或る国王の花嫁
それは政略結婚だった。
愛も情もなく、ただ利害だけで結びつく婚姻である。
淡々と、粛々と執り行われた、世継ぎを残すための儀式。結婚式で隣に並んでいた花嫁がどんな顔だったかも、あまり覚えていない。
ただ、この花嫁との子を成すのが、国王としてのアンリに与えられた新しい義務なのだと理解するだけ。
一年前、十七歳で突然転がり込んできた王位は、義務のひとつでしかなかった。
王位継承者に生まれたことで発生した義務。帝王学、教養、作法、思想、すべてが上から与えられ、こなすように強いられた義務であった。
そこに、国王という義務が加わっただけ。
継承戦争という問題が起こり、それを解決する義務。内政によって民衆を従わせる義務。玉座で臣下の統制をはかる義務。ありとあらゆる義務が付随したが、あまり関係なかった。
ただこなすだけ。
それしか求められていない。
「お待ちしておりましたわ、陛下」
寝室で待っていた花嫁は、慣例通りに白い寝衣に身を包み、顔をレースのベールで覆っていた。
「顔を」
アンリはベールをとるよう、うながす。
ロレリアから来た花嫁は指示通りにベールをとり、顔をあげた。
柔らかな麦穂色の髪が肩からこぼれる。
伏せられていた瞳の色彩はサファイアのようにも見えた。顔立ちは十六の娘らしく、ややあどけない。しかし、表情や立ち振る舞いから高貴さと、したたかさが読みとれる。
賢い娘なのだろうと直感した。
だから、アンリは彼女の言葉に落胆した。
「陛下、まずは少しお話しいたしませんか?」
婚儀を交わした者たちにとって、初夜は最初の義務だ。それを先延ばしにするような言い回しに、アンリは内心苛立った。
どこぞの勘違い甚だしい田舎娘を娶ってしまったらしい。
「必要ない」
「必要ないのですか?」
花嫁はキョトンと目を丸め、首を傾げた。最初は聡そうな女だと思っていたが、そうでもないようだ。
「そなたの義務がなんなのか、理解していれば必要ないはずだが」
「理解しておりますとも。陛下の子を産むことでしょう。王位を継げる王子であれば、尚よしと考えておりますわ。できれば、何人かいたほうが喜ばれるかもしれませんね。この世界には疫病なども数多く存在しますから」
「だったら」
「だからこそ、にございますわ」
花嫁はそれまでの純粋な笑みを消し、代わりにしたたかな微笑を描いていた。まるで、人の心を見透かしてくる不思議な視線だ。
アンリは思わず怯み、言い返せなくなる。
「前時代的とは感じますが、政略結婚ですもの。わたくしたちに愛がなくとも、それはそれでよろしいと思いますわ。そういうものですから。相性もございます。実際、わたくし、いまのところ陛下のことは、そんなに好きではありません。むしろ、少々毛嫌いしております」
「……は?」
この女、なにを言い出すのだ。
いきなり、夫を嫌いだと宣言する花嫁がどこにいるのだろう。ましてや、自分は国王なのだ。ここまで言われる謂われはない。
それでも、花嫁は饒舌だった。
「王妃になったからには、やはり、役割は果たすべきです。好き嫌いは言えません。夫婦は仲睦まじく見えたほうが国民も安心しますよね。努力しますが、最終的に好きになれなければ、演技力が必要になります。わたくし、演劇は見る専門ですから、あまり自信がありません……あと、子が生まれた場合、家庭が荒んでいると健やかに育たないかもしれませんわ。どうせなら、優しく国民を想いやれる、賢い王子のほうが陛下も嬉しいでしょう?」
捲し立てられて、アンリは一歩ずつうしろへ下がった。
花嫁は逆に距離を詰めてくる。
「義務を義務としか思わず、ただ果たせばいいと考える王は、愚王にございましょう?」
なにを、言っているのだ。
アンリには、わからなかった。
いや、その言葉を思考の外へ追いやろうとしていた。
「義務を与えられている、と考えている者が、人の上には立てませんもの。それでは、ただの人形ではございませんか? この国を操るのは、いったい、どなたになるのでしょう?」
「誰に向かって……」
「あら、将来生まれてくる王子のお話ですわ。誰も陛下のお話など、しておりませんよ?」
人の心を見透かすみたいに、花嫁は笑った。
それが嘲笑っているように見えて、アンリは恐ろしく感じる。
「なにが――」
今日、会ったばかりの女。
昼間に式を挙げ、そこで出会って、いま、ここで初めて言葉を交わしただけの女。
それなのに、どうして、彼女はこんなにもアンリに踏み込んでくるのだろう。
アンリには、この花嫁の心がなにひとつ読みとれないと言うのに。
「私のなにがわかる」
そう言い捨てて、アンリは部屋をあとにするしかなかった。
与えられた義務を放棄したのは、これが初めてだった。
「あら、陛下。おはようございます。よく眠られましたか?」
朝食の席には、すでに花嫁がついていた。
彼女は、何事もなかったかのように平然と振る舞い、アンリが現れるのを待っていたのだ。
「陛下、昨日は別々でお休みになったのですか?」
少々心配した様子で、侍従長が声をかけた。
アンリはどう言い訳しようかと、途方に暮れる。
まさか、花嫁が気に入らなかったので、逃げたとは言えない。しかし、アンリが初夜を放棄して部屋を出たのは、誰もが知るところであった。
「申し訳ありません。わたくしの身体が整っていなかったのですわ。お察しくださいませ」
花嫁は申し訳なさそうに腹部をさすり、侍従長に軽い目配せをした。
侍従長は「あ、あー……そうでございますか。それならば、仕方ありますまい」と、言葉を濁して納得していた。
息をするように嘘をついた花嫁を、アンリは睨んだ。
だが、彼女は涼しい顔のままである。
「代わりに、しばらくは毎晩、一緒にお話してくださると、陛下にお約束していただきましたの。王都はロレリアとは随分違いますので、わたくし、不安で……」
そんな約束など、交わしていない。
勝手に話を進める花嫁の言葉を否定しようとしたが、侍従長が「そうでございますか。ようございますな!」と感心しているので、黙るほかなかった。
その晩も、アンリは花嫁の寝所に「お話」に行かなければならなかった。
できれば顔も見たくなかったが、アンリの失態を誤魔化してもらった手前、行かないわけにもいかず。
「こんばんは、陛下。どうぞ、おかけになってくださいな」
花嫁は今朝と変わらぬ笑みでアンリを迎えた。
あいかわらず、人の心を見透かすような、それでいて、自分の心は読ませない、得体の知れない不気味さだった。
「なにを話せばいい」
「では、陛下のお好きなものを教えてくださいませ」
「特にない」
「食べものは?」
「特にない」
「好き嫌いがないのは、結構ですこと。では、花は?」
「特にない」
「あら。そうですか……でも、このやりとりは不毛ですね。埒があきませんので、わたくしの好きなものを話すことにいたしましょう。ロレリアの話でいいですか? わたくし、他の土地に出たことがなくて。まあ、あそこもフランセール領ですもの。陛下も、お知りになったほうがいいですよね」
宣言通り、花嫁は好きなように語りはじめた。
主には、出身であるロレリア侯爵領の話だった。一人でしゃべらせていると、本当によく口の回る女だと、逆に感心する。悪い意味で。
「そんなにロレリアが好きなら、同郷の者と話せばよかろう。オーバンやサングリアはロレリア出身だったはずだが」
「クロードもセザールも、大変親しくさせていただいておりますよ」
一瞬、誰のことかと思った。遅れて、クロード・オーバンとセザール・アンセルムド・ド・サングリアという名前を思い出す。
「……臣下を名で呼ぶのか?」
「わたくしの名も、愛称で呼ばせております。そのほうが親しくなれるでしょう?」
アンリにはない価値観だった。
「セシリアを縮めて、セシルです。城の者も、みんな呼んでくださいました」
ああ、そういえば、彼女はそんな名前だったか。
ロレリアから来た花嫁としか認識していなかった。
アンリは自分が彼女の名前を忘れかけていたことに、いま気づいた。
「陛下はいろいろ無頓着ですわね」
「は?」
「だって、わたくしの名前、いま思い出したのでしょう?」
まただ。
また、アンリの思考を言い当ててしまった。
口を開けて黙っていると、セシリアはしたたかで魅惑的なサファイアの瞳を近づけてきた。
口づけでもしそうな距離まで顔を寄せて、彼女はニッコリと笑う。アンリは動きを忘れた。
「仕返しですわ」
言いながら、セシリアは近づけた額をアンリの額に打ちつけてきた。
唐突に頭突きをくらい、アンリは顔を仰け反らせて床へ倒れてしまう。
剣術は基礎教育として学んでいるが、運動は得意ではない。女からの一撃とはいえ、それなりの激痛が走った。
「うう、痛いのですわね。初めてやってみましたわ」
本人も痛かったのだろう。セシリアは額を押さえていた。
「わけがわからぬ……痛いではないか!」
「痛くしましたもの。これでも、陛下の仕打ちに傷ついておりますので」
「そなたのすることは、本当にわけがわからぬ。意味のないことばかりだ」
「あら、意味はありますのよ?」
セシリアは、再びアンリに顔を近づける。
もう一度頭突きが来るのではないかと身構えたが、彼女はその場で静止したままだった。
「無関心は人を傷つけますのよ」
無関心? 私が?
反論しようとしても、声が出なかった。
「陛下は自覚しておりません。あなたは、わたくしにも無関心。国にも無関心。そこに暮らす民にも無関心ではありませんか。ただ、与えられた義務を果たすだけ。いつか、その無関心は災いを呼びますわ」
セシリアの言葉に、アンリはひとつも反論できない。
「痛みを知らず、考えることを放棄していては、いつか身を滅ぼしますわよ」
セシリアは床に座り込んだアンリの前で膝を折る。彼女はアンリのブルネットの髪を指先で分けると、頭突きで赤くなった額に触れた。
ジンと痛む感覚が、少し和らぐ。
なぜだか頭が冴えている気がして、妙な気分だ。
「……どうすればいいと言うのだ。私にどうしろと?」
疑問が声になってこぼれた。
セシリアは、アンリの額を撫でるばかりだ。
これだけ言ったのだ。答えをくれてもいいのではないか。
アンリは批難のまなざしを向ける。
「いますぐ、どうこうするものではありませんわ。まずは、お知りくださいませ。関心を向けてくださいませ。そうすれば、見える答えもございましょう」
セシリアはアンリに答えを与えてはくれなかった。
いや、きっと、それは彼女にもまだ見えていない答えだったのかもしれない。「一緒に探そう」と言われている気がして、アンリは目を伏せる。
「そなたから見て、私は愚王か?」
「そうなるかもしれませんし、そうはならないかもしれませんわね。まだ経験が足りません」
「…………」
「わたくしにできるのは、支えることだけですわ」
与えられた義務を果たしていれば、誰からも文句を言われない。
だが、アンリが自ら考え、なにかを成したことが、あったか。
会話ひとつでもそうだ。好きなものを問われ、「特にない」と答えたのは、煩わしかっただけではない。なにも浮かばなかったからだ。
アンリには、自分というものが欠落しているのだと、いまごろになって気づいた。
自己が欠落している人間に、他者への興味がわくはずがない。
「――殴ってくれて、構わないぞ」
気がつけば、そんなことを言っていた。
アンリはようやく視線をあげ、セシリアを見る。セシリアはキョトンと首を傾げ、目を瞬きさせていた。魔性にも似たしたたかさを見せるかと思えば、こんな純粋な表情もするのか。
「私がなにか、そなたの気分を害したときは……その、殴ってくれ」
「はあ……よろしいのでしょうか?」
「いい……私には、まだ他人の気持ちや痛みとやらに、自分で気がつけそうにない……」
セシリアは戸惑った様子で、手を引っ込めてしまった。
額に触れる手の温もりが消え、アンリは寂しさのようなものを覚える。
「では……遠慮なく」
再び、セシリアが腕を持ちあげる。
「がっ……!」
顔面に強烈な衝撃が走る。
信じられない勢いで頬を打たれ、アンリは混乱する。
「これは、式のときに一度もわたくしの顔を見なかった分ですわ」
続いて、左からも、すさまじい平手打ちが炸裂する。
「昨晩の分にございます。あと……」
「ま、まだあるのか!?」
「朝食の際に、わたくしに嘘をつかせた分がございますが? 機転を利かせて、陛下が誤魔化してくだされば、殿方相手にあのような恥ずかしい言い訳をしなくて済みましたのに……どうしますか? 発言を撤回いたしますか?」
「そ、そうだったな……よ、よし。よいぞ。どこからでも来……ぐあっ!」
平手打ちを覚悟していたところに、鳩尾への一撃。
婦人にしては力強い拳を受け、アンリはうずくまる。おまけに、しゃべっている途中だったので、舌まで噛んだ。
「大丈夫ですか?」
さすがにやりすぎた自覚があったのか、セシリアは心配そうにアンリの背中をさすった。
「大事ない。大事ないぞ……まだ足りぬぐらいだ」
「そんなご無理をなさらなくても。これからは、そっと教えて差しあげますので、こういうのは、やめませんか?」
「いや、よい」
アンリはセシリアの手をつかみ、自分のほうに引き寄せる。
セシリアの身体は呆気なくアンリに捕まり、腕の中におさまってしまった。女らしい細くて柔らかい身体が腕の中で、かすかに震えている。
「まずは、早く知りたいのだ。そなたのことを、早く理解したい」
いまのアンリは、なにもかもが欠落している。なにをどうすればいいのか、わからない。
だから、目の前にいる花嫁を理解するところから、はじめよう。
魅惑的で、したたかで、それでいて純真な、さまざまな色を見せる彼女を、理解してみたいと思ったのだ。
いままで生きてきて、初めて、自分から興味を持った人間を。
「では、お話ししましょう。わたくしも、早く陛下を知りたいですわ」
「なにを話せばいい?」
「それは、陛下が考えるのです。レディにエスコートさせる男は三流ですわ」
「……辛辣ではないか?」
「教育です」
肩を抱こうとした手をつかまれ、あらぬ方向へ捻られてしまう。また傷つける言葉を言ってしまったらしい。
アンリは涙目になりながらも、軽く笑ってみた。
この痛みさえ、彼女を理解するためには愛おしく思えてくる。
「まずは、お名前で呼んでもよろしいですか? わたくしのことも、セシリアとお呼びください」
「わかった、セシリア」
「ふふ、アンリ様が笑うところ、初めて見ましたわよ」
セシリアは優しく笑いながら、アンリの顔に触れた。
殴られて痛む頬に、人の体温が灯る。
「生まれてくる子も、こんな顔なのかしら? いまから楽しみです」
無関心は楽なのだ。
痛みを知らず、関心を持たず、なにも見ようとせず……ただ与えられた義務を果たす人生は、きっと楽だろう。
心には痛みが伴う。
裏切られることもあるだろう。
苦悩することもあるだろう。
そのたびに、身を抉るような痛みが苛むはずだ。
けれども、セシリアが――このあたたかい手を持った花嫁が癒やしてくれるのなら、耐えられる気がする。
この気持ちを知ってしまったアンリは、もう彼女を手放せないと思った。
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