第57話

 

 

 

 なにが起こっているのか、誰か説明してほしい。


 そんな思いで、ルイーゼは倒れた王子たちの部屋をあとにした。一緒にユーグもついてくるので、余計に気まずい空気が落ちる。


 ルイーゼは控えめに、ユーグを見上げた。

 緩く波打つ赤毛を無造作に束ねた横顔。相変わらず、顔立ちが端正で昔のカゾーランにそっくりだ。若草色の瞳は、なにを考えているのか読み取れない。

 ユーグがこちらに視線を向ける。思いがけず目が合って、ルイーゼはたじろいだ。


「え……えっと……」


 先日、はっきりとユーグはルイーゼに恋愛感情などないと言ったはずだが、あれは嘘だったのだろうか。

 いや、あのときのユーグは普通だった。即答だったし、なにも隠している気配はなかったと思う。ということは、先ほどの婚約宣言が嘘なのだろうか?


 そうか。そういうことですわね!


「わかりましたわ。ユーグ様は、機転を利かせてくださったのですね。わたくしをアルヴィオスへ連れて行かせないために」


 何故か、ギルバートはルイーゼをアルヴィオスへ連れて行きたがっており、エミールを挑発していた。エミールにその権限があるとでも思っているのだろう。対して、エミールがなにかを言うことはなかった。

 ユーグが自分の婚約者だと主張すれば、ギルバートは諦めざるを得ない。変に拗れて再び決闘することになってしまったが、事故のようなものだろう。

 実はグッジョブだったのではないか。ルイーゼは推理に自信を持って、ユーグを見上げた。

 だが、ユーグは少し憂鬱そうにルイーゼを見返している。その真意がわからず、ルイーゼは首を傾げた。


「姐さん」


 唐突に手首を掴まれる。


「ひゃぁっ」


 ねじ伏せるように背中を壁に押し付けられてしまった。ルイーゼは逃げようとしたが、ユーグが壁に手をついて進路を断つ。ミーディアに次いで、現世で二度目の壁ドンである。


「ちょ、離してください!」


 ルイーゼはタイマンでユーグに勝つ自信がある。だが、それは正面から挑んだ場合だ。

 このように動きを封じられた状態では、筋力の差で押さえつけられてしまう。勘と瞬発力には自信があるが、最近まで鍛えていなかったルイーゼには、大人の男の手を振り解くだけの力がないのだ。


「別に、私は姐さんと結婚しても構わないんだけど?」

「は、はあ……!?」


 顔が間近に迫った状態で、ユーグがそんなことを言って笑った。先ほどまでは第三者がいて敬語だったが、いつもの口調だと、より真実味が増す気がする。


「そ、それは……家柄も悪くありませんし……誰も文句は言わないと思いますけれど……王族でもありませんからバッドエンドフラグも、たぶん回避ですわ……」


 先にユーグを婚約者として選んだのはルイーゼだ。カモフラージュだったとは言え、ルイーゼが求める条件は全て満たしている。間違って結婚することになっても、別に構わないとも思っていた。

 だが、ユーグはそうではないと言いたげに、深く息をついた。そして、ルイーゼの顔に手を伸ばす。


「そんなこと言ってると、キスしちゃうわよ?」

「え、ええ、ええええ!?」


 吐息がかかるほど近くで言われ、ルイーゼは視線をぐるぐる泳がせた。

 前世で男に言い寄られることには慣れている。

 金品を撒きあげるために、そう仕向けていたのだ。狙いを定めて、強かに、キャピッ☆と可愛らしく振舞うのがポイントである。

 けれども、こんなわけのわからない迫られ方をしたことはない。計算外。予想外だ。絶対に、こうはならないと思っていた相手から、こんなことを言われて、正直混乱していた。


 ユーグはオネェで女嫌い。いつも、エミールのことを可愛い可愛いと言って悶えている。そんな姿しか見ていないので、この状況の意味が甚だわからなかった。


 しかし、考えれば、家柄も釣り合った年頃の令嬢。しかも、自分の性癖をよく理解している。ルイーゼとの結婚は、合理的に考えてユーグ側にも利点があるのだ。それに、ユーグはルイーゼのことを嫌っていない。

 利害の一致という点に関して言えば、ありだ。大ありだ。むしろ、条件だけならベストカップル。

 そう考えると、この状況も成るべくして成った気がしてくる。


「姐さんは、もう少し素直に生きるべきよ」

「…………」


 ルイーゼは返事出来ず、息を呑む。

 ユーグは若草色の瞳に、フッと優しげな表情を浮かべる。そして、ルイーゼの手を解放した。


「あの、ユーグ様……?」

「まあ、考えておくことね」


 数歩距離を置いてユーグが笑う。

 軽く手を振って颯爽と歩き去るオネェ貴公子の背中を見て、ルイーゼはその場に座り込んでしまった。


 押さえつけられていたせいだろうか。手が震えている。

 殺気にも憎悪にも臆すことはない。なにがあっても平常心でいる自信がある。

 それなのに、手の震えが止まらない理由が、わからなかった。




 † † † † † † †




 どうして、あの女なのかしら。


 勝負には、まだ負けていない。

 しかし、言い知れない敗北感と嫉妬心。そして、自分の情けなさをひしひしと感じ、ヴァネッサは俯いた。

 部屋を出るまでは平気だった。虚勢を張って、強がることが出来ていたと思う。けれども、自分の屋敷に帰るまで、涙は我慢出来そうにない。

 ヴァネッサはトボトボと歩いていたが、やがて、耐えられずに回廊の隅に座り込んでしまう。


 こんなに。こんなに、想っているのに、少しも届かない。なにも言わなければ、伝わらないことはわかっている。

 でも、どうして、あの女なの?

 嫉妬や憎悪のような黒い感情が胸の中で渦巻く。だが、同時に悲しくて辛くて仕方がない。胸元をギュッと握り締めるけれども、逆に心を絞っている気がしてくる。

 じわりと目元に浮かんでいた涙が、雫となってこぼれた。


「ポチ! ポーチー! ど、どこぉっ!?」


 そんな声が聞こえてくる。

 あれは、エミール王子だろうか。寝込んでいるはずなのに、こんなところでなにをしているのだろう。

 ポチ。その名前は、何度か聞いた。確か――考えている間に、ヴァネッサは自分の足元で白いものが蠢いていることに気がつく。


「きゃっ!」


 悲鳴を上げると、真っ白な蛇がヴァネッサの足元でチロチロと舌を出していた。

 ヴァネッサがルイーゼの馬車に仕込ませた蛇だ。まさか、手懐けてしまうとは思っていなかった。それに順応したエミール王子も侮れない。


「あ、ポチ!」


 ヴァネッサの悲鳴を聞きつけたのか、エミール王子が蛇を見つけて嬉しそうに笑う。

 蛇を追って部屋から抜け出してきたのだろう。宮廷医に見つかったら、大目玉かもしれない。


「あ……そ、その……ポチが、ごめんなさい」


 泣いているヴァネッサと蛇を見比べて、エミール王子が頭を下げる。蛇を怖がって泣いていると思われたのだろう。

 ヴァネッサはハンカチで涙を拭って、スッと立ち上がった。強がるのは慣れている。こんなところで、弱みは見せられない。


「あ、あの……」

「なにか?」


 ヴァネッサは、ついキツイ視線でエミール王子を睨んでしまった。エミール王子がたじろぎ、目尻に涙が溜まっていく。威圧してしまったようだ。

 最近まで引き籠っていたせいか、噂に違わず弱々しい。顔立ちが良くて可愛くも思えるが、とても十九歳の王子様には見えなかった。この国、大丈夫なのかしら。


「その……アントワープ夫人は、元気、ですか?」


 エミール王子の口から意外な一言を聞いて、ヴァネッサは目を見張った。

 アントワープ夫人、つまり、ヴァネッサの母は自ら志願してエミール王子の教育係に名乗り出たことがある。だが、一ヶ月持たずに辞退してしまった。


 アントワープ伯爵家は領地経営こそ上手くいっているが、王宮での地位があまり良くない。そこで、引き籠り姫の教育に成功すれば、臣下として重用されると考えたのだ。上手くいけば、王子の結婚相手にヴァネッサを推挙する算段もあった。

 しかし、所詮は荷が重かったのである。

 何人もの貴婦人の心を折った引き籠り姫を教育することなど、ヴァネッサの母には無理であった。


 けれども、ルイーゼという令嬢は、それを易とも簡単に成し遂げてしまった。

 それだけではなく、――。


「母は元気ですよ。領地でのんびり休養していますわ」

「そ、そっか……ごめん」


 エミール王子はもじもじと俯きながら、再び頭を下げた。

 本当に王子らしくない。そして、十人もの貴婦人の心を折ったワガママな引き籠り姫にも見えなかった。

 形だけではない。彼はヴァネッサの母のことを覚えていて、心から謝っているのだとわかる。


「いいのですわ。元々、無理だと思っていましたし。それに、私は殿下との結婚なんて望んでいませんでしたもの」

「それって、その……他の人と、結婚したかったの?」


 核心を突かれた気がして、ヴァネッサは目を見開いた。

 エミール王子は相変わらず視点が定まらず、おどおどしている。だが、ヴァネッサの心に踏み込まれた気がして、あまり良い心地はしなかった。

 でも、嘘はつけない。そんな雰囲気がある。


「そうですわ。もう、何年もお慕いしている方がおります」


 包み隠さず言って、エミール王子に視線を返す。彼はなにも言わなかったが、視線に応えるように、顔を上げてくれた。




 五年ほど前の話だろうか。ヴァネッサは初めて恋をした。

 領地から出てきたばかりのヴァネッサは、社交界デビューに向けてレッスンに明け暮れていた。

 フランセールでは、たいていの令嬢が十歳前後まで領地で過ごし、その後、王都に移って社交界デビューする。ヴァネッサの場合も、そうであった。


 その頃のヴァネッサは大人しくて人見知り。けれども、王都の暮らしに興味惹かれる好奇心旺盛な令嬢だった。

 それ故、屋敷の外が気になり、フラフラと抜け出して行ってしまったことがあった。

 子供らしい軽率な行為。すぐに道がわからなくなって、帰れなくなってしまった。


 迷子になったヴァネッサに目をつけたのは、近所を徘徊していた野良犬だった。夕暮れ時に独りで歩いていた少女を追い立てて、野良犬は獰猛に吠えた。

 犬に噛まれると、病気になることがあると母からキツく言われていた。ヴァネッサは必死で逃げたが、スカートの裾を食い破られて転倒してしまった。


「無様な雌豚ちゃん」


 転倒したヴァネッサの視界の中で、誰かが立っていた。夕陽を背に立っていたためか、影のように黒く見え、ヴァネッサは怯えてしまう。

 だが、その影のような人物は襲いかかる野良犬の鼻を軽く蹴りつける。野良犬は、それだけで怖じ気づき、クゥンと声をあげて逃げて行ってしまった。

 あんなに怖い野良犬だったのに、呆気ない。


「なんて顔してるのよ。だから、女って嫌いなのよね!」


 影の人物は肩を竦めた。

 夕陽が傾き、人物の顔が明らかになる。緩く波打つ赤毛を無造作に纏め、若草色の瞳に不機嫌を浮かべる人物。顔立ちは整っており、凛とした強さを持つ少年だった。

 ヴァネッサよりいくらか年上。十五か十六くらいだろうか。纏った制服と襟章から、近衛騎士見習いだとわかった。


「情けない顔。もっと、しっかり出来ないのかしら」


 少年はそう言いながら、立ち上がるヴァネッサに手を差し出す。

 言っていることと、やっていることが逆のような気がして、ヴァネッサは思わず笑ってしまう。

 立ち上がった瞬間、足に激痛が走る。捻ってしまったようだ。立ち上がることが出来ない。


「家はどこ?」


 戸惑うヴァネッサを余所に、少年はぶっきらぼうに呟いた。

 家の場所はわからない。素直に白状すると、少年は頷いてヴァネッサに背を向けて屈んだ。


「アントワープ伯爵のお屋敷なら、わかるわ。不本意だけど、背負ってあげる」


 戸惑うヴァネッサを睨んで、少年は悪態をつく。有無を言わさない様子だ。


「女に興味持つなって言われてるけど、絶対に見捨てるなって。耳にタコが出来るほど、父上に言われてるのよ。勘違いするんじゃないわよ、臆病な雌豚ちゃん」


 口が非常に悪い。その上、少し女っぽい。変な人。

 今まで、領地でのんびり過ごしていたヴァネッサには、少々刺激が強い言い回しだ。頭にも来た。だが、断ることも出来ず、大人しく少年に背負われることになった。

 道中、二人は無言だった。ただ、思ったよりしっかりとした少年の背に負われて、ヴァネッサは泣いてしまったことを覚えている。


 その後、大騒ぎになっていたアントワープ家の屋敷へと無事に帰りついた。あとで少年の父親が迎えに来たことで、ヴァネッサは彼の名を知ることになった。

 何故だか、父親の方から「大変口の悪い息子で、本当に申し訳なかった!」と男泣きしながら平謝りされたときは、どうしようかと思ったが、そんなことはどうでもいい。




「私、ユーグ様をお慕いしております。だから、この決闘には負けるわけには、いかないのです」


 昔のことを思い起こしながら、ヴァネッサはハッキリとした声で告げた。エミール王子はヴァネッサの話に聞き入っていたが、再び俯いてしまう。


「ヴァネッサは……ユーグが、好きなんだね」

「好きですわ。考えているだけで、胸が苦しくなることもあります」


 最近では猫を被ることを覚えたようだが、ヴァネッサは知っている。ユーグが女嫌いで、変わった性格をしていると。

 それ故に、近づくことすら憚れた。あのときのお礼を言おうにも、視界に入るだけで気分を害してしまう気がしたのだ。


 それなのに。

 ルイーゼは当然のようにユーグの隣にいる。しかも、いつの間にか婚約までしていたらしい。


 許せなかった。

 醜い嫉妬だとわかっている。勇気がなかったヴァネッサには、嫉妬する資格もない。けれども、なにもせず指をくわえて眺めることも出来なかった。

 辛い。考えているだけで、挫けそうになる。


「恋って、辛いんだね……」


 ヴァネッサの気持ちを読み取ったのか、エミール王子が胸の辺りを押さえた。彼にも恋の経験があるのだろうか。認めたくないが、相手はルイーゼかもしれないと邪推した。本当に罪作りな悪女。


「恋は、辛いです……でも、楽しいことも、たくさんあるのですわ」


 ユーグに選んでもらえなかったと考えるだけで辛い。

 でも、ユーグのことを考えて過ごすことは楽しい。一緒に過ごした時間は一瞬だが、姿を見ているだけでも満たされる。

 あのとき出会った口の悪い少年が、見るたびに背が伸び、逞しくなる姿を確認すると、とても心が華やいだ。

 報われない恋でも、いいと思える。


「僕には、まだわからないよ……でも、ヴァネッサの顔……とっても幸せそう、だね」


 サファイアの瞳に少しだけ笑みを見せ、エミール王子は顔を上げる。ヴァネッサも応えるように、満面の笑みを作った。

 

 

 

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