第89話
アンガス・サラッコの洋館には、無口なメイドが一人いるだけだった。
突然、泳いだり、走り出したり、床に何時間も寝転がる主と二人きりのため、洋館の手入れもあまり行き届いていないのだと納得する。
代わりに、生活域である寝室や応接間、食事の間だけは、きっちりと掃除されていた。客間に関しては、ギルバートたちが訪れるという報せを受けて、大急ぎ手片づけたらしい。
因みに、アンガスは今、タンバリンを叩いている。叩いていると落ち着くらしい。そういえば、水に潜っていたのも、「落ち着くから」と言っていたか。シャンシャンタンタンうるさい。
「酷いな、ギルは……絶対に宝珠を持って帰ってくれるって言ったのに」
シャンッシャンッタタタンッ!
タンバリンの音が鳴らしながら、アンガスがガッカリと眉を下げている。
「まあ、人の話は最後まで聞くもんじゃあないか? フランセール国王から直接、宝珠を受け取ることは出来なかった。でも、俺の見立てが正しければ、そこにいるルイーゼが宝珠の中身を持っている」
「へえ……生まれつき?」
「たぶんな」
タタンタンッシャララララッ!
アンガスはタンバリンを軽快に鳴らしながら、無遠慮にルイーゼの顔を覗き込んだ。
心なしか、いや、明らかに距離が近い気がする。ちょっと嬉しそうに興奮したと息が顔にかかった。
ギルバートといい、ヴィクトリアといい、アーガイル侯爵といい……アルヴィオス人はパーソナルスペースが随分と狭い気がする。
ギルバートは事の経緯と、ルイーゼの前世について噛み砕いて説明した。大雑把過ぎると思われた部分は、ルイーゼが補足したお陰か、アンガスは概ね納得したようだ。
「ふうん、そっかぁ。ちょっと、見せて?」
シャラシャラッ!
アンガスはルイーゼの顔を舐め回すようにじっくりと観察する。アンガスの視線が無遠慮すぎて思わず顔を逸らすと、「こっち見て」と要求されてしまった。
色素の薄い赤い瞳が、まっすぐにルイーゼを覗き込む。
「わあ……ルイーゼ、きれい」
「ふうん……」
何故だか、エミールが声をあげていた。ヴィクトリアも、少し驚いたように目を見開いている。
なにが起きているのかわからないが、何故だか自覚があった。恐らく、今、ルイーゼの両眼が蒼く揺らめく光を放っているのだ。
一度、ギルバートに指摘されてから、ルイーゼは折りにつけて自分の顔を鏡で見るようになっていた。すると、ごく稀だが、確かに日常生活の中で自分の眼が蒼く揺らめく瞬間があることがわかった。そして、そのとき、微かだが、自分の体温が上がっている気がする。
アンガスの眼を見ていると、ほんのりと身体が温かくなる気がするのだ。今、眼が光っているのだろうと、なんとなくわかる。
「なるほど、確かに」
タタンッシャララッ!
アンガスはルイーゼの前から離れる。妙な圧迫感から解放された気がして、ルイーゼは息をついた。
「な、なにをしたのですか?」
「なにも。ちょっとしたコツだよ」
アンガスは曖昧なことを言って、タンバリンをシャラシャラ鳴らしている。そして、応接間のテーブルに置いてあった古い本を持ち上げた。
「ボクの先祖、フランセールの宝飾師だったんだ」
宝飾師は宝石の加工や装飾をする職人のことだ。フランセールでは、特別な技術を持った専門職として重宝されている。
「ボクの先祖はある女性に頼まれて、奇妙な仕事を請け負った」
アンガスは本のページをパラパラとめくり、ルイーゼの前に差し出した。フランセールの古語で書かれた本を見て、ルイーゼは顔を顰める。どうやら手記のようだ。
それによると、アンガスの先祖である宝飾師は謎の女性が持ち込んだ鉱石を加工する仕事を任されたらしい。
とても美しい二つの石だったという。
一つは透明感のある蒼い鉱石で、外界の光を取り込んで波打つ輝きを持っていた。もう一つは深い色味の紅い鉱石で、炎のような揺らめきを持っていた。
宝飾師は不思議な輝きを持つ鉱石を加工した。そして、女性に鉱石の正体と用途を問いかける。
すると、女性は問いに答えないまま宝飾師の元に紅い宝珠を残して、何処かへ去ってしまった。
「それから、ボクの先祖は紅い宝珠を研究してきた」
シャンシャンタタタタタンッ!
「その紅い宝珠って……」
「
アンガスはそう言って、複数の本を取り出した。どうやら、全て火竜の宝珠についての研究成果らしい。彼の先祖が代々残してきたものだそうだ。
火竜の宝珠は海賊エドワード・ロジャーズに奪われるまで、ずっとサラッコ家が保管していた。そして、今はアルヴィオス王家が所有している。
「俺なんかより、アンガスの方が宝珠に関しては詳しい」
ギルバートは笑いながら、アンガスの肩を叩く。
だが、アンガスの興味はルイーゼに注がれているらしい。彼はギルバートを無視して、再びルイーゼに近寄った。なんだか、ギルバートの周りには、彼を王子扱いしない人間ばかりのような気がする。
「これを見て」
アンガスはタンバリンを置いて、代わりにルイーゼの目の前に鉱石を差し出した。不思議な色合いを持った黒い石だ。見ていると、闇の中に吸い込まれる感覚に苛まれそうになる。
「宝珠の器になっているのと同じ種類の石だよ」
「これが……?」
フランセールで見た
「この石は人の魂と近い波長を持っているんだ。だから、宝珠の力と共鳴して器になれる」
よくわからないが、宝珠には本来原型がなく、人の魂に宿るらしい。今のルイーゼがその状態だ。
人魚の宝珠や火竜の宝珠が収まっている鉱石は、魂と近い波長を持つため、力を移して形にすることが出来るらしい。理屈は聞いてもよくわからないので、そういうものだと思うしかない。
「見て」
アンガスに促されて、ルイーゼは黒い石を見つめた。
ブラックホールなど見たことがないが、色にすると、こんな感じなのかもしれない。底知れない闇のような黒が渦を巻いているように感じる。じっと見ていると、意識が吸い込まれてしまいそうだ。
「いたッ」
ルイーゼが意思を凝視していると、アンガスが唐突に石をルイーゼの額に押し当てた。別に痛くはないが、反射的に「いたッ」と言ってしまう。
「…………」
なにも起こらない。
そう思いかけた瞬間、ルイーゼは身体が宙に浮くような感覚に苛まれた。まるで、空でも飛んでいるようだ。
「ルイーゼ!?」
エミールの声が聞こえる。意識すると、床に倒れたルイーゼに駆け寄る姿が見えた。
糸の切れた人形のように動かなくなったルイーゼを、エミールが必死で揺すっている。その後ろでは、セザールが刃のない剣を抜いて、アンガスに突きつけていた。
「あら?」
他人事のように事象を見ていたが、ルイーゼは我に返る。
床に倒れているのはルイーゼだ。
自分の姿を眺めるように立っていたことに、ルイーゼは今になって気づいた。
どういうことだ。自分が自分自身を見下ろして立っている。
まさか、幽体離脱!?
混乱していると、ルイーゼは更なる違和感を覚えた。
「え? え、えっ! えええええ!?」
身体が宙に浮きはじめている。ふわふわして気持ちが悪い。遊園地の乗り物に乗った浮遊感にも似ている。
倒れた自分の姿が遠くなっていく。ルイーゼは手を伸ばしたが、身体は風船のように浮いていってしまう。おまけに、眠くて仕方がない。泥のような眠気に襲われて、ルイーゼはアッサリと意識を手放した。
この感覚は味わったことがある。
意識の底へと、深く深く堕ちていく感覚。黒という黒が周囲を塗りつぶし、ルイーゼという存在自体を呑み込んでいく。
何度も経験した。
自分が死ぬときの瞬間と近い。
わたくし、死ぬんですか? こんなところで? 刺されていないのに?
刺殺以外の死に方など、想定しておりません。
ルイーゼはそんなことを考えながら、暗い闇の底へと意識を沈めていった。
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