第8話
「ということで、殿下」
ルイーゼは改まった口調で言うと、手にした二本の刃をエミールに向ける。
エミールは光り輝く二本の刃――大きめのハサミを前に、「ひっ」と声を裏返した。
「その邪魔くさい髪を、切ってしまいましょう」
「い、イヤだ。髪は切らない!」
「いけませんわ、殿下。そのように鬱々とした前髪など、社交界では流行りませんわ。殿方は爽やかに短髪か、伸ばして後ろ髪と一緒に結うべきです。殿下の場合、大変中途半端な長さですので、短くしてしまうのが清潔感もあって好印象でしょう」
手の中でハサミをチョキチョキ動かしながら、ルイーゼはニッコリと捲し立てる。
だが、エミールは珍しく食い下がった。
「ダメッ。前髪を切ったら、日光が直接目に入っちゃうよ!」
「よろしいことですわ。明るい太陽を浴びなければ、身体はどんどん軟弱になっていってしまいますから」
日光とビタミンDを摂らなければ、骨粗鬆症になってしまうと、日本で生きていた頃のテレビ番組で特集していた。ずっと陽射しを避けていたエミールは、きっと骨も身体も弱いに違いない。
「とにかく、髪は切っていただきます」
「い、いやだ!」
尚も対抗するエミールを前に、ルイーゼは片手をジャンに差し出す。すかさず、傍らに控えていたジャンが短い鞭を取り出した。
ルイーゼは満面の笑みのまま鞭を受け取ると、流れるような動作で、それを振り上げる。
「お嬢さま、よろしゅうございますよ!」
「少しお黙りなさい、ジャン。うるさくてよ?」
「御意にございます!」
何気ない会話のように見えて、一振り、二振り、ジャンの背中に鞭が打ちつけられる。エミールはその光景を見て、カチカチと歯を鳴らして震えあがった。
まるで、「こうなりたくなかったら、言うことを聞け」と言っているようだ。いや、言っている。
別に王子を直接殴っているわけではないし、ジャンも進んで打たれているのだから、問題ない。
なにも問題ない! むしろ、健全!
気に食わない相手を自殺するまでいじめ抜いたり、退屈しのぎに金品を騙し取ったり、略奪の限りを尽くして酒池肉林したり、生首を狩りまくったり……今まで経験してきた人生の中で、最も健全なストレス発散法と言えるだろう。
これは悪の道ではない。健全なる正攻法である。
なによりも、物凄く気分が良い。これ正義!
「さあ、殿下。髪を切りましょう!」
気分が高揚して、高笑いまで漏れてしまう。
ルイーゼは腕の中で鞭をしならせながら、部屋の隅に逃げ込むエミールを追った。
「う、うわああああ。悪魔!!」
「悪魔だなんて……殿下ってば、ひどいですぅ。ルイーゼは傷つきましたわぁ。いやん」
「その気持ち悪い喋り方、怖いからやめてッ!」
あら。聞き違いではなかったら、今、「気持ち悪い喋り方」と言われたかしら?
ルイーゼは貼り付けた笑みを引き攣らせた。いくら断髪式を逃れるためとはいえ、少々、口が過ぎる王子のようだ。
ルイーゼは憂さ晴らしに、すぐ近くにいたジャンを蹴りつけておく。脛への一撃をモロに食らって、ジャンは「大変よろしゅうございますッ!」と声を上げながら蹲った。
「ひ、ひぃっ!」
エミールは壁に背中をベッタリとつけ、這うように伝っていく。しかし、それなりに広い部屋とは言え、逃げる範囲は限られている。ルイーゼは、あっという間に、エミールを部屋の角に追い詰めた。
「殿下、さあ、切りましょう。きっと、国王様と同じくらい美丈夫(イケメン)になりますわよ?」
腰を抜かしたエミールの前に膝をつき、ルイーゼは弾ける笑顔を浮かべた。
エミールは必死で首をブンブン横に振っているが、胸倉を掴んで静止させる。
ジョキリ。
ルイーゼは、ハサミを使って一気にエミールの前髪を切り落とした。
容赦なく、一片の迷いもなく、徹底的な眉上パッツンにしてやった。
露わになったサファイアの瞳には、恐怖の眼差しが色濃く浮かんでいる。うっすらと溜まる涙が輝いていた。
豊かなブルネットの髪や、スッと通った鼻梁などは父親譲りだろう。歴代フランセール国王の肖像画にも多い特徴でもある。
だが、鮮やかなサファイアの瞳や白い肌、頬や唇の形は別の人間――母親であるセシリア王妃の面影を濃く残している。
その眼差しに見つめられ、ルイーゼは動きを止めてしまう。
そして、つい手を離してしまった。
「あ、あ、あああ……前髪が……」
エミールは悲嘆に暮れ、項垂れて泣きはじめてしまった。
だが、ルイーゼは傍らで黙ったまま、エミールに触れていた自分の手を見下ろす。
「セシル」
また一つ、嫌な記憶を思い出してしまった。
なにもなければ、普段はこうやって前世の詳しい記憶を思い出すことはない。
ただ、なんとなく「こんな人生を送った自分がいたな」「こんな言葉遣いをしていたわ」と、ぼんやりとした記憶が泡のように湧くだけだ。
だから、こんな風に前世の特定の記憶が次々と引き出されていく経験など、あまりなかった。
ルイーゼは行き場のなくなった掌を握りしめ、唇を引き結んだ。
どうしようもなく、くだらない感情が小さな胸を苛んでいく。
かつて、ある少女をセシルと呼んでいたことを思い出してしまう。
七番目の前世で自分は、セシルに恋をした。
想いを告げるはずだった日に、騎士である前世の自分は戦地に赴くことを選んだ。
そして、帰還したら、セシルは他人の妻になっていた。
その日から、彼女のことをセシリア王妃と呼ぶようになった。
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