第118話
「いいかい、ヴィー」
母だと思っていた人は、口癖のようにこう言っていた。
「お前は女王なんだよ」
意味がわからなかった。
ヴィーは港町に住む酒場の娘。豪快な船乗りたちが利用する酒場を手伝う看板娘だった。
「ヴィーちゃん、こっちにも酒くれよ!」
「ヴィーちゃん可愛いね。将来、嫁になってくれよぉ」
「不味いアルヴィオス料理より、俺の持ってきた魚さばいてくれよ。美味いよ!」
「ああもう! うるさいから、黙りな! うちの料理は美味いんだよ……比較的」
活気のある酒場で客の相手をしながら、ヴィーは怒鳴った。しかし、すぐに笑顔になる。
少し荒っぽい対応の方が、この店では好まれるということを肌で覚えていたのだ。
裕福な暮らしではないけれど、それなりに気に入っている。
友達もいるし、店の客と話すのも楽しい。海の男たちが語る外国の話は、どれも新しいことばかりだった。
平凡かもしれないが、ここにはキラキラとした日常があったのだ。
お城で綺麗なドレスを着て過ごしたり、優雅に紅茶を飲んで過ごすことはない。そんな上流階級などとは程遠い暮らしだ。夢みたいな話だ。
ヴィーには関係ない世界。
「ヴィクトリア・ストラス」
けれども、夢のような話は突然降ってきた。
「今日から、あなたはストラス伯爵家の令嬢です。さあ、ヴィクトリア様。こちらへ」
唐突に、そんなことを言われた。
十歳になる少し前のことだ。
酒場の前に停まった迎えの馬車。立派な仕立ての服を着た従者が現れて、ヴィーに手を差し伸べた。
ヴィクトリアって誰だろう。
「あたしは、ヴィーだけど……」
ヴィーはヴィーだ。ただのヴィーである。お転婆で有名な酒場の娘。
ヴィクトリアなんて名前は知らないし、ストラス伯爵家なんて初めて聞いた。
「ヴィクトリア」
振り返ると、酒場の女将がそんな名前でヴィーのことを呼んでいた。母親なのに。彼女はヴィーを知らない名前で呼んだ。
「か、あさん……?」
「ヴィクトリア、ああ……今まで育てた甲斐があったよ。これから、お前は女王になるんだよ」
心底嬉しそうな顔でそう言った女性の顔が、なんだか他人のように思えた。自分の娘を見る目などではない。あれは品物を売る商人の目だ。
ヴィーは怖くなった。
そして、直感的に悟る。
この人は、自分の母ではなかったのだ、と。
「あたしの母さんは、どこなんだい?」
ヴィーは自分の言葉で、そんなことを聞いた。上流階級の言葉遣いに慣れない。
「ヴィクトリア様。言葉遣いに気をつけてください」
言葉遣いも、この長ったらしい名前を受け入れるのも、時間がかかりそうだ。
不躾な市井育ちの令嬢の問いに使用人は苦笑いしていたが、やがて、こんなことを教えてくれた。
「あなた様のお母様は高貴な血筋のお方。あなたは、この国を導く使命があるのですわ」
それから少しずつ自分のことを教えてもらい、理解した。
ヴィーの母親は、やはりあの人ではなかったこと。
本当の母親は旧い王家の血を引いた存在であること。
自分はその母親とストラス伯爵との私生児であること。伯爵はヴィーの存在を隠すために、彼女を敢えて市井で育て、養女として迎えたこと。
そして、ヴィーはこれから伯爵令嬢として上流階級を学び、
やがて、この国の女王になること。
今のアルヴィオス王国がどれほど腐っていて、どれほど酷いものか。自分はなにを成すべきなのか。毎日、そんなことを聞かされたと思う。
けれども、少しも頭に入らなかった。
脳裏に浮かぶのは、いつも同じ光景。
母だと思っていた人が、自分を売った瞬間に見せた表情。手塩にかけて育てた娘を手放すときの顔ではなかったと思う。
あれを見た瞬間に、ヴィーの世界は一変した。
なんだか、どうでもいい気がした。
抗える気もしない。
わけがわからないまま受け入れられない現実をアッサリと受け入れて、綺麗なドレスに身を包んで紅茶を嗜んでいる。
「ヴィクトリア」
ストラス伯爵はいつもヴィーを気にかけていた。
養女として迎えられたが、本当の父親である。複雑な心境なのかもしれない。
「すまないな」
申し訳なさそうに、何度も謝られた。
けれども、ヴィーにはどうでも良かったと思う。
「ねえ、父さま」
代わりに、素朴な疑問を投げかけた。
「あたしの母さまは、どんな人?」
母だと思っていた人は、他人だった。自分を売ってしまう他人。きっと、初めからそういう契約でヴィーを育てていただけなのだ。
では、本物の母はどうなのだろう。
本当の母親なら、ヴィーを売ったりしないだろうか。優しい顔で迎えてくれるだろうか。
「とても優しい女性だよ。お前に目元がそっくりだ」
「母さまは、あたしに似ているのかい?」
「そうとも……親子だからね」
そう語る父の顔が少し辛そうだった。そんな顔を見ていると、ヴィーも辛くなってくる。
「母さまには、どうしたら会える? どうやったら、助けられるんだい?」
王家の奴隷として捕えられている母。
恐ろしい魔物の住むロンディウム城で、今も飼い殺しにされている。ストラス伯爵が手引きしなければ、ヴィーも同じ運命だった。
「ヴィクトリア……」
どうすれば助けられるか。その答えは見えていた。
ヴィーは困惑した表情の父の回答を待たずに、スッと息を吸う。
「あたしが女王になれば、母さまを救える?」
会いたい。
いつしかヴィーは本当の母親に焦がれていた。可能な限り父から情報を引き出して、会える日を夢想する。
女王になれば母さまに会える。助けてあげられる。
ヴィーにとって、それが目的になっていた。女王になる理由なんて、それしかなかった。
本当の母さまは、きっと自分を愛してくれるから。
売ったりなんて、しないから。
ただのヴィーだった自分を辞めて、ヴィクトリアとして生きる。
自分はただそれだけの存在だった。
カツカツと、抜け道に靴音が響く。
前を歩くルイーゼの背中を、ヴィクトリアはぼんやり眺めた。
「あたしはギルを利用してたんだ」
ぽつりと呟く。ルイーゼは反応しない。
けれども、静かに聞いているように思われた。
「母さまを救うために」
そう言葉にしてみる。だが、スッと胸に落ちないことに気づいた。
「いや、違う……最初はそうだったんだ。でも」
でも、違った。
母親を探してギルバートに近づいた。
ヴィクトリア自身が大人たちの思惑で動かされ、女王になることを強要されているのは気づいていた。そこに意思はなく、ただ後から取ってつけたような目的があっただけ。
ギルバートと同じ。意志なんてなかった。
「でも、違う。自分が後戻りしないための枷にしていただけなんだ」
なんの意志もないヴィクトリアには、自分の運命を受け入れる土台などなかった。
すぐに投げ出して逃げたくなる。嫌だ嫌だと叫んで、もうなにもかも捨ててしまいたい。
そんな自分が逃げないように留めておくための枷。
――代わりにヴィーをくれるんなら、俺は『使える人形』になってやるよ。
逃げ戻りそうになるヴィクトリアの背をギルバートが押し続けた。
彼にはなんの得もないのに。
「あたしは、ギルに甘えていただけなんだよ」
自分では決められず、歩くことさえ出来なかった。それをギルバートは無理やり引っ張って、歩いてくれた。
彼はわかっていたのかもしれない。
このままヴィクトリアが一人で歩くことが出来ないということを。
だから、甘えてしまった。ギルバートに導かれるまま流されているのは、楽だから。
「ルイーゼ」
もうすぐ、抜け道が途切れる。港へ行けば、ギルバートがいるだろう。
ルイーゼが振り返った。
ヴィクトリアは口を開く。
「ありがと」
伝えなければ。
ヴィクトリアは選んだ。
この国で生きていく。女王になり、傾いた国を立て直すのだ。
お飾りの女王ではない。今まで決断出来なかった自分を捨てる。
自分の足で立って歩く。
だから、最後にギルバートに言わなくてはならない。
「あたし、ギルに伝えるよ」
今までありがとう。
あんたがいなくても、あたしはやっていくよ。心配しないでくれよ。
そして、どうか自分のために生きて欲しい。
「お好きなことを言えばいいのですわ」
横目だけを向けていたルイーゼが微笑を浮かべた。
年頃の令嬢とは思えない、いくつもの死線を潜りぬけた頼もしい戦士のような微笑である。前世があると聞いているが、本当に不思議な令嬢だと思った。
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