第90話
この記憶には見覚えがある。
と、ルイーゼはぼんやり考えた。
いつの間にか、目の前に広がっていたのは見渡す限りの麦畑。黄金色に実った麦が夜風を受けて、そよそよと揺れていた。
その景色の中で、何故か自分は走っている。息を切らし、頬を紅潮させていた。
深く澄んだ闇を湛える夜空に上がっているのは、真っ赤な炎と渦巻く煙。吹きつける熱い風によって、長い髪が舞い上がる。
「戻れ、セシリア!」
後方から声が聞こえた。ルイーゼの知らない声だ。
けれども、知っている。
遠い記憶が蘇るように、ルイーゼはその声のことを「現世のお父様」だと認識した。
あら? おかしいではありませんか。ルイーゼにとって、「現世のお父様」はシャリエ公爵だ。だが、声の主はシャリエ公爵ではないように思われた。
「いいえ、お父様。アレを渡してしまうわけには、参りません」
歩みを止めて、気丈に言い放つ。
ルイーゼは、そんなことを喋ろうとした覚えはない。身体が勝手に立ち止まり、口を開いていたのだ。
自分や周囲の人々が着ているのは、随分と古いデザインの服だと思う。今のフランセールで、こんな古めかしい服を着ている人間はいない。
ここに来て、ルイーゼはこれが「記憶」であると気づく。
いつかわからない。けれども、自分が確かに体験した――前世の記憶だ。
これは前世の記憶。ルイーゼの知らない記憶だ。
しかし、この光景に「覚え」がある。ルイーゼは、これが自分の記憶であると、はっきりわかった。
クロード・オーバンでも、エドワード・ロジャーズでも、ジャリル・アサドでもない。二神永久子、藤井さくら、御堂明日香、九条麗華……ルイーゼが経験した、どの前世にも該当しない。
これはもう一つ――セシリア王妃の記憶。それも、王妃自身ではない。彼女の前世に遡る記憶だ。
「セシリア」という女性はロレリアの巫女として、何度も転生を繰り返している。何番目の前世かはっきりしないが、彼女が繰り返してきた転生の一つなのだろうと、なんとなくわかった。
「待ちなさい、セシリア!」
大人たちの制止を振り切って、ルイーゼ――いや、「セシリア」は走る。麦畑を横切って、燃え盛るロレリアの城へと向かった。
この「セシリア」にとって見知った城は変わり果て、襲って来た男たちによって荒らされ放題となっていた。城にあった立派な調度品や宝飾品などを漁って、笑う下品な声が聞こえる。
しかし、「セシリア」は目もくれない。
目指す場所は決まっている。隠し通路を駆使して、「セシリア」は城の中に備えられた礼拝堂へと進んだ。
炎が放たれた城は、もう長くは持たないだろう。だが、「セシリア」にはやらなければいけないことがある。
「あったか、リック?」
「いや……見つからない」
礼拝堂に着くと、見知らぬ男二人が中を探しているところであった。
やっぱり。「セシリア」は確信した。
突然、ロレリアの城は海賊から襲撃を受けた。港町が近いとはいえ、何故、海賊がこんな場所を狙うのか疑問だったのだ。
目的があるとすれば――
海賊たちが狙っているのが人魚の宝珠だと確信して、「セシリア」は逃げる大人の制止を振り切った。そして、その確信は当たっていた。
礼拝堂の中を闇雲に探す海賊たちに気づかれないよう、「セシリア」は転がっていた燭台を手にする。
大人の男二人を相手に出来る自信はない。幸い、彼らは宝珠の隠し場所に気がついていないようだ。「セシリア」は息を潜めて、這うように床を移動した。
宝珠は祭壇の十字架に埋め込まれている。わかりやすいように思うが、木の彫刻によって外からは見えないようになっているので、意外と見つからないものだ。「セシリア」は無造作に転がっていた十字架を拾い上げた。
「なんだ、ガキか」
声と同時に、脇腹を蹴りつけられる。突然のことで対応出来ず、「セシリア」は呆気なく床を転がった。手から離れた十字架が壁に叩きつけられて壊れてしまう。
中から出てきた宝珠が眩い光を放つ。
不思議な透明感を持ち、波打つ蒼を湛えている。「セシリア」は宝珠を隠そうと手を伸ばすが、その腹を容赦なく踏みつけられてしまった。
「なるほどな。ご苦労様だ」
男は宝珠を拾い上げて、唇の端を吊り上げた。残忍で血生臭い悪魔のような笑みだ。彼はこの国では珍しい漆黒の髪を掻きあげて、サーベルを抜いた。
「……それは……あなたが持っていても良いものじゃないわ」
「うるせぇな。こんなところでカビを生やすくらいなら、俺が有効活用した方が良いと思うんだがな?」
底知れない残忍さと、掴みどころのない軽薄さのある声だ。男は死刑を告げるかのように、「セシリア」の目の前に刃を突きつけた。
これから、この男は「セシリア」を殺すつもりだ。そう直感して、「セシリア」は厳しい眼差しを男に向ける。
「必ず、取り返すわ」
「どうやって?」
ズブリと呆気ない音がする。
腹の中心に刃が突き立てられ、
身体を寒さが襲い、死の闇に呑み込まれていくのがわかる。何度も経験した、死ぬ瞬間の感覚だ。
「思い通り……に、なん……て……」
遠のく意識の中で、「セシリア」は男の顔を睨みつける。男は死にゆく「セシリア」のことなど意に介さないように、
そこで意識が途切れる。
† † † † † † †
ハッと目を開ける。
暗い闇の底に沈んだはずの意識が、再び浮かび上がったようだった。
南向きの窓から差し込む明るい陽射し。のどかな小鳥のさえずり。読みかけで開いたままの本。穏やかに流れる日常の光景を見て、ほっと息をついた。
先ほどまでの記憶は……「セシリア」としての前世の記憶。自分が死ぬ瞬間の記憶を体験したせいか、今でも寒気がしそうだった。
あれはいつの前世だっただろうか。はっきり、わからない。自分の前世の記憶を見ているという実感がなく、なんだか、他人が演じるお芝居を見ている気分だ。
しかし、ルイーゼには記憶の中に登場する男に見覚えがあった。
そう。「セシリア」を刺し殺した、あの男は、――。
「セシリア」
名を呼ばれて、顔をあげる。
そして、これも前世の記憶なのだと気がついた。
ルイーゼは気を失う前、アンガスの洋館にいたはずだ。しかし、ここは全く違う。見覚えのある部屋だが、ここではない場所――王宮の一室だ。それに気づいて、この記憶が「セシリア王妃」のものであると思い至った。
場面が変わったが、まだ前世の記憶は続いているようだ。
「誰、ですか……?」
呼ばれた声に対して振り返らずに、「セシリア王妃」は静かに問う。背後に気配が一歩一歩近づいてくるのを感じて、「セシリア王妃」は息を呑んだ。
「久しぶりだな」
ゾッとするような冷たさをはらんだ声だった。それでいて、雲のように掴みどころがない。「セシリア王妃」は震えそうになる唇を噛み、膝の上の本を閉じた。
「あなたは……そこから、出て行ってください」
「出て行けだと? こんなに居心地が良いのに」
細い首に指が触れる。生きた人間の血と体温が通っているはずなのに、まるで、刃を宛がわれたかのように冷たい気がした。
「やめてください!」
気丈に言い放って、「セシリア王妃」は首に触れる手を振り払った。拒絶の意を示しながら立ち上がり、相手を睨みつける。
そこで意識が途切れた。
記憶の途中だというのに、唐突に闇の中へと放り出される感覚に陥った。視界が黒く塗り潰され、振り返った相手の顔も見えない。
そのまま漆黒の底へと沈んでいく。
ここまで見た記憶は、なんだったのだろうか。
なんの意味があるのか……わからない。
わからないまま、ルイーゼは考えることを辞めて、闇の底へと沈んでいった。
――ルイーゼ! ルイーゼ……!
誰かが自分の名前を呼んでいる。
導かれている気がして、ルイーゼは何故だか笑みを浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます