余話
或る侍従の苦悩
「陛下ぁぁぁぁああっ!」
侍従長の仕事は忙しい。
国王の侍従は言ってみれば高官だ。公務の補佐をして、王宮を仕切る立場でもある。絶対の信頼と実力がなければ務まる仕事ではない。
侍従長――ピエール・ジャック・ド・サングリア公爵は足早に回廊を進む。
今日も国王の公務は詰まっている。このあとには謁見の予定が入っているし、近々行われる王都視察の段取りもしなければいけない。
忙しい。忙しいのだ。侍従長が忙しいときは、たいてい国王も忙しい。
それなのに、
「陛下ぁぁぁああ! また脱走ですかぁぁぁあ!?」
この忙しいときに、国王アンリはまた執務室を脱走している。今日も行き先は、恐らくエミール王子の自室だろう。
以前から息子を心配して部屋の前まで行っては、なにも声をかけられずに帰ってくるという謎の行為を繰り返していた。
おまけに、近頃は亡きセシリア王妃の面影を感じさせる令嬢が教育係となっている。アンリの脱走頻度は急増していた。
「くっ! 爺、もう追いついてきたのか」
回廊の向こうでアンリがこちらを振り返る。
侍従長はヨボヨボの身体を引き摺りながら息を切らせて、脱走国王を追った。流石に腰が痛い。膝も悲鳴を上げていた。
しかし、易々と諦めるわけにはいかぬ!
「陛下ぁあぁぁああ! お戻りくださいっ!」
力を振り絞って、アンリを捕まえる。老体では、これ以上の力は出せない。
「フゥー……フゥー……」
細い息を繰り返す侍従長から逃れようと、アンリが抵抗する。
「離さぬか、爺。私はエミールと一緒に親子の触れ合いを……!」
「どうせ、また声をかけずに帰るだけにございましょう。陛下、公務が残っております!」
腕を引くが、アンリはもがく。
素直に戻ってくれるときもあるが、今日は意地でも行きたい気分らしい。四十にもなって子供のような国王だ。即位した頃は無気力の無能だったというのに、変な方向にまで成長してしまったようだ。
「侍従長様っ!」
悪戦苦闘していると、どこからか声が降ってきた。頭上からだ。天からの声のようにも聞こえた。
「これを使ってください!」
天井板が外れて縄が下りてきた。先端には見覚えがあるが、侍従長にとって馴染みの薄い品が括りつけられている。
「アンリ様の好きなものです!」
少女の声だ。姿は見えないが、きっとミーディアだろう。彼女は最近、どこからでも湧いて出てくる。
「これは」
縄の先に括りつけられていたのは、馬用の鞭だ。エミール王子の教育係になった公爵令嬢が愛用しているものと似ている。
鞭を手に取って、侍従長は唖然とした。
アンリには
確かに、アンリの好きなものには違いないだろう。きっと、いや、間違いなく好きだ。
「爺……!」
鞭を手にした侍従長を見て、アンリが物欲しそうな目をしている。明らかに好感触だ。抵抗をやめ、大人しくなっている。
けれども、侍従長は期待の眼差しに応えることが出来なかった。
「陛下、申し訳ありませんっ!」
出来ない。出来るはずがない。
サングリア公爵家は代々、国の高官を務める名家だ。
侍従長は今の役職を誇りに思っているし、国王や国のために働くことは義務だと思っている。不正一つ働いたことがない。この国王が即位したときから、ずっと忠誠を誓い続けてきた。
すぐに脱走するダメ国王でも、
忠義と実直さを誇って生きてきた侍従長には、本人の希望であってもアンリを鞭打つなど出来ない所業。
「陛下、申し訳ありません。私には無理でございます! いくら陛下が望んでいても、主君を鞭打つなど、とても――」
「いや、別に良い。私にだって好みというものがあるからな」
「は?」
サラッと断られて、侍従長の顔から表情が失せる。
アンリは恍惚の眼差しで侍従長から鞭を奪い取ると、「はは、羨ましいではないか」と呟きはじめた。
どうやら、鞭を見てお仕置きされる自分を妄想しているようだ。勿論、件の公爵令嬢に鞭打たれる妄想だろう。
なんだか、解せない。自分の葛藤はなんだったのか。
侍従長は無表情のまま、ミーディアが下ろしていた縄を引っ張る。そして、その縄を使って大人しくなったアンリをグルグル巻きに縛り上げた。
「爺、そのような縛り方は良くないと思うぞ! 亀甲縛りにしてくれると有難い。いや、出来ればシャリエ公爵令嬢に頼んでくれないか!」
「脱走防止でございます。公務に戻りますぞ、陛下」
「くっ……! なにが悲しくて、老いぼれに縛りあげられなくてはならないのだ! これでは、お仕置きではないか! ああああ、令嬢の執事が羨ましいぞ!」
これは陛下のためなのだ。
心を鬼にして、主を諌める。これも自分の仕事であると、侍従長は気を引き締めた。決して褒美を与えているわけではない。甘やかしてなどいない。
「ところで、爺」
連行されながら、アンリが口を開く。
「あの件はどうなっておる?」
アンリが言わんとしていることを察して、侍従長は表情を改める。
「返事はまだ来ておりません。しかし、必ず王都へ参上するでしょう」
そう言うと、アンリは心得たように「そうか」と呟いた。
先ほどまでの脱走国王の顔でも、鞭打たれたくて緩み切った顔でもない。政を動かすときの表情だ。
これは職務であると空気で伝わる。
そう、職務だ。
卑怯な文言を使って、領地に引き籠った息子を無理やり王都へ召喚することも、職務の一つである。
「ちょっとお待ちください。どうして、馬旅でこのように荷物が多いのですかっ!」
「持っていければ問題なかろう。これだから、常識のない人間は……」
「常識の意味を調べてきてくださいませ!?」
令嬢ルイーゼがキーキーと高い声で喚いている。
これから、アルヴィオスの王子と共に王都を発つ。厩舎で馬を調達して、秘密裏に旅立つ予定だ。
それを見送る役目を負って、侍従長はひっそりと遣り取りを眺めた。
「まったく、理解に苦しむ」
溜息をつきながら、セザールが積み荷をいくつかおろしていた。十中八九、ほとんどドレスの類だ。馬旅なのに、どうしてそんなにスカートを持っていく必要があるのか。我が子ながら理解に苦しんだ。
「令嬢を頼んだぞ、セザール」
侍従長は一抹どころか多大な不安を抱えながらセザールを見た。
「置いていく荷物は屋敷にでも並べておいてくれ。戻ったら回収する」
セザールは不遜な態度で葉巻を咥えながら、素っ気なく言った。男物のシャツの後ろで、まっすぐなシルバーブロンドを結い直す。相変わらず、男とも女とも言えない中性的な仕草だ。
三十年以上も前に死んだ妻と同じ髪色である。冷たいアイスブルーの瞳もよく似ていた。
「なんだ、我が美貌に見惚れたか」
いつの間にか見つめてしまっていたようで、侍従長は咳払いした。
「心配しなくとも、職務は全うする」
令嬢の護衛を任せられる人間は限られていた。
カゾーランには王都を離れられると困るし、第一、宝珠の秘密を知らせていない。秘密を理解しており、尚且つ護衛役が務まる程の実力を備えた人材は一人しかいなかったのだ。
――セシリア王妃が生まれ変わったようだ。
領地に引き籠って、ほとんど王都に現れない男を呼び出すための文言である。
勿論、ルイーゼが王妃の生まれ変わりであると確定したわけではない。
セザールが未だにセシリア王妃に執着していることを知っていて利用した。彼を呼び出すには、一番効果的だと判断したからだ。
執着の要員を作ったのは、侍従長本人であるのに。
「勘違いするな。結局選んだのは我が意思だ」
侍従長の胸中を察したのか、セザールは葉巻を一旦唇から離す。彼は馬に乗ろうとする令嬢をしばらく眺めていた。
他人であるのに、そこはかとなくセシリア王妃の面影を感じることが出来る。顔も名前も違うが、何故だかそう思う。きっと、セザールも同じように感じているだろう。
「散々、好きに生きさせてもらった」
セザールはそう言って剣の柄に手を置いた。
「そう言うのなら、いい加減に結婚して欲しいものだがな」
「阿呆なことを……我が美貌に敵う妻など、見つかるはずもないだろう」
言い返すと、すかさず一蹴されてしまう。
若くして妻が亡くなったせいで、侍従長には長男のセザールしか子がいない。このままセザールに子が出来なければ、サングリア公爵領を継ぐのは、血筋を分けているロレリア侯爵筋の人間となる。
ロレリア侯爵とサングリア公爵の血筋は「巫女」が転生する家系だ。
代々セシリアと名付けられる女性が転生を繰り返す――いや、もう過去の話だ。
先代のセシリアが亡くなっても、次の巫女は生まれなかった。セシリア王妃が
もう特別なことなどない。他の貴族と変わらないのだ。血筋に意味はなくなっている。
だが、セザールは結婚しない。
きっと、自分たちの血を繋ぐことに抵抗があるのだ。
「養子でもとろうと思っている。少なくとも領地を継ぐ人間は必要だろう」
そろそろ出発しなければならない。
セザールは会話を短く切ろうと、踵を返した。
「セザールよ」
呼び止めると、セザールはアイスブルーの瞳で侍従長を振り返った。
「お前が男だと、もっと早くに気づいてやっていれば良かった」
つまらない家の見栄のために彼を
けれども、侍従長自身がもう少し彼のことを見ていれば、早くに気づけたのかもしれない。仕事にかまけて、ロクに領地へ帰らなかったせいだ。
そうすれば、彼は女装で葉巻を咥え、不遜な態度で無刃の剣を振り回す歪な荊棘騎士になどにならなかっただろう。
まともに母親の愛情を受けて育っていれば、きっと生き方が違っていたはずだ。
「なにを今更」
セザールが不機嫌そうに眉を寄せた。
今更、こんなことを言われたところで怒りしかないかもしれない。失言だったかと、侍従長は少しばかり後悔する。
「我が人生に不満があると、いつ口にした?」
不遜に言い捨てて、セザールは侍従長に背を向けた。彼は迷いない足取りで遠ざかり、令嬢が跨る馬の手綱を取る。
「えええ! わたくし、相乗りですの!?」
「文句の多い令嬢だな。常識的に考えろ……本当に王都は非常識な人間ばかりだな」
「時々、常識的なことを言ったからって、あなたが常識人だとは思いませんけどね!?」
「先が思いやられる」
「それは、こちらのセリフですわ」
先行きが不安になる会話をしながら、令嬢ルイーゼとギルバート王子、セザールは出発する。
三人を見送って侍従長は息をついた。
傍らに残されたのは、セザールが置いていった積み荷だ。無造作に置かれたせいか、荷物の口が開いてしまっている。
「……はあ」
盛大な溜息が漏れる。
「何故、男物の服ばかり置いていったのだ……?」
セザールがなにを基準に積み荷を厳選したのかわからず、侍従長は肩を落とした。
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