第120話
この機を逃せば、もう会えない。
逸る気持ちと、自分の足で歩いていないもどかしさ。
セザールに抱えられたまま、ヴィクトリアは胸元に触れる。
深紅に輝く
自分には、この宝珠を使うことは出来ない。だからこそ、ヴィクトリアが持っているべきだと、アンガスに言われた。この宝珠の忌々しい力を使うときは、二度と来ない方が良い。
使うことの出来ない神秘の秘宝。けれども、ヴィクトリアはそこに宿る力が手を貸してくれることを信じて握りしめた。
闇の中を走り抜けると、港まで辿りつく。
既に予定していた船が着き、積み荷を運び込むところだった。
「靴は履いた方が良い」
セザールがヴィクトリアを地面に下ろす。
顔を隠すために被せていた外套を外して、簡単に髪型を整えてくれた。ご丁寧に、落ちかけていた髪飾りまで慣れた手つきで直してくれる。
「あ、ありがと……」
「これくらいは常識だ」
一般的な男性の常識かどうかはおいておく。
ヴィクトリアは火竜の宝珠を握りしめて、船の方へ向き直った。
目立つライオンが檻に入れられるところだった。傍らで笑っているのは、エミールか。遠目にも、誰なのかわかった。
「おい、あれって」
「間違いねぇ!」
「ヴィクトリア様だー!」
「殿下、ヴィクトリア様ですよ!」
出港の準備をしていた船乗りたちがヴィクトリアを見つけて叫んでいる。
荒れくれ者に見えるが、皆アルヴィオス海軍の面々だ。ギルバートを出国させると持ちかけたら、喜んで協力してくれた。
彼らの声に反応したのか、甲板から身を乗り出す人物があった。
「ヴィー……」
ギルバートが藍色の眼を見開いて、こちらを見ている。
ヴィクトリアは息を整えて、まっすぐ前に進んだ。
一歩一歩、確実に自分の足で歩んでいく。綺麗に整えた黒髪や、耳元で光を放つ耳飾りが揺れる。
「ギル」
甲板を見上げると、思った以上に距離があった。その距離が永遠に埋まることがない気がして、不安を煽る。
だが、ヴィクトリアは口を開いた。
「ギル、ありがとう!」
言葉の整理などついていない。ただ、思いついたことを声にして叫ぶだけだ。
「あたし、馬鹿だからさ……ギルがいなきゃ、こんなところまで来られなかった」
なにも決断出来ず、前に進む力などなかったヴィクトリアをここまで連れてきたのはギルバートだ。
ギルバートのことを空っぽの人形だと思っている。
けれども、本当に空っぽの人形だったのはヴィクトリアだ。なにもなかったヴィクトリアに、ギルバートは中身を注ぎ続けてくれた。
「ヴィ――ったぁ!? なにしやがる、オッサぁぁぁあああッ!?」
「高みの見物とはいい度胸だ。地に落ちて平伏せ」
いつの間にか甲板に上がっていたセザールがギルバートの首根っこを掴んで放り投げた。呆気なく放り出された元王子の身体は弧を描いて地面へと吸い込まれる。
ギルバートの身体は真下の海面を飛び越え、見事にヴィクトリアの足元に落ちた。
「い、痛ぇ……くっそ……覚えていろよ……」
まだ完治していない傷のせいか、ギルバートは弱々しく文句を垂れている。
「大丈夫かい?」
傷口が心配で、ヴィクトリアはギルバートに駆け寄る。ギルバートが顔をあげ、ヴィクトリアと視線が合う。その途端に、何故か気まずい空気が流れた。
さっきまで素直に言葉を発することが出来たのに、近くへ来ると途端に滞ってしまう。
言葉に詰まって、先が思いつかない。
「ヴィー」
沈黙を破ったのは、ギルバートだった。
「俺はたぶん、間違っているんだと思う」
藍色の眼を伏せて、ギルバートはヴィクトリアから顔を背ける。
お互いに顔を正面から見ることも出来ない。思えば、二人の関係はいつだってぎこちなくて、歪で、隙間だらけで……同じ時間を過ごしているのに、噛み合っていなかったと思う。
少しずつずれた歯車が壊れていくのを、ただ見ているだけだった。
「こんなことになっても、どうすればヴィーのために生きられるか考えてるんだよ。他の役割なんて、全く思いつかない」
もう国にいられないというのに、ギルバートはそんなことを言う。
ヴィクトリアは思わず地に膝をついて、ギルバートと目線を合わせた。ギルバートは、ようやくヴィクトリアの方へと向き直る。
「そんなこと、考えなくたっていいんだよ。もう、あたしのことなんて考えなくてもいい。ギルは自分が好きなように生きておくれよ……もう、いいんだよ……あたしのことは、いいんだよ……」
とうとう涙が溢れ出す。
ギルバートはもう充分、ヴィクトリアのために生きた。もっと上手く生きれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
自分のために生きることが出来たなら、今とは違う未来も約束されていた。それなのに、彼はヴィクトリアのために全て投げ打った。
ヴィクトリアには背負い切れない。なにを返せばいいのか、わからなかった。
「好きにと言われてもなぁ。俺はそれしか生き方を知らない」
困ったように言いながら、ギルバートは指でヴィクトリアの涙を拭う。それでも、後から後から涙はこぼれていった。
「今はここを離れる。でも、いつか必ず戻ってくる。ヴィーのために生きられるように、また戻ってくるよ」
そんなことが叶うのか。ただの願望かも知れない。
だが、ギルバートの表情が本気のように思えて、ヴィクトリアは閉口した。
いったい、どうやって戻ってくると言うのだ。見当もつかない。きっと、今のギルバートにも、そんな目途は立っていないだろう。
「……迷惑だよ。あたしに、まだまだ背負えって言うのかい?」
そんなことを言って突き放す。
だが、本心ではないことを見抜かれているのか、ギルバートは表情を変えなかった。
ギルバートに自由に生きて欲しい。
だが、また会えるなら――どちらも、同じくらいヴィクトリアの中で大きな感情になっていく。感情を涙に溶かしたところで溢れ出ることはなかった。
「俺はヴィーが好きだから。他にはなにも要らないだけだ」
一房だけ赤く染められた前髪を撫でてギルバートが笑う。
「馬鹿王子……本当に馬鹿なんだね」
「もう王子じゃあないけどな」
自然に距離が近くなっていく。いつの間にか涙が止まっていることに気がついた。
「ギル……必ず、帰ってくるのかい?」
吐息が触れるほど近づいて、ヴィクトリアはギルバートに問う。その答えだと言わんばかりに、ギルバートは少しもヴィクトリアから視線を外さなかった。
ヴィクトリアはスッと息を吸い込む。
そして、胸に光るペンダントを持ち上げた。
「口づけよりも、約束が欲しい」
ギルバートは少し驚いた様子でヴィクトリアとペンダント――火竜の宝珠を見比べた。
必ず帰ってくるという約束が欲しかった。
そのために選んだ手段を理解して、ギルバートは藍色の双眸を見開いている。
「流石にそれは、アンガスも黙っちゃあいないと思うんだがな」
「全ての責任は、わたしが負います」
ヴィクトリアは口調を改めて、まっすぐにギルバートを見る。
市井で育った礼儀知らずの伯爵令嬢ではない。女王になる自分として、ギルバートに命じた。
「ギルバート。必ず帰ってくると、約束出来ますか?」
出会った頃のようにぎこちない敬語ではない。上流階級の礼儀作法も一通り身につけた。
この先、自分は女王としてやっていけるという証明として、ヴィクトリアは再び言葉を発する。
「誓ってください」
もうこの国にギルバートの居場所はない。そんなことは二人とも理解している。
だが、ギルバートは帰ってくると言ってくれた。きっと、何年もかかるだろう。
それでも、信じたいと願ったヴィクトリアも、きっと愚か者なのだ。
「誓う」
ギルバートは戸惑っていたが、やがて、迷いのない声で告げる。
そして、ヴィクトリアの胸元に下がる火竜の宝珠に口づけた。
ヴィクトリアには扱うことの出来ない宝珠が、淡い光を放つ。身体が温かくなって、力の流れのようなものを感じた。
けれども、すぐに温もりから孤独へ放り出されるように、石は冷たくなる。
「またいつか」
ギルバートが目を開く。
深い海の底を宿した藍色の瞳。その右側だけが紅玉のような美しい紅を湛えていた。
火竜の宝珠の力を一部譲渡したのだ。またいつか返還する日が訪れるという誓いのために。
「いつか、必ず」
ギルバートが自然な動作で地面に伏して頭を下げる。
この国では当たり前になっている男女の挨拶だ。だが、旧く――ルゴス王家の時代では、騎士が主君に忠誠を誓う場面で使われていた。
ヴィクトリアはそっと足を持ち上げる。
「あたし、待ってるよ……ギル」
ギルバートの後頭部に足を置いて、ヴィクトリアは静かに言った。また涙が溢れ出しそうで、胸が締め付けられる。
こんな生き方しか出来ない自分たちは本当に馬鹿だ。でも、どうしようもないくらいに心地良い。そして、愛しくて仕方がない。
笑っているのか、泣いているのか、わからなくなる。
そんな表情を見られるのが気恥ずかしくて、ヴィクトリアは顔をあげようとするギルバートの頭を長く長く踏み続けた。
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