余話
或る荊棘の常識
「いい? セシリア。あなたは、ロレリアの巫女なのよ」
そう言って、母が髪をまっすぐに梳かしてくれる。
光の加減で金にも銀にも見えるシルバーブロンドが、肩から滑らかにこぼれていった。
五歳にしては虚ろなアイスブルーの瞳で自分の姿を睨みつける。
過剰に着飾った桃色のドレス。髪につけられている大きなリボンが愛らしく、子供らしさを無意味に引き立てていた。
「今日も綺麗よ、セシリア」
毎日毎日、そう言われて過ごしてきた。
それが当たり前で、日常なのだと幼心に理解していたと思う。朝起きれば、母が髪を梳かし、綺麗なドレスを着せてくれる。他の使用人に任せることは決してない。
ロレリアに生まれる巫女。
毎回、前の巫女が亡くなって、最初に生まれた女児へと転生が繰り返されている。
長年、ロレリア侯爵家で繰り返される魂の転生。同じ女性の魂が何度も転生し、ロレリアの血筋が紡がれているのだ。
分家であるサングリア公爵家にも、その血は流れていた。今回はサングリア家の長女が、次代の巫女だと認められている。
巫女には慣例で、「セシリア」という名をつけることになっていた。最初に降り立った巫女の名前だ。
だから、自分もセシリアと呼ばれていた。
それが当たり前で、慣例だから。これが、この地のやり方だから。
そう思っていた。
「どうして、そんなすぐにわかる嘘を――その子は、女児ではないではないか!」
そう言われたとき、初めて自分が男だと知った。
突然、世界が終わった気がした。
当たり前に流れていた日常が途切れて、違う生活を強いられた。
全ては母の嘘だったのだ。次代の巫女を産み、公爵家の地位を向上させるための。
ここ数代、巫女はロレリア侯爵家からしか生まれていない。このままでは、分家のサングリア公爵家は巫女の生まれない家系になってしまう。そう危惧されていたのは、事実だ。そして、女児を産まなければならない圧力があったのも確かである。
後から考えれば、馬鹿馬鹿しい話だ。男児を女児と偽るなど、限度がある。しかも、父にすら秘匿していた。
そう、限度があるのだ。そんなことは、母だって知っていただろう。
巫女を産んだという事実があれば良い。
その子が育たなくても、よかったのだ。
実際、母は子供が男児だと露見したとき、真っ先に短刀を抜いた。そして、我が子を殺そうとしたのだ。
結局は阻止されて、――母は死んだ。
その日から、自分の日常は全て消えた。
名を奪われ、女の服を奪われ、いつもの生活が奪われた。母もいなくなった。
セザール・アンセルム・ド・サングリア。
代わりに与えられた男の名前と、男の服、男としての生活。違和感しかない日常を、ただなんとなく過ごしはじめた。
† † † † † † †
「セザールは、とても綺麗ね」
そう言って、無遠慮にセザールの顔を覗き込む少女がいた。
麦穂色の髪を揺らして、純真無垢な笑みを浮かべる少女。しかし、七歳にして既にしたたかで、なかなか真意を読ませてくれない。
彼女につけられた名はセシリア。七年前まで、自分が名乗っていた名前。そして、本物の巫女だ。
「綺麗などと……我は男だ」
十二歳にしては厳めしい喋り方で一蹴してやる。
喋り方など、どうでもいい。なんとなく、男らしくしろと言われた結果、こうなった。セザールのことを妙な子供だと指摘する大人もいたが、そもそも、「妙な」の概念が曖昧でわからない。
生活が変わって以来、セザールの周りには「妙な」ことしかない。なにをするにも、違和感がある。自分ではなく、周りが変なのだと言わざるを得なかった。
「……まだなにかあるのか。お前の相手など、したくないぞ」
「まあ、お前だなんて」
言い放ってやると、セシリアがムッと表情を歪ませる。怒らせるようなことを言った自覚はないが、怒らせたらしい。他人と話すのは面倒くさくて苦手だ。
「わたくしはセシリアです。セ・シ・リ・ア。わたくしの名前は、セシリアですわ。お前ではなくてよ」
子供らしい表情で口を尖らせ、セシリアは自分の名を告げた。どうやら、名前を呼ばれなくて怒っていたらしい。
「嫌だ、呼ばない」
「どうしてですか? わたくしは、ちゃんとセザールと呼んでいるのに」
「そういう問題ではない」
立ち去ろうにも、セシリアはトコトコと歩いてついてくる。意地でも、名前で呼ばれたいらしい。自分が妙なのか、セシリアが妙なのか、よくわからなかった。
「その名前は……好かない」
元々は自分の名前だった。母から呼ばれていた名を、他人に対して口にすることなど、違和感しかない。
少なくとも、セザールの感覚では憚られた。
「では、名前を変えることにしますわ」
唐突に、セシリアはそう言って笑った。
セザールが面食らっていると、セシリアは再び前に立って、無遠慮に顔を覗き込んでくる。
「セシルと呼んでください。こちらの方が可愛くなくて? そうだわ。お父様や城のみんなにも、そう呼んで頂きましょう」
これなら、いいでしょう? そう言いたげに、セシリアはにっこり笑った。七歳とは思えないしたたかな笑い方だ。相手を虜にしてしまう魔性の笑み。
「セシルです」
無理やり、手を握られる。呼ぶまで離さないつもりか。セシリアは強いるような眼差しで、セザールを見あげた。
「……セ、セシル……」
これは強要ではないか。セザールが渋々名前を呼ぶと、セシリアは嬉しそうにパァッと表情を明るくした。
したたかなのか、純真なのかわからない。
ただ……なんとなく過ごしていた違和感だらけの日常に、悪くない風が吹いた気がした。
母親の嘘が露見して以来、セザールはサングリアではなく、ロレリア城で育てられた。
表向きは良き騎士を目指すための教育を施すためだったが、実際は違う。裏切り行為とも取れる嘘をついた人間の子を監視するためだ。
幼いながらに大人たちの思惑が透けて見えて、吐気がしそうだった。
「あの子は非常に筋が良いが……騎士になるのは無理ですよ」
剣の稽古をするのは悪くない。身体を動かすのは嫌いではないし、無心になれるのがいい。余計な違和感を頭から排除出来るし、やり甲斐もある。なによりも、他者を打ち負かす瞬間が気持ちよかった。
だが、セザールに大人たちが下した評価は最低だった。
練習用の木の剣は問題なく振れる。しかし、本物の剣での勝負になると、動きが極端に悪くなるのだ。
重さが変わるのは対応出来るし、向かってくる刃が怖いわけでもない。それなのに、セザールはどうしても剣を振れなかった。
「また私の勝ちのようだな! 女男には、剣は重すぎたか?」
明らかに才が劣る同い年からそう言われても、あまり腹が立たなかった。セザールは、さっさと剣を鞘に入れて、その場を立ち去る。
「ごめんなさいね、セザール。お兄様は、まだまだ子供なのですわ」
稽古を見ていたセシリアが、すぐに笑いかけてきた。
「別に……実際、我に才能がないのだろうよ」
「そうかしら? とっても、お上手よ」
「剣が扱えない騎士などいない」
「そうなのかしら? いてもいいのではなくて? 鉄パイプを振り回すヤンキー漫画も好きですわ」
「やんきーまんが? てつぱいぷ?」
ああ言えば、こう言う。セシリアはセザールに付き纏っては、違う考え方を提示してきた。
けれども、それが押しつけられているとは感じないのが不思議だ。そう言われると、「そんな気がしてくる」奇妙な感覚だけがある。
「セザールがやりたいように、すればいいのではないの? お稽古は嫌かしら?」
問われて、思案する。
「剣が嫌なわけではない……でも、出来れば刃は持ちたくない」
「それは、何故?」
何故と問われて、絶句した。あまり触れられたくない。
あからさまに表情を歪めたが、セシリアは構わず前に身を乗り出す。相変わらず、人の心に踏み込む無遠慮な態度だ。
「わたくしね、やりたいようにすることにしたのよ」
セシリアは嬉しそうに笑うと、広げた両手を胸の前で握り合わせた。
「現世では恋をしてみたいと思うの。あと、今度は大きな農園でワインも造ってみたいわ。それからね、前世でやり残してしまったから、農奴解放かしら。ふふ。内政も楽しいと思いますわ」
「……よくわからない」
「よろしくてよ。わたくしが、これから教えて差し上げることですから!」
スカートの裾を揺らして、セシリアはクルクルと回ってみせる。これからの人生に希望を抱いてはしゃいでいる様は、幼い少女らしい。
「とりあえず、セザールのことは、結構好きになれる気がしますわ。恋をしてもいいかしら?」
「そんな身勝手な……お前なんて、絶対に嫌だ」
「お前ではなくて、セシルですわ。セ・シ・ル。よろしくて?」
土足で人の内面に踏み込んできて。
なにもわからないくせに。
「冗談です。わかっていますわ。セザールが、わたくしを嫌いなことくらい」
まるでセザールの心を読んだように、セシリアはにっこり笑った。その笑みが美しすぎて、なんだか人形のようにも思える。
「ごめんなさいね、セザール。これでも、わたくし責任を感じていますのよ」
「…………」
「だから、セザールの好きにすればいいと思うの――なんて、綺麗事です。本当はね、仲間が欲しいのですわ」
サファイアのような瞳が、したたかな笑みを描く。気高く聡明で、計算高い魔性の笑みだ。セシリアがこの笑い方をすると、いつも不思議と身体が動かなくなる。
「近くに仲間がいると、わたくしもがんばろうと思えますから。みんなが望んでいるほど、わたくしは強くないの」
ただ、前世の記憶があるだけ。自分はセシリアという名の娘に過ぎない。
そう主張しているのだと気づいて、セザールは息を呑む。その瞬間から、少女が貼りつけたしたたかな笑みが、仮面のように脆く崩れやすいものだということに気づいてしまう。
「セシルは……悪くない」
やっと絞り出した言葉は、その一言だけだった。
セザールが刃を持てない理由。きっと、それは母に呪われているからだ。
男だと露見した途端、母は真っ先に短剣を抜いて我が子を殺そうとした。すぐに周囲の大人が取り押さえたが、揉み合いになり、そのまま短剣が刺さって母は死んだ。
あの状況では、誰がどんな動きをしたのか覚えていない。自分もよくわからないが、抵抗していたと思う。
だが、最後に短剣を掴んでいたのは、セザールだった。
自分が掴んでいた剣で、母は死んだ。
我が子を利用して嘘をついていた母を恨む気持ちはあった。本気で殺されかけた事実に、憎しみも湧いた。こんなに違和感だらけの歪んだ日常を送るのも、全て彼女のせいだとも思っている。
それでも、刃を持つと手が震える。上手く柄を持つことが出来ないのだ。
完全に呪いのようだと思った。
「やりたいようにすれば、いいのよ」
震えそうになる手を、セシリアが包むように握ってくれた。
† † † † † † †
セザールが二十歳になった頃、フランセールは戦火に呑み込まれる。
当時、城で雇われていたクロード・オーバンと共に、セザールもロレリアの兵を率いて出陣するよう命じられた。
セザールの存在は、クロードとは別の意味で異質だっただろう。
ロレリアの兵を率いて王都に参上した彼の姿は、豪奢なドレスを纏った貴婦人だった。
ドレスで玉座の前に立ち、憮然とした態度を取る騎士に誰もが度肝を抜かれたという。おまけに、抜いた剣には刃がついていない。円柱型の鉄棒を振り回す姿は常識から外れていた。
既に侍従長の位にあった父親がいなければ、許されなかったかもしれない。
だが、戦場に出れば親の権威など必要なくなった。それだけセザールの働きは目覚ましいものだったのだ。
すぐに新しい≪双剣≫候補に名前も挙がった。
しかし、セザールは王族守護の地位を蹴り、代わりにクロードを推した。実力はクロードの方が上だと自覚しているし、武官の最上位であるはずの地位が、身分の高さで決まるなど非常識だと思ったのだ。なにより気が乗らなかった。
自由気ままに生きる美しい女装の騎士。刃を持たない剣を振り、自ら荊道を歩く自戒の騎士。
いつしか、セザールは荊棘騎士と呼ばれるようになっていた。
「セザール、すっかり立派になりましたわね」
久しぶりにロレリアを訪れたセザールを迎えて、セシリアは昔のように、純真な笑みを浮かべた。
セザールはドレスをふわりと揺らして、軽やかに馬から降りる。
「結婚すると聞いたが」
挨拶もせず、セザールは不躾に問う。セシリアは、やや驚いた表情で目を見開いていたが、やがて、したたかな笑みを描いた。
「いきなり、そのお話ですか。短気なのね」
「セシルは、それでいいのか」
やりたいようにする。とりあえず、現世では恋をしてみたい。そんな風に語っていた幼い頃のセシリアを思い出す。
セザールは好きなように生きている。咎められることも意に介さず、気ままに過ごしていた。
それなのに、その道をセザールに示したセシリアが、まるで売られるように結婚してしまう。
「現世ではワイン造りがしてみたかったのですけれど、仕方がありませんわ」
「そうではない。クロードのことは――」
「いいのですわ。たぶん、恋ではなかったもの」
潔く笑った顔に一点の曇りもない。
こんな表情をしているセシリアは、心を読ませてくれない。いや、読ませないように拒絶しているのだ。そのせいで、真意が透けて見える気がした。彼女と会話していて、そう感じたのは初めてだった。
「我が
つい、そんなことを呟いてしまう。
「わたくしも、
同調したのか、それとも、同調した振りをしているのか。セシリアも目を閉じて呟いた。
「でも、いいのですわ。ふふ。ロレリア以外に行くのは久しぶりなのよ。外を満喫してみようと思います。ああ、そうですわ。わたくしの代わりに、ワイナリーを経営してみない? 良い考えがあるのよ。たぶん、サングリア領の方が適していると思いますわ」
「……暇があったら、考える」
この話題は終わりと言わんばかりに、セシリアが話を逸らす。だが、セザールはその手を逃がさないように掴んだ。
「セシル。終わらせたくなったら、我に言え。なにがあっても守ってやる」
言葉に二つの意味を込めた。
逃げ出したくなったら、いつでも連れて逃げる。彼女の好きなように生きられるよう、障害はすべて排除する。
もう一つの意味は、――現世が嫌になったら、殺してやる。来世でもう一度、自由にしてみればいい。
それらの意味を読み取ったのか、セシリアは黙ってセザールを見あげた。
「ありがとう、セザール。でも、いいのよ」
静かに首を横に振る。
「前世の記憶はあるけれど、わたくしは、わたくしなの。例え、ロレリアの地で似たような人生を繰り返していても。それに、セザールにはセザールの人生があるもの。わたくしのために使っては駄目です」
「ワインは造らせたいくせに」
「それは、それよ。元々、持ちかける予定のビジネスだったの」
「びじねす?」
セシリアは「ふふふ」と笑って、セザールの手を解いてしまう。だが、セザールはすかさずセシリアの前に歩み出た。
片膝をつくと、ドレスが衣擦の音を立てた。
セザールはセシリアの前で、深く
「ならば……我はフランセールの騎士となった身。王妃陛下となるセシル様に、忠誠を誓いましょう」
近衛騎士の叙任式でも不遜な態度を取り、国王にすら敬語を使わなかった。そんな自分が幼馴染と言える女性に頭を下げて、こんなことを言っている。滑稽な気もしたが、心底真面目でもあった。
「セザールらしくありませんわね」
「元々、気ままに生きているからな。仕える相手くらい自分で決める」
セザールは自嘲めいた笑みを浮かべながら、セシリアの手を取った。そして、指に唇を落とす。
自分は
放っておけば、適当な年齢で母親に殺されていた人生。未来など用意されていなかったはずなのに、突然続きを歩かされて、戸惑い続けた人生。
生まれた瞬間から嘘で塗られて歪んだ世界で生きた。今でも、違和感しか覚えない日常の中で、好きにしているだけ。
そんな世界で、セシリアの存在だけは悪く思わない。違和感しかないが、それが心地良い部類の雑音だと感じる。
「では、遠慮なく頼りにしますわ」
彼女のために頭を垂れる自分の姿は滑稽だ。しかし、悪くないと思える。
これは忠義なのか。それとも、依存なのか。
よくわからないが、悪くない。
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