第109話

 

 

 

「エミール様!」


 エミールの肩を揺すって、ルイーゼは叫ぶ。

 蒼い顔をして震えている姿は引き籠っている頃によく見たが、これは異常だ。


「あ……や、だ……ッ」


 エミールは震える身体を抱きしめて蹲っている。逃げた下衆野郎など放っておいて、ルイーゼはエミールの肩を両手で掴んだ。


「しっかりしてくださいませ、エミール様。エミール様ッ!」


 なに起こったのだろう。

 バルスの途中で突き飛ばされて、なんらかの反動があったのかもしれない。ルイーゼは必死で呼びかけた。


 宝珠の力自体がルイーゼにとっては未知である。なにがあったのかわからず、混乱しているのが正直な話だ。

 ただ臆病で泣いて震えているのではなく、苦しんでいるエミールを見ていると不安に苛まれる。

 なにも出来ないのに、どうにかしたい気持ちでいっぱいになる。


「……ルイーゼ、いかないで……」


 震えていたエミールの頬に涙が伝い、宙を見上げて呟く。

 ルイーゼの名を呼んでいるが、ルイーゼを見ていない。妙な視線に違和感を覚えながら、ルイーゼはエミールを強く抱きしめる。


「どこへも行きませんわ。わたくしは、ここにおります!」


 そんなことしか言えない自分が無力だ。

 少しでも宝珠の力が使えれば、なにか出来るのかもしれないのに。

 自分が努力を怠っていたのではないか。もっと、なにかが出来るのではないか。そう考えてしまって歯痒い。

 エミールの身体がビクリと痙攣して、前のめりに倒れ込む。


「エミール様ッッ!」


 倒れたエミールを受け止めて叫ぶ。

 エミールの体温が下がっている気がして、ぞっとする。


「冗談ですわよね。エミール様、起きなければお仕置きしますわよ!?」


 エミールを抱えたまま、ルイーゼは片手で鞭を振った。

 空打ちする音に怯えて、起き上がるに違いない。エミールは臆病のダメ王子なのだ。すぐに怖くて狸寝入りをやめるはずだ。

 けれど、エミールはピクリともしない。


「よろしゅうございますっ! お嬢さま!」


 代わりに、どこからか湧いてきたジャンが振り下ろす鞭の先にいた。歓び咽ぶ執事の背中を打って、鞭はベシィンッバシィンッと良い音を立てる。本当にいい音だ。だが、気分は全く晴れない。


「よろしゅうございますッ! よろしゅうございますぅぅううああああ!」

「エミール様。このようになりたくなかったら、起きてくださいませ!」


 ルイーゼは渾身の鞭を振るいながら、エミールの肩を揺する。ジャンの歓喜の叫びが無駄にうるさい。


 やがて、ルイーゼはお仕置きの手を緩めていく。

 いくらジャンを鞭打っても、エミールは起きてくれない。


「嫌ですわよ、エミール様……嘘にございますわ。お仕置きなんて、しません。そ、そうですわ。エミール様は囚われのピーチ姫になりましたが、ご自分で脱出されたではありませんか。褒めて差し上げますわ……ご褒美に、なんでも言ってくださいませ……」


 ジャンが「では、ジャンにもご褒美を!」と叫んでいるが、無視だ。

 ルイーゼは目を閉じたエミールの頬に触れる。


「んッ……」


 蒼い顔をしていたエミールの瞼が震える。ルイーゼが身を乗り出すと、薄らと開いた瞼の間から、サファイアの瞳が覗いた。


「ルイーゼ?」


 ルイーゼが声を発せずにいると、エミールが口を開く。

 最初は虚ろだったが、徐々にしっかりとした視線でルイーゼを見据えた。


「……泣いてるの?」

「え?」


 エミールに問われて、ルイーゼは初めて自分が泣いていることに気づいた。

 どうしてしまったのだろう。泣いていることにも気づかないほど、動転していたのだろうか。そもそも、何故泣いているかもわからない。

 ルイーゼは急に恥ずかしくなって、袖口で顔全体をこする。


「な、泣いてなど……! これは、きっと汗ですわ。運動して暑かったのです」

「そうなの?」

「そうですわ! それ以外に考えられません!」


 言い訳すると、エミールが弱々しく笑う。この場に似つかわしくない幸せそうな笑みが、無性に腹が立つ。


「なんだか、夢を見ていたみたい」

「夢?」


 不意にエミールがルイーゼの肩に顔を埋めるように抱きついてきた。

 ルイーゼが彼を抱える姿勢をとっていたので、自然な動作ではあるが、今更密着していることに羞恥心を感じてしまう。一方的に恥ずかしい気分になって、思考がグルグル混乱した。


「ルイーゼが遠くに行っちゃう夢……すごく、怖かった」


 エミールは噛み締めるように言って、ルイーゼのドレスを掴む。ルイーゼはどうすればいいのかわからない。戸惑いながらエミールの手を包みながら、小さく呟いた。


「どこへも行きませんわ……エミール様を置いていくなど、心配すぎます」


 そう言うと、肩でエミールが笑った気がした。けれども、すぐに安心したような寝息に変わる。

 疲れてしまったのだろう。今度は健やかな顔で眠っていることを確認して、ルイーゼは肩を撫でおろした。




 † † † † † † †




 また少しの間、意識が飛んでいたようだ。

 だいたい怪我人を抱えたまま暴れまわるオッサンのせいだ。本当に最低だよ、あのオッサン。


「ったぁッ……!」


 傷口が圧迫される感覚があり、ギルバートは思わず身体を起こす。

 すると、目の前にヴィクトリアの顔があった。気まずそうに視線を逸らされてしまう。

 着せられたコートに血が滲んでいる。その上から布を巻いて止血を行ったようだ。見ると、ヴィクトリアが着ていたドレスの裾が少し破れていた。


「ヴィー……?」

「……なんだい、このザマは。おまけに露出癖だけじゃなくて、女装癖まであったのかい?」


 女物のコートを指してヴィクトリアが口を曲げる。ギルバートは反論したい気持ちでいっぱいになり、緩慢な動作で起き上がった。


「誤解だ。これは着せられて……こんなもの、すぐに脱いでやる」

「いや、脱がなくて良いってば!」


 ヴィクトリアは慌ててギルバートの手を押さえる。その反動で身体が揺れて、ギルバートは痛みに表情を歪めてしまった。


「あ……ご、ごめんよ」


 ヴィクトリアは言いながら、自分の手を引っ込める。

 ギルバートは今更になって、ここはどこだろうと周囲を眺めた。

 たくさんの兵士が倒されて山積みになっているが、円卓の広間のようだ。広い円卓には、糸が切れたように伏せて眠る貴族たちの姿もある。

 詳しい状況を把握出来ない。

 けれども、なんとなく不思議と「終わった」という感覚があった。


「俺、なんの役にも立っていないな」


 計画が失敗して刺された挙句、オッサンに運ばれてきただけだ。ただ寝ている間に終わってしまった。

 役立たずだ。

 自嘲を込めて笑うと、ヴィクトリアが悲しそうな顔をした。切れ長の目に涙が溜まっていって、表情が崩れる。


「ごめん、ギル」

「なんで、ヴィーが謝るんだよ」


 なにも悪くない。

 悪いのは、なんの役にも立たなかったギルバートだ。


「あたしがギルに甘えていたんだ……ずっと守ってもらっていたのに、それに甘えて……だから、役立たずなんて言わないでおくれよ。もう、そんな言葉は聞きたくないんだ」


 頬に涙を流しながら、ヴィクトリアがギルバートの手を握る。ずっと秘められていた想いをぶつけられて、ギルバートは困惑した。

 こんな風に泣いているヴィクトリアに、どう接すればいいのかわからない。

 他人の言動や、その場の空気に聡いギルバートだが、このときはどうすればいいのかわかなくなっていた。


 こんなときは危険だ。また判断を誤ってしまう。

 誤った結果、またヴィクトリアを傷つけてしまうかもしれない。取り返しのつかない事態になってからでは遅い。


「ギルが生きてて、本当に良かった」


 こんな役立たずなのに? なにもしていないのに?

 それなのに、ヴィクトリアはギルバートが生きていてよかったと言って泣いている。

 おかしい。どうすればいいのかわからない。


「そんなに泣かれると、どうしたらいいのかわからないじゃあないか」


 いつものように問答無用で罵られて蹴られる方がマシだ。

 彼女にどう触れれば良いのかわからない。

 いつもは軽い気持ちで戯れているのに。抱きついたり、キスをするくらいなんでもない。


 ただ、流れる涙を止めたいだけだ。

 でも、その方法がわからなかった。


「せめて、泣き止んでくれよ」


 戸惑いながら、咽び泣くヴィクトリアを自分の方に引き寄せる。肩のあたりに、じんわりと塗れて生温かい感覚が広がっていく。

 戯れではなく、本心を表すために触れた手の動きはぎこちなくて、自分の身体とは思えなかった。

 

 

 

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