第91話
「ルイーゼ! ルイーゼ!?」
ぼんやりとした意識の中で、身体が揺さぶられている。
「ルイーゼ……やだよ。ルイーゼ!」
情けない泣き声。女々しく震える声を聞いていると、思わず唇に笑みが浮かんでしまう。
何故だろう。こんな男らしくない声なんて、大嫌いでイライラするはずなのに。
朦朧とする視界の中に、サファイアの瞳が浮かびあがる。顔をグシャグシャにして泣いているエミールの顔を、ルイーゼはただ眺めた。
なにが起こったのかわからない。しかし、これは前世の記憶などではないことはわかる。
「ルイーゼ!」
泣いていたかと思えば、今度は嬉しそうな顔でルイーゼをキツく抱き締めた。ルイーゼは頭が全く働かない状態だったが、その瞬間、電撃が走ったかのように身を硬直させる。
「エ、エミール様ッ!?」
驚きの声をあげるが、エミールはルイーゼの身体を放そうとしない。
「心配したんだよ……急に、倒れて……! 息してないし、顔も真っ白だし……僕、本当に心配で……ッ!」
縋るように泣いて、エミールはルイーゼの肩に顔を埋める。
なにが起こったのかわからないが、どうやら、自分はかなり不味い状態だったらしい。
ルイーゼは、現状が呑み込めないまま、エミールの柔らかなブルネットの髪を撫でた。
「大丈夫ですわ、エミール様。わたくし、ちゃんと帰って来ました」
ルイーゼが見たものは、なんだったのか。
未だに頭の整理がつかない。
周囲を見回すと、ギルバートとヴィクトリアが安堵の表情を浮かべている。
セザールは不機嫌そうに剣を鞘に収めると、脱力したままのルイーゼを抱き起こしてくれた。
「美しくない」
さり気なく、崩れていたリボンや髪型まで直してくれる気遣いも見せたが、たぶん、それは常識的な四十路のオッサンが習得しているスキルではない。もう突っ込まないが。
アンガスだけが興味深そうにルイーゼを見つめている。その眼差しは好奇心の塊であり、純粋にルイーゼの身に起こった現象に興味があるようだ。
「なにかを、見た?」
アンガスに問われて、ルイーゼは顔を顰める。どうやら、ルイーゼがなにかを体験したことは、彼にもわかっているらしい。
「……前世の記憶を見ましたわ。身に覚えのないものでしたが」
ルイーゼは素直に口を開き、自分が先ほどまで体験した出来事を語った。
自分が「セシリア」であった頃の前世。
ロレリアの巫女として転生し続けた少女が、宝珠を守ろうとしていたこと。
「宝珠は、あのあと海賊に奪われたと思われます。たぶん、ギルバート殿下からうかがったアルヴィオスの建国史と同じで――」
ここまで話して、ルイーゼは口を噤んだ。
アルヴィオスの建国史に登場する海賊は二人いる。
王家に今も転生し続ける建国の王リチャード・アルヴィオス。
そして、リチャード・アルヴィオスが裏切った大海賊――エドワード・ロジャーズ。
エドワード・ロジャーズはルイーゼの六番目の前世の名だ。そして、先ほど体験した前世の記憶……あのとき、「セシリア」を殺した男は、間違いなく
ルイーゼが覚えている前世の記憶は、宝珠に関する一切が消えている。勿論、あの場面にも覚えがないのだ。
もやもやして、ルイーゼは頭を抱えた。
クロード・オーバンは「セシリア」を殺した。エドワード・ロジャーズも「セシリア」を殺している。
双方、
なにか関係があるのだろうか。思い出そうと試みるが、記憶が蘇る気配は全くない。
前世の記憶は、たいてい、いつでも思い出せる引き出しのようなものに入っている状態だ。
なにもしていなければ思い出さないが、ふとした瞬間や、自分が必要だと思ったときに、なんとなくスッと思い出すことが出来た。だから、一番目の前世のことでも覚えている。いわゆる、知識チートのようなものかもしれない。
それなのに、この件に関しては全くわからない。空の引き出しを覗き込んでいる気分だ。
もう一つの前世である「セシリア」についても同じである。全く思い出せない。妙な夢や、先ほど体験した謎の記憶しかない。
「あれは、本当にわたくしの記憶なのでしょうか」
素朴な疑問を口にする。
前世の記憶が思い出せない経験など、今までになかった。それとも、思い出せない記憶があることに気がついていなかっただけだろうか。
「君の記憶だよ」
ルイーゼの疑問に答えるように、アンガスが顔を覗き込む。彼は色素の薄い赤い瞳を細めて、ルイーゼの表情を観察した。
「それで、アンガス。人魚の宝珠は?」
ルイーゼを見つめたまま動かないアンガスを急かすように、ギルバートが声をかけた。
少々焦っているのか、いつもより言い方が荒っぽく感じる。無理もない。彼の目的は飽くまでも、人魚の宝珠である。そのために、アンガスの元を訪れたのだ。
「残念だけど、ここにはない」
「は?」
シャシャンタタタンッ! と、タンバリンを鳴らして言い放ったアンガスの言葉に、ギルバートが眉をあげた。協力者であるヴィクトリアも口を曲げている。
「そんなはずはない。俺が間違っているとでも?」
「そうは言っていないよ、ギル。ルイーゼは、ちゃんと宝珠を宿している……でも、不完全だ。だから、石に移せない」
アンガスは黒い石を持ち上げた。なんの輝きもなく、元の通りに飲み込まれそうな闇色を湛えている。
「そもそも、記憶が思い出せないのが有り得ない話だ。そうじゃないのかい、ルイーゼ?」
タタンタンッ!
前世の記憶のことだろう。アンガスに問われて、ルイーゼはぎこちなく頷いた。
確かに、前世の記憶が思い出せないのは、ルイーゼにとって「有り得ない話」である。
「この宝珠は二分されている。もう一人、誰か人魚の宝珠を持っている人間がいるはずなんだ。だから、思い出せない記憶があるのかもしれない」
シャラシャラシャラ~!
「……もう一人?」
確か、ギルバートは当初、アルヴィオス国王から
だが、いったい誰が宝珠の片割れを持っているのだろう。
「まさか、そのもう一人を見つけないと、宝珠の力を使えないのか? またフランセールまで、探しに行なきゃあならないのか」
ギルバートは前髪を掻き毟って項垂れる。ここまでの道のり、彼は様々な工作を行ってきたのだ。それが水の泡だと思うと、無理もない。
「いや、ルイーゼは力を使えるはずだよ。扱い方がわかっていないだけ」
扱い方? どうやって?
ルイーゼが首を傾げていると、ギルバートが眉を寄せた。この中で、実際に宝珠を扱ったことがあるのはギルバートだけだ。
「扱い方なんて、触れりゃあなんとなく、わかるもんだろう」
「やっぱり、あなたそういうところ適当ですわよね」
期待したのが馬鹿だった。わざとらしく落胆しておくと、ギルバートは難しそうな顔で頭を掻く。
「宝珠の扱い方……ですか……」
なんだか、とても面倒くさいことになっている。そんな気がした。
つまり、これからルイーゼは宝珠の使い方を知る必要がある。しかも、石に移して取り出せないとなると、ギルバートたちに同行しなければならず……更に、もう一人、人魚の宝珠の力を持った人間がいる可能性もある。
一筋縄ではいかないということか。
一行はアンガスの洋館で一泊することになる。
縛りあげていたアーガイル侯爵は洋館の一室に繋いで放置しておいた。どうやら放置プレイもお気に召したようで、なにも文句を言わず、ジャンとドMトークで意気投合している。旧体制の申し子のような好き放題貴族と、一介の執事が仲良くなるなど……趣味の一致とは恐ろしい。
ギルバートとヴィクトリアは旧友であるアンガスを囲んで話し込んでいる。相変わらず、ヴィクトリアはギルバートを無碍に扱っているようで、たまに部屋の中で物を投げる音が聞こえてきた。
セザールはアルヴィオスの不味い料理に我慢ならず、厨房に立ったところ、アンガスのメイドに講師を頼まれたらしい。上機嫌で女子力極振りの料理の数々を伝授していた。
ルイーゼはと言うと、アンガスから渡された資料をパラパラと捲って息をついている。
ルイーゼ自身が宝珠を使用することが出来る。ただ、使い方がわかっていないだけ。そう言われても、実感がないのだ。
アンガスや彼の祖先が研究してきた資料を見ても、イマイチ理解出来ない。ギルバートが「触ればなんとなくわかる」と言っていたが、本当にそのようだ。本来は触れるだけで、感覚的に扱い方や自分の才能がわかるらしい。
「わかりませんわ」
別に勉学が苦手ではないが、ルイーゼは資料を放り出して四肢をバタバタさせる。
意味不明な参考書を見て、定期テスト前に足掻く学生に戻った気分だ。二番目以降の前世では一度覚えた内容なので、さほど苦労しなかったが。
「ルイーゼ?」
根を詰めていると、エミールが扉から顔を出した。どうやら、ノックに気づかなかったようだ。
「あの、邪魔だったかな……?」
不安げに問われたので、ルイーゼは役に立たない資料を閉じた。見ていても、あまり意味はない。
「いいえ」
ルイーゼはそう言いながら、振り返る。
「よかった……」
エミールは覚束ない手つきで銀の盆を運んでいた。盆の上には温かそうな湯気のあがるコップが載っている。
「あら。エミール様が、そのようなことをする必要はないのですわ」
王子なのだから、ジャンにでも運ばせれば良いのに。そう言うと、エミールはフワリと笑って、机の上に盆を置いた。
「ううん。僕がこうしたくて……セザールに、温かいもの教えてって頼んだの……その……美味しいか、わからないけど」
要領を得ない喋り方で、エミールはもじもじと俯いてしまった。
話を整理すると、エミールが自分で作った飲み物を、ルイーゼのために持ってきたようだ。
「エミール様は王子なのですから、このようなことをする必要はないのです。しかも、手作りだなんて、女性のすることですわ」
「でも、ユーグもセザールもかっこいいよ」
「あの辺りを基準に考えないでください」
とはいえ、エミールの持ってきたコップからは、良い香りがする。どうやら、ジンジャーティーのようだ。手作りと言っても、紅茶にショウガと蜂蜜を混ぜた簡単な代物である。
「迷惑、かな?」
「……せっかくですから、頂きますわ」
ルイーゼは泣きそうになるエミールを横目で見て、素早くコップを持ち上げた。とても温かい。
アルヴィオスの食事は不味いが、紅茶だけは評価出来る。口に含むと、蜂蜜の甘みと紅茶の香り。そして、ショウガの辛みと風味が効いた豊かな味わいが広がった。身体の奥から温かくなる気がする。
「美味しい?」
「ええ、とても」
優しい気持ちになりながら、ルイーゼは目を伏せた。自然と笑みが唇に浮かんでくる。
エミールは嬉しそうに笑ってルイーゼの隣に腰かけた。彼は、まるで小動物のような愛くるしい表情で、ルイーゼを覗き込んでくる。
「あの、エミール様」
あまり見つめられると、どうすればいいのかわからない。ルイーゼはエミールから視線を逸らしてしまった。だが、エミールは真剣な表情でルイーゼを見つめ続ける。
「ルイーゼ。僕、まだフランセールには、帰らないから」
少々声が震えているが、彼にしては力強い口調だった。驚いて目を見開くと、エミールは恐る恐る、ルイーゼの手を握りしめる。
「僕、ルイーゼと一緒に帰る」
エミールは理解しているのだ。
ルイーゼから宝珠が取り出せない以上、フランセールに帰ることは出来ない。激動期を迎えるアルヴィオス王家の問題に首を突っ込み続けなければならないのだ。
そうなると、選択肢としてあがるのはエミールをフランセールへ帰すことである。
あまり余裕がなくて考えていなかったが、一度も考えなかったわけではない。一人では帰らないだろうから、セザールも一緒に帰そうと思っていた。
ルイーゼが一人でアルヴィオスに残ろうとしていることに、エミールは気がついていたのだ。
「エミール様には、危険ですわ」
「タマがいるよ……あと、ポチも!」
エミールの首に巻き付いた白蛇がチロチロと舌を出す。頼もしさを表現しているのか、牙を剥いて威嚇した。
「怖い体験もしますわよ」
「だ、大丈夫……だよ……だって、僕はルイーゼに勝ったんだよ……ルイーゼは、その、首狩り騎士で……僕、首狩り騎士より怖いものなんて、ないから。だ、大丈夫!」
「その件について、わたくしは安心すればいいのか、平謝りすればいいのかわかりませんわ。若気の至りです。ちょっとテンションのおかしい残念な脳筋だったのですわ」
「てんしょん?」
そのネタを持ちだされるたびに、こちらの黒歴史まで抉られる気分だった。
とにかく、エミールは断固として帰らないつもりだ。船に乗り込んだときもそうだが、この王子は無駄に頑固なところがある。
エミールを守る自信がない。
鍛えまくっていた騎士や海賊だった頃であればともかく、現世のルイーゼはひ弱だ。筋トレは欠かしていないが、長時間戦うと息切れしてしまう。
それなのに、――。
エミールの言う通りにしてもいいのではないかと思えてくる。
握り締められた手が震えていた。ルイーゼは、エミールの手を包むように、そっと握り返す。ジンジャーティーのせいなのか、身体の芯がとても温かく感じられた。
「わたくし、エミール様を遺しては死ねませんわ」
親心的な感情をこじらせてしまったのだろうか。すんなりと、その言葉が湧き出た。
何故だかわからないが、今、そう伝えたくなった。
「ルイーゼ、とっても綺麗……!」
ルイーゼの瞳を覗いて、エミールが呟いた。
サファイアの瞳に映るルイーゼの瞳が蒼く輝いていることがわかった。何故だかわからないが、宝珠の力が共鳴しているようだ。
エミールは、そんな宝石のようにキラキラ輝くルイーゼの瞳に、いつまでも魅入っていた。ルイーゼも気恥ずかしく思いながらも、目を逸らさず、エミールの瞳を見つめ続ける。
ルイーゼの前世であったクロード・オーバンは、エミールの教育係を全うしないまま死んだ。セシリア王妃も、息子であるエミールを独り遺して死んでしまった。
自分の前世になにがあったのかわからない。
だからこそ、か。
ルイーゼは二人のように、エミールを遺して死にたくないと思った。
もしかすると、また刺されて死んでしまうかもしれない。そんな恐怖とずっと戦ってきた現世だが……今は何故か、エミールのために生きていたいと思ってしまう。
この手をずっと、離したくない。
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