第110話

 

 

 

 このままでは、不味い。

 血泡の混じった息を吐きながら、ウィリアムは這うように壁を伝って歩く。


「く、そ……がッ――のくせに」


 傷が肺を貫通しているせいか、上手く声が出ない。

 真っ赤な鮮血が吐き出され、喉がゴポリと音を立てる。体温が下がっており、感覚的にあまり長く持たないことを悟った。


「聞いてねぇぞ……」


 アレ・・人魚の宝珠マーメイドロワイヤルを使用出来るなど、聞いていない。アイツ・・・の報告では、使えないという話だった。

 このまま死ぬと転生出来ないではないか。

 だが、傷口から判断するに、この身体で生き長らえるのは難しそうだ。何度か経験した死の闇が迫ってくる感覚がウィリアムを蝕んでいく。


 再び、転生を調整する必要がある。


 ウィリアムは身体を引き摺るように、国王の居室へと入った。

 首都と港を見渡せるバルコニーを備え付けた部屋は、曇りのせいか暗く淀んで思える。


「なんだ……?」


 いつもは静かな空気が流れているはずだが、違和感がある。明らかに空気が違って思えた。

 いや、騒々しい。街の方からだ。

 ウィリアムは這うようにバルコニーを確認する。


「なん……だと……?」


 バルコニーの下に広がるのは首都の風景。だが、その眺めは異質であった。

 城へと続く大通りを人々が埋め尽くしている。民衆たちだ。いや、それだけではない。旗を掲げた軍勢まで見える。

 地方に散っている貴族たちの紋章だ。

 一番先頭にいるのは、何年も前に没落させたはずのサラッコ家の旗だった。現当主のアンガス・サラッコはみすぼらしい洋館で宝珠の研究を続けていると聞いていたが……。


 現王家に不満を抱える民衆は多い。

 だからこそ、現世では仮初の革命を自作自演しようと、幼少期から影武者まで立てて生活していた。ギルバートが都合よく動くように仕向けて、反乱の波風を立たせて、逆にそれを利用する計画まで実行した。


 だが、この民衆たちの群れはウィリアムが意図していない出来事だ。

 恐らく、ギルバートたちに加担していた貴族たちだろう。けれども、少なくともこの機に動くことは想定していない。


 誰かが、今動けと号令をかけたのだ。


 ギルバートは、それが出来る状況ではなかった。

 では、誰が?


「裏切りで建国した国は、裏切りで滅ぶのが似合いだと思わないか? 別に、お前は裏切ったわけじゃなかったがな」


 地獄の底から歌うような黒さを纏う声。

 氷の刃のような冷たさと、雲のように掴みどころがない軽薄さを持った声だった。

 何度聞いても背筋が凍る。


 傍らに視線を移すと、いつの間にか黒い影が立っていた。

 漆黒の長い前髪によって顔がよく見えない。だが、その男が笑っていることだけは、わかる。


「お、ま……ッ」


 言葉を発しようとするが、呼吸が上手く出来ない。その様を嘲笑うかのように、男はウィリアムの右胸部に出来た傷口を蹴りつけた。


「良い姿だな、リック」


 かつての名前で呼びながら、男は傷口に踵を押し込んでいく。

 ウィリアムは声にならない呻きをあげながら、血で汚れた床に溺れるようにもがく。ヒューヒューという呼吸と共に、大量の血液が喉を逆流してくる。


「あんな劣化版にも勝てないとは、実にお前らしいな。所詮、なにをさせても中途半端な三下だ」


 男は煩わしそうに長い前髪を掻きあげた。

 感情の読めない黒眸が顕わになる。見た目の年齢は再会した頃と少しも変わらない青年のもの。

 フランセールへ行くために生やしていた髭は剃ってしまったのだろうか。口元には、愉しそうな笑みが描かれていた。


「俺がお前を相棒に選んでやった理由がわかるか?」


 今はクラウディオ・アルビンと名乗っている男は低い笑声を転がしながら、ウィリアムを見下ろす。


「適当に狡賢くて事を上手く運び、中途半端故に扱いやすいからだよ。もっと聡い奴は他にもいるが、お前ほど使える・・・男はいなかった」


 栗色の髪を掴んで持ち上げられる。

 その頃には抵抗する体力も、なにかを問う気力も残っていなかった。

 ただ、ぼんやりと、このまま死にたくないという願望だけが浮かび上がる。

 何度も転生し続けてきた輪廻から唐突に放り出される闇が身体を蝕んでいった。


「なにか言いたいことがあれば、聞いてやるが? 必死になってこんなところまで来て、お前は俺になにをして欲しかったんだ? 言ってみろよ」


 髪を掴まれたまま、バルコニーの方へ引き摺られる。見下ろす黒い瞳が左だけ波打つ蒼に揺らめく光を放つ。深く透明な水面のような揺らめきは、間違いなく人魚の宝珠が放つ光だ。

 その光を求めるように、ウィリアムは力を振り絞って唇を動かした。


「エ……ド……も、一度……転、せ……」

「は? 聞こえないな?」


 バルコニーの外に身体が吊るされる。

 首を掴まれて宙吊りになった身体が揺れて、それ以上の言葉を紡ぐことが出来なくなった。


「誰かのせいで、俺の餌が減ったからな。これで我慢しておくことにしよう」


 銀の刃が喉を横方向に滑る。視界が真っ赤に染まり、なにも見えなくなった。

 一瞬で消失する意識の中で、自分の首から下が落下していったことだけが、わかった。

 

 

 

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