余話
或る騎士の追想
やっていることは、前世となにも変わらない。
時折、そのような感情に駆られることがある。
「そんなところで、なにをしているのですか?」
背後からの声に、少年はゆっくりとふり返る。
だが、自らの身体がひどく穢れているのに気づいてしまった。
「……わかりました」
少女は一言。
そう言って、すべてを悟ったようだった。
なにも言わなかった少女に、少年は申し訳なさを感じる。
闇に溶けそうな漆黒の髪を、夜風が撫でる。夜であっても、はっきりとわかる黒曜石の眼光は鋭く、氷の刃と形容するに相応しかった。
手に持つのは視線などよりもさらに研ぎ澄まされた片刃の剣である。
このフランセール周辺の国では見ない独特な形の剣を、彼は『刀』と呼んでいた。
「俺は番犬ですから」
自嘲気味に笑い、少年は刀に付着した緋を払った。
左手に提げていた、人間の首を無造作に地へ放る。
「あがってください、湯をわかしましょう」
「井戸の水で結構です」
「風邪を引きますよ」
ああ、もう放っておいてほしいのに。
少年は煩わしく思いながら、刀を鞘におさめる。
自分は騎士階級に生まれたが、爵位もない。このロレリア侯爵の城で、護衛のような役回りを任されている、一介のゴロツキ。そんな身分だ。
齢十三という歳のせいか、見世物のように披露される機会はあるが、それだけである。
所詮は騎士という地位を与えられた人殺し。
いまだって城への侵入者の首を、警護という名目で落としたばかりだ。
由緒ある侯爵令嬢が気にかけるべき相手ではない。
「クロード、待ってください」
名を呼ばれるが、少年は立ち止まらない。
だが、不意に軽やかな足音が聞こえ、手を触れられる。
少年――クロード・オーバンは、とっさに少女の手を払いのけた。
「……貴族の令嬢が触れないほうがいいですよ」
自分に触れると、少女の手も汚れる。クロードはどうしたものかと、困惑してしまう。
しかし、少女はまるで悪戯を働いたかのように軽く笑って、舌先を見せた。
「おそろいです。一緒に手を洗いましょう。水でいいのですね?」
少女は、もう一度クロードの手を引く。
無邪気、無垢、天真爛漫。
そんな性格の少女ではないと、わかっている。
むしろ、彼女は強い。強く、気高く、そして誇りを持っている。自分とは、遠い存在。それなのに、無邪気さを装って笑っている。
「わかりました。湯を貸していただきます」
クロードは観念して息をつく。
この少女は、「こうすれば、クロードが言うことを聞く」というのがわかっていているのだ。手玉にとられている気がして面白くない。
「ふふ、またわたくしが勝ちましたね。クロード」
「……毎回、勝負しているわけではありません。あと、臣下を名で呼ばないほうがいい」
「では、わたくしのことは、セシルと呼んでください」
「人の話を聞いていますか?」
「あら、都合の悪い話は聞こえない女なのですよ、わたくし」
くるくると表情が変わるサファイアの瞳で、少女――セシリア・テレーズ・ド・ロレリア侯爵令嬢は笑った。
美しいが、したたかで、棘の存在を匂わせる薔薇だ。
闇の中で麦穂色の髪がはらりと肩へ落ち、十三とは思えない色香を感じる。
「なぜ、俺を気にかけるんです?」
湯の張られた桶で手を洗いながら、クロードは問う。初めて声をかけられたときから、不可解だったのだ。
セシリアはポカンとした様子で、首を傾げた。
「あら、気づいていないの?」
「なんのことです?」
セシリアは、数秒考えて、改めて口を開く。
「……特に理由はありませんわ。同い年なのに、すごい子がいらっしゃると思うと、声をかけずにいられなくなりました」
なにか含みがありそうだ。
けれども、クロードは追求せずにおいた。どうせ、聞いても意味がない。
「ねえ、クロード。あなたは、きっと強い騎士になるわ。このような小さな領地ではなく、フランセールや大陸に名前を残すと思うの」
「そんな、大袈裟ですよ」
クロードは軽く笑う。
彼には、過去六回分の前世の記憶がある。
そろいもそろって悪人で、いつも刺されて死んでいた。きっと、今世でもそうなる。
しかし、セシリアはそんなクロードの想いも知らず、話を続ける。
「大袈裟ではなくてよ。きっと、クロードは、もっと強くなる。そして、多くの命を救ってくれます。そう思いますわ」
救う? 俺が? なんの話だ。
クロードは怪訝に思って眉間にしわを寄せる。
「あら、違うのかしら。いつも、わたくしたちを守ってくれていますもの」
ああ、なんだ。
そんなもの、仕事だからに決まっている。自分はロレリア侯爵家に雇われた騎士で、相応の報酬をもらっているのだ。
当たり前だから。
そのうち、機を見て財貨を奪うか、権力を手に入れるための足がかりにでもしてやろう。野心を抱くようになるのも時間の問題かもしれない。この令嬢だって、自分の手で殺すことになるかもしれない。
自分は性根の腐った悪党の魂を持っているのだ。
他者を蹴落とし、自らが利を得ることにしか興味がないのだと思う。これまでの前世がそうであったように、自分もそうであるに違いない。
いまはそう思っていなくても、いつか。
そして、また刺されて死ぬだろう。
もしかすると、自分に刃を立てるのは目の前で笑うこの少女かもしれない。
「だからね、クロード。あなたは、きっと孤独ではなくてよ」
湯で血を落とした手を握りながら、セシリアが笑う。
いままでに見たことがない切なさと、儚さをまとっていた。
どうせ、俺は悪党だから。
また刺されて独りで死んでいく。
今回も、八回目も、その先も、ずっと――。
それなのに、
「……セシル……」
いつの間にか、クロードはその名をつぶやきながら、手を握り返していた。
自分がどのような表情をしていたかは、あまり覚えていない。
ただ、そのときから、セシリアを「セシル」と呼ぶようになっていた。
十五になった時分、王宮へ召喚された。
フランセール国王シャルル二世が崩御し、まだ歳若いアンリ三世が即位することとなる。
たった十七歳の国王誕生に国内外ともに揺れた。そして、この機にフランセールの土地をかすめ取ろうと、諸外国が次々と宣戦布告した。国内貴族の中にも、反旗を翻して独立を宣言する者まで現れる。
四正面作戦を強いられたフランセールでは、明らかに人員が不足していた。クロードはロレリア侯爵から兵を与えられ、新国王軍への加勢を命じられたのだ。
わずか十五歳での異例の指揮だった。
結果、見事にクロードは勝利した。
二千の軍で一万五千の侵略軍を蹴散らした天才的な騎士を、王宮の幹部たちが見逃しはしなかった。
すぐに王宮へと召喚され、史上最年少での近衛騎士叙任が決まる。
「お久しぶりです、クロード!」
久々にロレリアへ帰還したクロードを、セシリアが迎えた。
セシリアは無垢な笑みを浮かべて、クロードの胸に飛び込む。その無防備な振る舞いにクロードは面食らったが、しっかりと、細くて軽いセシリアを抱きとめた。
「はしたないですよ……」
「いいではありませんか。きっと受けとめてくれると、わかっていましたから」
信頼されているようだ。
セシリアはクロードを見あげた。
だが、クロードは胸の内に燻ぶるものを感じる。
それは、きっと、セシリアが寄せる彼への信頼を裏切るもの。
しかし、それは、きっと、いまのクロードを今世に繋ぎとめているもの。
自分がたまらないほどセシリアを求めているのを、気づいているだろうか?
このまま連れ去ってしまいたいと思っているのを、気づいているのだろうか?
彼女のことをセシルと呼ぶようになったあの日から、いままで、ずっとだ。
どうせ、今世もすぐに終わる。
人の恨みを買って、刺されて死ぬのだろう。
そうあきらめて、いつ手放してもいいと思っていた人生に、しがみつく理由だ。
城までの道のり、クロードはセシリアを愛馬に乗せた。少しの距離だが、貴族の令嬢を歩いて帰らせるものではない。
「ふふ、ドロテもいい子ね」
馬を撫でながら、セシリアは嬉しそうにしていた。
セシリアは勝手に、クロードの馬に名前をつけている。この馬は、ロレリア侯爵がクロードに兵を任せるときに買い与えた馬でもあった。
馬は首に抱きつくセシリアの髪を、ムシャムシャと食べている。こいつには、撫でる人間の髪を食べる悪癖があるのだ。気をつけなければ。
「セシル」
「どうしました、クロード?」
クロードは馬の手綱を引いて歩きながら、セシリアを見あげた。
「あなたの十六の誕生日に、伝えたいことがあります」
それが許されるのかどうかは、わからない。
まだ内々の話だが、クロードは地位を手に入れる。
ここ数十年、騎士の最高位である王族守護騎士【双剣】が、老騎士の名誉的役職と化していた。
だが、戦のない時代と状況は変わっている。
戦を勝ち抜くために、王宮では【双剣】の地位に若い者を据えようと考えていた。
【黒竜の剣】には、クロード・オーバン。【天馬の剣】には、エリック・ド・カゾーランという二名が推薦されていた。もう一人、名前が挙がった男がいたが、あれは大変な偏屈だ。自ら辞したらしい。
国王の左右に並び立つ栄誉が与えられる。守護騎士に選ばれたら――目の前の令嬢を自分のものにしても、許されるのではないか。
そんな甘い夢。
「十六歳? いまでは、ダメなのかしら?」
「いまでは、まだ早いのです」
「そうですか? では、のんびりと待つことにいたしますわ」
セシリアは馬上で足をブラブラとふり、無邪気を装う。
これは、計算されている表情だと、感覚的にわかった。セシリアは計算された淑女の顔と、無邪気な少女の顔を巧みに使い分けるのだ。
世間知らずの令嬢も、気品のある貴婦人も、どちらも演じることができる。その二面性こそがセシリアのアイデンティティだと、クロードは知っていた。
相手によって、その場面によって、一番効果的な自分を見つけている。
しかし、どちらのセシリアも嘘ではない。彼女は正直な人間でもあった。
「てっきり、いま、結婚を申し込まれるのだと思っていましたわ」
セシリアの一言に、クロードは息が止まった。
戦場で頭のすぐ横を矢がかすめるときに近い、ゾクリとする感覚。鼓動が耳まで届くほど、焦っている。
「嘘にございますわ。からかって、ごめんなさい」
セシリアはそう言って笑うと、馬の首を軽く撫でる。
馬が止まったのを確認すると、セシリアはクロードに手を伸ばした。いつの間にか、ロレリア城の前だ。手をとって、降ろしてやらねば。
セシリアは地上に降り立つ天使のごとく、軽やかに馬から飛び降りた。
「ありがとうございます、クロード。来年を楽しみにしておりますわ」
クロードの手を離しながら、セシリアは純粋な笑みを浮かべた。
一年後の春。
セシリアの誕生日、クロードはロレリアへは帰ることができなかった。
異国の侵攻が激化し、防衛しなければならなかったのだ。すでに【黒竜の剣】を拝命したクロードに、出陣を拒否できない。
それでも、期待があった。
セシリアが自分を待ってくれると、確信にも似た期待があったのだ。
しかし、セシリアはクロードのものにはならなかった。
政略結婚だった。
ロレリア侯爵領はフランセール王国に属すが、もともとは隣国グリューネ王国の領土である。
グリューネ側からロレリアの割譲を条件に休戦すると提案されていたが、フランセールはこれを拒否。そして、ロレリアと王族との結びつきを強めるために、婚姻が結ばれた。
セシリアは王妃となったのだ。
王妃になっても、セシリアはセシリアのままだった。
気品にあふれ、したたかで、それでいて、無邪気な一面もある。クロードが欲していた彼女のままだった。だが、そこに並び立つのは自分ではない。
政略結婚ではあったが、セシリアが不幸には見えなかった。
国王夫妻は当初、ぎこちなかったが、次第に仲睦まじく過ごすようになる。国王は妻を溺愛していたし、王妃は夫を献身的に支えた。
その姿を見ていると、クロードの感情も薄れていったのだ。
最初から手に入らなかった、高嶺の花だとあきらめればいい。むしろ、かつて好きだった女性を守る任に就いているのだから、贅沢なことかもしれない。
そう思うようになった。
月日は流れる。
今宵は、王妃の懐妊を祝う宴が開かれていた。
結婚から三年目のことだ。
戦中のため、王宮では節制が命じられていた。けれども、この日ばかりは華やかに彩られ、煌びやかな紳士淑女がダンスや談笑に興じている。
会場から離れ、バルコニーでクロードは一息ついた。
社交界は苦手だ。
職務上、仕方なく出席しているが、あいさつ回りは性にあわない。会場の警備に就きたかったのに、慣例だのなんだのと、肩の凝る派手な服まで着せられた。
「ここにいましたの?」
意識の外から声をかけられて、クロードは崩していた姿勢を正す。
面倒くさい。
「あ……」
しかし、声をかけてきた人物を見て目を瞬く。
本日の主役であるはずのセシリアがそこにいた。
「どうしました。主役が抜けては、皆が探しますよ」
「少し疲れました。夜風に当たりたくなっていたら、クロードを見つけたのですよ」
妊婦って、大変なのよ。
そう笑いながら、セシリアはクロードの隣に立つ。
麦穂色の髪が、光を集めて夜でも優しい色あいだった。サファイアの瞳は、あいかわらずしたたかだが、無邪気で、心をなかなか読ませてはくれない。
だから、このあとの言葉を読むことは、できなかった。
「わたくしね、てっきり、あなたと結婚するのだと思っていたのよ」
そんな爆弾を落として、セシリアは無邪気に笑った。
セシリアはいつだって、予測できない。慣れている。
なのに、言われた瞬間、心臓が止まるかと思った。
「王妃様が、そのようなことを易々と口にすべきではないかと」
平常心を装いながら、クロードは逃げるように視線を移した。
「あなたが誰にも言わなければ、きっと、独り言になりますわ」
「誰かに聞かせる言葉を、独り言とは呼びますまい」
「だって、アンリ様には言えない内容ですもの。昔の話などすると、すねてしまいますわ」
昔の話、か。
まるで、傷口に指を入れ、穴を広げられていく気分だった。
忘れかけていた痛みが、身を裂くように蘇る。
セシリアはずっと変わっていない。いまだって、クロードが激高して首を絞めるだとか、人には言えぬ方法で辱められるだとか、そんなことは考えていないのだろう。
そして、そんなことを考えつくが、実行しようとは露ほども思えない自身のことは棚にあげる。性根の腐った悪党の魂を持って転生したのに、不甲斐ない話だ。
「ねえ、おねがいをしても、いいかしら?」
「お断りします。王妃様のおねがいは、たいてい下心がございますから」
「まあ、ひどい。冷たいのですね。少しは、わたくしのワガママも聞いてくださらない?」
ロクなことではないだろう。いつもそうだ。
セシリアはその強さと、無邪気さでクロードを惑わせる。
まるで、麻薬のようだ。
忘れかけていても、触れるとすぐに欲しくなってしまう。
「もしも、この子が男の子だったら、是非、あなたに教育係をおねがいしたいのですよ、クロード」
セシリアは、まだ膨らんでいない腹を撫でながら笑った。
クロードが見たことのない顔だった。貴婦人のような気品や強さではなく、少女のような無垢な愛らしさでもない。
無償の愛しさにあふれた母親の顔だった。
「……俺ですか? 慣例では、ご婦人のはずでしょうに」
クロードは言葉を濁すので精いっぱいだった。視線を逸らしたかったが、自分の知らないセシリアから、逃られない。
人魚の歌に魅入られた船乗りのように、危ないと知りながら、先へ進んでしまわずには、いられなかった。
「よいのです。礼儀作法は、わたくしでも教えることができます。それよりも、この子には強くなってほしいのです。誰よりも強く、賢く……この子が守りたいと思ったものを守れる強さを、教えてほしいの」
セシリアはそう言って、クロードの右手をつかむ。
しかし、クロードは反射的にセシリアの手を払ってしまう。
「俺は首狩り騎士ですよ。王妃様が触れる価値などない、穢れた人殺しの手だ」
敵軍の首を刈り取って嗤う首狩り騎士。
いつしか、そんな名がつけられていた。
真面目に今世を過ごしているつもりだが、やはり、性根は悪党と変わらない。
セシリアの結婚が決まったときも、そうだ。腹いせに最前線にわざわざ出向き、一人で何人の首を落としたかわからない。そんな行為に走るような人間はひどく愚かで、どうしようもない悪党だと思った。
「あなたは自分の手を人殺しの手だと言いますわ。いつかも、そうでしたね。でも、わたくしには、その手が殺すばかりだとは思えなくてよ」
セシリアは、もう一度クロードの手を握る。
今度は、両手で包みこむように。
まるで、泣いている子供をあやすような目だ。
クロードは、抵抗を忘れてしまった。
「その手は、我が国を守り、我が民を守る手です。異国の侵略を阻み、大切なものを守る、愛すべき手です。わたくしは、あなたの手と剣を愛していますよ」
王妃としての言葉だ。
裏も表もない。純粋に国を思い、愛する者の言葉。
セシリアは、ここにいる。いまここで、クロードの手を握っている。
それなのに、すでに手の届かないところへ行ってしまった。
もう少しでつかめると思っていた。
あのとき、機を逃さなければ――そんな後悔ばかりしていた。
それはおこがましい妄想だ。
彼女は一介の騎士の妻でおさまる人間ではない。最初から、こうなる人生を運命づけられていたのだ。
「セシル」
久しぶりに、その名で呼ぶ。
クロードはセシリアの手をとったまま、片膝を折る。
「愛してた」
儀式のように淡々と告げる。
セシリアは少し驚いていたが、やがて唇に微笑を描いた。
「そうね。わたくしも、きっと初恋でしたわ」
互いに過去形で愛を交わす。
けれども、これは決別の儀。
この王妃はクロードの未練になど、とうに気づいていた。だから、わざわざ、こんな仕事を頼みに来たのだ。
クロードを
つくづく、彼女にはかなわない。
「生まれてくるのが王子であったなら、このクロード・オーバン。謹んで、教育係の命をお受けしましょう」
白く細い指先に唇を落とす。
忠実なる、フランセールの騎士として。
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