ルイーゼが苦笑いでなにか言っているが、概ね無視だ。この性悪女には、ユーグの良さはわからないのだ。


「ユーグ様に認められたいです。でも、怖い」


 ヴァネッサは手に持った包みを握り締めた。

 ルイーゼと一緒に作った焼き菓子だ。

 今のヴァネッサの想いを最大限に込めたと思う。大丈夫。ユーグの師匠(自称)であるセザールだって、絶賛の末に倒れたのだ。自信を持たなければ。


「もっと自信を持ってくださいませ。わたくしのために!」


 ルイーゼがヴァネッサの背を押した。

 今、ユーグは目の前の庭にいる。何故だか物凄い勢いで腕立て伏せしていた。

 庭の奥ではエミール王子がアンリ陛下を木に吊るして遊んでいる。何故か壺に足が生えて動いているし、侍従長が泡を噴いて倒れていた。


「まあ、この程度日常風景ですわね」


 ルイーゼがそう言うので、ヴァネッサは頷いた。

 身体が緊張して、汗をたくさんかいている。

 ルイーゼの声も遠くなって、なにを言っているのかわからなくなってきた。

 足を一歩踏み出すとクラクラする。

 それでも、ヴァネッサはなんとか一歩ずつ前に歩いていった。

 庭に踏み込むと、ユーグが腕立て伏せを辞めてこちらを振り返る。ヴァネッサはゴクリと唾を呑む。


「なによ……」


 頭に蛇を乗せて、ユーグがヴァネッサを睨んでいる。今にも、「帰れ、雌豚ちゃん!」と言われそうな目だ。ヴァネッサは怖くて慄いたが、首を横に振る。


「ユ、ユ、ユユユーグ様」


 声が震える。きっと、ずっとエミールの振りをして引き籠っていたからだ。

 ルイーゼに異様な殺気を向けられても耐えられるし、勇敢に立ち向かうことも出来る。それなのに、今目の前にいるユーグに話しかけるのが、とても怖い。


「申し訳ありません」


 ヴァネッサは焼き菓子が入った包みを握り締めて、深く頭を下げた。


「私のせいで……ユーグ様にご迷惑を……」


 先ほどまで、考えていた内容と違うことを喋っていた。

 ユーグは黙ってヴァネッサの言葉を聞いている。


「私、思い上がっていたのですわ。ユーグ様に声をかけて頂いて、舞い上がっておりました。あなたに頼りにしてもらえて、嬉しかったのです」


 エミールと共に王都を発つとき、ユーグはヴァネッサを頼った。エミールの身代りをしてくれと言われたとき、ヴァネッサは本当に嬉しかったのだ。

 ユーグからの頼みごとだ。勿論、二つ返事で承諾した。引き籠り生活は辛かったけれど、なんとか耐えられたのは、きっとユーグを原動力にしたからだ。


「ユーグ様が結婚されたくないのに、このような騒ぎを起こしてしまって……勝手なことをして、本当に――」


「あのね、勘違いしないでもらえるかしら?」


 どんどん表情を暗くして俯くヴァネッサの言葉を遮って、ユーグがツンと言い放った。視線をあげると、ユーグは腰に手を当てて面倒臭そうに息をついている。


「私、あんたに怒った覚えはないのだけれど」

「え?」


 ヴァネッサは目を見開く。


「私、まだ結婚したくないわ……出来ないのよ」


 ユーグは気まずそうに顔を背けてしまう。


「もっと漢を磨かなきゃダメよ。今回の旅でも、不覚を取ってばかりだったわ。まだまだ足りない。こんなんじゃ……結婚したって、誰も幸せにしてあげられないもの」


 苦虫を噛み潰すような表情だった。

 ルイーゼからいろいろあったと聞かされているが、詳しいことは知らない。しかし、きっとユーグにそう思わせる出来事があったのだろう。


「ユーグ様……」

「だから、私まだ結婚したくないの。縁談の話は母上を上手く説得して全部断るつもりよ。ちょっと面倒臭いけどね……あの本にはいろいろ物申したいけれど、別にあんた本人に怒っているわけじゃ――」


「ユーグ様は、とっても素敵です! 神です!」


 気がついたら、叫ぶように声を張っていた。ユーグが驚いて口を閉じてしまう。


「ユーグ様は容姿もさることながら、全てが完璧なのですわ。眩しくて、今だって緊張しております。誰よりも誇り高きフランセールの騎士です。最高なんです! あなたと一緒にいて、幸せにならない女などいません!」


 ヴァネッサは力説した。とにかく、力の限り声をあげる。

 ユーグが「え……ちょっと、なに夢見てんの?」と信じられない顔をしているが、そんなものは無視した。


「私、知っております。ユーグ様は皆様が思うような貴公子ではなく、本当は女のようで口が悪いことも。殿下に熱をあげて、謎の鍛錬をはじめてしまうことも……でも、私知っております。ユーグ様はとてもお優しい方です。私のことを二度も救ってくださいました。ご自身のお生まれに対して悩み、相応の努力をなさっていることも知っております」


 ヴァネッサは、きっとユーグのことを全て知らない。全然足りないくらいだろう。

 それでも、他の令嬢たちが知らない彼を知っている。そこも含めて慕っていると言える。


「私、あなたをお慕いしております。何度嫌だと言われても、たぶん変わりません。ユーグ様は素敵な殿方にございます。きっと、奥様になられる女性は幸せです!」


 声に熱がこもりすぎて震えている。


「それに、妻は幸せにしてもらうのが役目ではございません。夫を支え、一緒に幸せになるものですわ」


 顔が真っ赤になって身体中が震えだした。

 だいたい、ユーグという夫を得ながら幸せになれない妻が有り得ない。そっちの方が異常だ。

 この瞬間だって、ヴァネッサは幸せだ。同じ場所に立ち、言葉を交わしている。それだけで夢みたいではないか。

 多少、口が悪くてオネェなのがなんだというのだ。些細なことではないか。むしろ、それがいいのだ。


「そこまで言われると、流石に、ちょっと……」


 気持ち悪いと思われただろうか。でも、ヴァネッサは正直に真実を述べただけだ。これは真実だ。


「ユーグ様は本当の本当に素敵な――」

「ちょっと黙りなさいって言ってるのよぉ!」


 言葉を付け足そうとするヴァネッサの唇に、ユーグが指を押し当てる。思いがけず唇に触れられて、ヴァネッサはもごもごと言葉を呑み込んだ。


「過剰な賛美は出来の悪い本の中だけにしてちょうだい!」


 よく見ると、白い頬に薄っすら色がついている。視線を合わせてくれず、なんだか落ち着かないようだ。

 照れている?

 そう感じて、ヴァネッサはまじまじとユーグを見つめた。ユーグはばつが悪そうに赤毛を掻いて、そわそわとしている。


「もういいから、黙ってよ。なにを言われようと、今は結婚する気なんてないの! 他に用はないのかしら?」


 ユーグはそう言い切ると、ヴァネッサの口から手を離す。


「え、え、えええっと、あの、その……こ、これっ!」


 ヴァネッサは握り締めていた包みを突き出した。ユーグはそれを訝しげに眺めている。


「どうせ、その中には食べ物の形をした凶器が入っているんでしょ。言っておくけど、あんたのソレ、死人が出るレベルよ」


 死人が出るレベルの美味しさだということは自覚している。

 ユーグはヴァネッサから奪い取るように、包みを手にした。


「ユーグ様、えっと、なにを」

「食べてあげるって言っているのよ。こんなもの、その辺に放置したら危ないじゃない」


 ユーグは早口で言うと、包みを開ける。長い指で入っていたクッキーを取り出すと、素早く口に放り込んだ。

 あまりに動作が速すぎて、ヴァネッサはポカンと見つめることしか出来なかった。


「あれ……普通の味、ですって?」


 ユーグが驚いて若草色の目を見開いている。

 信じられないと言いたげだ。


「ふ、普通、ですか……やっぱり……シャリエ公爵の令嬢と作ったので……無駄に甘くしようとするのを阻止しながら、デスソースを入れるのが大変でしたわ。申し訳ありません。いつもなら、悶絶する美味しさなのですが」

「ちょっと待って。今、サラッと入れちゃいけないものの名前が出てきたんだけど!?」


 落胆するヴァネッサ。一方のユーグは、「まあ、結果的に普通だから良いのかしら?」と言いながら、クッキーを二個、三個と口に放り込んでいった。

 やがて、包みの中身はなくなってしまう。


「もう用はないのかしら? 私、そろそろ殿下を回収したいのだけれど」


 庭の奥では、エミール王子とアンリ陛下がお楽しみ中だった。だが、「殴ってくれ!」という要求に、エミール王子が困っているようだ。


「あの、もう、ないです……」

「そう。じゃあね、ヴァネッサ」


 去り際に名前を呼ばれて、ヴァネッサは頬を朱に染めた。

 今のは、どういう意味だったのだろう。

 ユーグが照れながら、ヴァネッサのクッキーを全部食べてくれた。

 夢でも見ているのだろうか。だとしたら、どこから?

 ヴァネッサは思い返しながら頬を手で覆い、その場に蹲った。


「幸せすぎて死にそうですわ」


 その数刻後、エミールを部屋に回収したユーグが謎の高熱で倒れたことは、ヴァネッサの知らない話である。

 

 

 

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