第35話

 

 

 

 そこは真っ暗闇。


 意識の底へと、深く深く堕ちていく感覚。黒という黒が周囲を塗りつぶし、「わたくし」の存在自体も呑み込まれそうな気がしました。


 思考の端で、これは夢なのだと思ったのです。


 真っ暗で、なにも見えない夢。暗闇の中へと、ただ堕ちていく夢なのだわ。

 この感覚は、どこかで体験した気がします。でも、どこだったかしら。

 ああ、そうね。「自分」が死ぬときはいつも、こんな感覚に蝕まれていくの。きっと、そうなのだと思います。

 実際は、覚えてなどいません。でも、そう思うのですわ。


 故に、「わたくし」はこの瞬間、死んだということになりますわね。そう、これは、「わたくし」が死んだ夢。


「何事だ……なに、が……? セシリア様……?」


 扉が開く音がします。誰かが、「この部屋」に入ってきたようです。

 あら? 「わたくし」は暗闇の中にいるはずですのに、ここが「部屋」だと認識しています。至極、不思議な感覚ですわ。


「これは、いったいどうなっておるッ! 答えよ!」


 動揺の声が、「わたくし」――「俺」に投げかけられる。

 むせ返るような、けれども、嗅ぎ慣れた血の香りが鼻腔をくすぐった。

 刃から滴り落ちる血が床に点の絵を描いている。左手に握りしめた「ソレ」が、重い荷物のように感じられた。

 無造作に掴んだ麦穂色の髪が血を吸って、形容しがたい色彩へと変じている。未だに流れる大量の鮮血が、つい先ほどまで、「ソレ」に生があったことを証明していた。


「クロードォォオオオオオッッ!」


 叫びながら、槍を構えたカゾーランが突進する。長い肢体を包む純白の制服が翻り、一気に距離が詰まった。

 まったく、血の気の多い奴。こいつは頭がよく回るくせに、感情の制御が下手すぎる。だから、未だに一度も「俺」に勝てんのだ。


 そんなことを、最期まで考えていた。


 槍の穂先が胸部に迫ってくる。随分と甘い一撃だ。避けてくれと謂わんばかりじゃないか。

 おいおい、「俺」が反撃したら、確実にお前の首を頂戴するところだぞ?


 ああ、だが、今はやめよう。

 一刻も早く繋がなければ、取り返しがつかなくなる。


 そして、「俺」は死んだ――「わたくし」は、この身を貫く刃を、受け入れたのですわ。

 そして、堕ちた――堕ちたのです。

 そして、最期に光を掴もうと手を伸ばす――波打つ蒼に向かって、手を伸ばしました。


 どうか、その子を――。




 † † † † † † †




 それは、夢だった。


 とっさにベッドから飛び起きる。


「はあ……は、あ……ッ」


 ルイーゼは白い肌に珠のような汗を浮かべ、頭を抱えた。

 今しがた見た夢が、現実のものではないことを確認するために、周囲を見回す。

 大きな天蓋付きのベッドに、上質な花柄の絨毯、落ち着いたペイズリーグリーンの壁紙。

 間違いなく、ルイーゼの自室だった。


「ゆ、め……?」


 呼吸が乱れ、動悸が止まらなかった。

 自分の身体に刃が吸い込まれていく瞬間のことを思い出し、ルイーゼは寒気を覚える。


 あれは間違いなく、前世の記憶だ。

 ルイーゼから抜け落ちていた死に際の記憶。クロード・オーバンであった自分が死ぬ瞬間の記憶だった。状況も、カゾーランが語っていた場面と酷似している。


 どうして、そんな夢を? いや、そもそも……。


 ルイーゼは吐き気を覚えて口を押さえる。あまりに生々しい記憶に、思考が追いつかない。こんなことは初めてだった。

 前世の記憶は、遠い思い出のようなもの。いや、演劇を見ているような、他人事だ。

 でも、あれは……先ほどの夢は違う。

 まるで、自分自身のことのように、リアルな感覚だった。演劇を見ていたつもりが、いつの間にか、自分が役者として舞台にあがっていた。そのような気分。

 本気で死の底へと沈んでいく寒さが身体を蝕んでおり、今でも夢であることが信じられない。


 こんなにはっきりとした記憶は、初めてだ。この場で体験したかのような生々しさだった。吐気がする。自分ではない誰かに、身体が乗っ取られた気分だ。

 いや、逆か。

 自分ではない人物に、ルイーゼの思考が重なっていた気もした。頭の中が溶け合って、どこからが自分なのか、わからない。深い水底へと沈まないように必死に足掻くが、どんどん引き摺られていく。

 わけがわからない。


 喉が乾いた。

 水を、飲まないと。


 ルイーゼはベッドの脇に置かれているはずの、水差しを探した。


「…………!」


 が、すぐに異常に気がつく。


「……お父様。ここで、なにを?」


 ベッドの上、ルイーゼのすぐ隣で、寝息を立てる人物。父シャリエ公爵ギヨームの姿を見て、ルイーゼは唇の端を痙攣させた。


「むにゃむにゃ……むう。ルイーゼ、可愛いのう可愛いのう。わしのルイーゼちゃ~ん」


 寝言を言いながら、枕に頬ずりする姿はまさに変質者だ。娘の部屋に不法侵入して、添い寝をしている男は、問答無用で変質者で構わないだろう。例え父であっても!


「お父様……また勝手に入りましたわね!?」


 ルイーゼは枕元に置いてあった鞭を取り、力一杯シャリエ公爵を殴りつけた。早朝からベシィンッと大きな音が響くと同時に、シャリエ公爵が跳ね起きる。


「んぅ? ……むにゃむにゃ……お? ……おお、ルイーゼ。今日も随分と激しい朝の挨拶だな!」

「親馬鹿もたいがいにしてくださいましっ!」

「はっはっはっ。良いではないか。今日も朝から愛娘が元気で、嬉しいぞ!」


 鞭で数度叩いても、シャリエ公爵は平気な顔で笑っている。それどころか、ルイーゼのシバきラッシュを全て受けながら、抱き締めようと迫ってきた。

 ルイーゼは反射的に公爵の手をかわし、そのまま柔道のような寝技をかけた。剣道だけでは心許なかったので、三番目の前世で少々柔道教室へ通っていた時期があるのだ。


「娘の寝技、良いではないかッ! 可愛いのう可愛いのう!」


 公爵は嬉しそうにしながら、娘の寝技を甘んじて受け続けている。

 以前から思っていたが、彼の親馬鹿は常軌を逸している気がする。主に、痛めつけられることに特化してタフだ。

 因みに、若い頃は近衛騎士の隊長を務めたほど剣の腕が立つらしい。信じられない話なので、ルイーゼは五十回も母に聞き返してしまったほどだ。適当なことを言われている可能性も考慮して、使用人たちにも聞いて回った。

 とはいえ、今では見る影もない変質者なので、月日の流れと環境の変化は本当に恐ろしいと実感する。


「お嬢さま、どうかしま――ハッ! 旦那さま、お嬢さま!? 何事ですか!」


 モーニングティーの頃合いだったのか、ジャンがカートを押して入室してきた。だが、彼はベッドの上で父親に寝技をかけるルイーゼの姿を見て、瞳を輝かせる。


「お嬢さま、よろしゅうございます! 羨ましゅうございますよ、是非、このジャンにも!」

「ああああ、もう! やかましいですわ! 朝から、なんなのですか!」


 ルイーゼは悲鳴にも似た声をあげながら、公爵の首をグッと締め上げる。それでも、このドM……いや、打たれ強い馬鹿親は怯む様子がない。これは死ぬまで諦めないだろう。


「お嬢さま、ジャンにも!」

「良いではないかッ! これも娘の愛よな!」

「朝くらい平和に過ごさせてくださいッ!」


 その頃には、ルイーゼは先ほど見ていた夢の内容など、コロッと忘れてしまっていたのだった。

 

 

 

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