第9話
エミールの前髪を切ることに成功し、ルイーゼは満足の表情を浮かべた。
ルイーゼとしては、パッツンオカッパが好みではあったが、エミールの髪質は柔らかくてフワッとしている。あまり似合わないので、仕方なく、ナチュラルボブに整えておいた。
ただし、前髪の眉上パッツンは譲らない。絶対にだ!
女々しい男は嫌いだが、可愛いと言えなくもない。こうして見ると、エミールの属性は小動物系男子といったところか。
日本で生きていた頃の前世では、こういうタイプの男も持て囃されていた。
今まで、前髪のせいで意識していなかったが、顔立ちはかなり整っている。両親の素材がいいので当たり前だろう。
まあ、ルイーゼの好みは惚れ惚れするような筋肉を持った歴戦の戦士系男子なので、少しもキュンとこないが。
むしろ、恋愛など人生に必要ない。
「ふふふ、これでも、昔は同僚の髪を整えて差し上げていましたのよ」
キャバ嬢だった二番目の前世を思い出しながら、ルイーゼはエミールの髪を櫛で梳かす。一応、美容師の資格も持っていたのだ。
エミールは鏡に映った自分の姿を、青い顔で見つめていた。
怯えた表情で酷くおどおどしているが、こうして見ると、エミールは母親であるセシリア王妃によく似ている。特に些細な感情を映すサファイアの瞳は、生き写しだった。
前世と同じ国に転生してしまうのも、考えものですわね。
「ど、どうかした? 僕の顔に、なにかついてる?」
あまりにルイーゼが鏡を見ているものだから、エミールが不安そうに振り返った。
落ち着かないのか、もじもじと指先を弄って目を伏せている。
「いいえ、その……殿下は国王様と王妃様、どちらにもよく似ていらっしゃると思いましたので」
「母上に? ルイーゼは、母上を見たことがあるの?」
まずい。ルイーゼが生まれたのは、セシリア王妃が死んだあとだ。本人を見ているはずがない。
「あー、肖像画で拝見しましたの。ほら、エントランスに飾っていらっしゃるでしょう。あの肖像画に、とても似ていらっしゃるのです」
なんとか誤魔化すと、エミールは「そっか……」と寂しげに目を伏せた。
彼はしばらくなにかを思案し、口を開こうとする。だが、戸惑ったように黙ってしまった。
「どうかしましたか?」
「い、いや……その……その絵は、大きいの?」
エミールはずっと引き籠ったまま、自室を出ていない。王宮の様子など、見たことがないのだろう。
「かなり大きな絵だったと思いますよ」
「そっか。じゃあ、ここへ持ってくることは、出来ないね」
残念そうに呟きながら、エミールは再び鏡に視線を戻した。
一方、ルイーゼは、意地悪な笑みを浮かべる。
「もしかして、殿下は絵を見たいのですか?」
「…………い、いや、見たくない。見たいなんて言ってない!」
只ならぬ気配を感じたのか、エミールは痙攣するようにガタガタと震えはじめた。
だが、ルイーゼは気にしないことにする。
この王子が女々しく震えあがることなど、珍しくもない。だから、無視しても大丈夫だ。
「そうですか、そうですか。殿下は王妃様の絵を見に行きたいのですね」
「そんなこと、言ってない! 言ってないー!」
情け容赦ない悪鬼の如く、優しくも穏やかな笑顔を湛えたまま、ルイーゼはエミールの肩を掴んだ。
同時に、壁に向かってベシィンッと鞭を空打ちする。何故だか、ジャンが残念そうな表情をしていた。
「では、そこまで参ることに致しましょう。王宮の外へ出るわけではありませんもの。そう、この王宮は王族である殿下のものですわ。殿下のお部屋と同じようなもの! 殿下はお部屋の中を散歩するだけですわ!」
「そ、そんな屁理屈に僕は騙されないからッ!」
「屁理屈こねて引き籠っていらっしゃるのは、誰ですか。さあ、参りますよ」
ルイーゼはエミールの手を引き、扉の方へと引きずる。
引き籠りの王子は意外と軽いが、如何せん、深窓の令嬢であるルイーゼには筋力がない。引っ張って歩くのも、限界がありそうだ。
「ご覚悟をお決めくださいませ」
「イヤだ。悪魔や魔物が襲ってきたら、どうするのッ。部屋を出た瞬間に、生首が飛び交うかもしれないよぉ!」
「そんなもの、飛びませんから! わたくしが何とか致しますから、大丈夫です!」
思いっきりエミールを引っ張ると、反動で二人とも部屋の外へと崩れていく。
「きゃっ」
「わあっ」
期せずして、エミールが覆いかぶさる形でルイーゼの上に倒れる。
エミールの身体は細くて弱々しく、どこかの令嬢と錯覚してしまいそうな繊細さがある。
不安そうなエミールの瞳がルイーゼのすぐそこまで迫っていた。ルイーゼは発せようと思っていた言葉を呑みこみ、涙で揺れるサファイアを見つめてしまう。
「そと、出てしまった……」
口を開いたのは、エミールだった。
エミールは自分が部屋の境界を越え、廊下へと出ていることに今気づいたようだ。
サファイアの瞳で心許なくキョロキョロと辺りを見回しては、なにもないことを確認している。
「ほら、外へ出ても平気でございましょう?」
ルイーゼは肩を竦めてみせた。エミールの下から這い出て、桃色のドレスについたほこりを軽く払う。
「大丈夫ですわ。なにかあったら、わたくしがお守りして差し上げます」
ルイーゼは軽く笑いながら、座り込むエミールに手を差し伸べた。十歳のときに、屋敷に押し入った強盗を一人で退治したこともあるのだ。雑魚ならば、負ける気がしない。筋肉痛で数日寝込んだが。
エミールは放心していたが、やがて、おずおずと小さな手を握り返す。
「手を……放さないでくれる?」
すぐそこへ行くだけだと言うのに、本気で怖がっていることがわかる。ルイーゼは溜息を吐きつつも、しっかりと彼の手を両手で包んであげた。
「大丈夫です。なんなら、お傍を離れないように、鎖で繋いでおきますか?」
冗談のつもりで言うと、ジャンが音もなく傍に近づき、手錠付き鎖を差し出してきた。
いやいや、流石に冗談ですから。しかも、そんなもの、どこに隠し持っていたのでしょう。
「それは名案だね。そうしてくれない?」
「なにを以って名案だと判断されたのか、わたくしには、さっぱりわかり兼ねますけど!?」
あっさりと鎖の拘束を受け入れてしまう王子に対して、ルイーゼは抗議の声を上げた。
エミールはキョトンと首を横に傾げているし、ジャンは「よろしゅうございます。拘束プレイは殿下にお譲り致しましょう」とかなんとか言っていて、誰もルイーゼに賛同はしてくれなかった。
流石に、鎖についた手錠を嵌めるといろいろと誤解されてしまいそうだ。結局、ルイーゼとエミールは鎖の端と端を持ち、手を繋いで歩くことにした。
これもこれで、異様な光景だ。
しかし、結果的に、あまりその行為が目立つことはなかった。
「あれは誰です?」
「見ないお顔ですわね。眉上パッツンがお可愛らしい」
「ねえ、あの方……国王陛下に似ていらっしゃらない?」
「まさか……あれが噂の引き籠り姫!?」
どうやら、王宮の人々にとって、鎖を持って歩く男女二人よりも、エミールが外に出ている光景の方が衝撃的だったようだ。
十年以上も引き籠っている王子が、人前に姿を現した! その一報だけが、王宮の貴族たちの耳に伝わっていく。
「部屋に帰りたい……」
「クエストクリアまで、もう少しですわよ。ここで諦めたら、経験値が手に入りません」
「くえすと? けいけんち? ルイーゼは、なにを言っているの?」
「気にしないでくださいませ。少し口を滑らせただけですわ」
時々、立ち止まって動かなくなるエミールをなんとか誘導して、二人はようやく、エントランスまで辿りついた。
だが、ここは王宮へ案内される貴族たちが待たされる場でもある。今まで以上に視線を集めていた。
「殿下! エミール殿下ではありませぬか!」
皆遠巻きに噂話を囁く中、太く、大きな声が発せられる。突然のことに、エミールが雷を聞いた子猫のように縮こまるのがわかった。
振り返ると、歩み寄る男があった。
エミールや国王と同じブルネットの髪が揺れる。心なしか、いや、紛れもなく
「……だれだっけ……?」
エミールはルイーゼの陰に隠れながら、ボソリと呟いた。引き籠っていたので、ごく近しい者の顔しかわからないのだろう。
「わたくしも、よく存じませんが……王弟殿下のフランク様ですわ。あなたの叔父君です」
ルイーゼは呆れながらも、小声で教えてやる。と言っても、ルイーゼもよく知らない人物だ。社交界で、一応あいさつを交わした程度の間柄である。
王族の一人だと言うのに、頭皮に比例して印象が酷く薄い殿方だと言うことだけ覚えている。
「あら。フランク様、ご機嫌麗しゅう。今、エミール殿下は急いでいますの。早くしないと、スタミナ切れで動けなくなってしまいそうですから、今日はこのまま失礼しますわ」
見事な薄毛の下で人の良さそうな笑みを浮かべるフランクをかわし、ルイーゼは早口で捲し立てた。
エミールの顔がいよいよ蒼くなり、今にも倒れそうなのだ。人目に晒されて、ストレスがマックスなのだろう。
今は薄毛に構っている暇はない。
「え、ちょ……!」
フランクが薄毛の下に汗を滲ませ、表情を固まらせている。
兄である国王アンリは、なかなか若づくりだと言うのに、この王弟は年齢以上に老けている。
「さあ、殿下。着きましたわよ」
大きな窓が並び、陽射しをたっぷり取り込める造りのエントランス。その中央には二階へ続く階段が伸びている。
階段の中腹、踊り場でセシリア王妃の肖像は微笑んでいた。
美しくしなやかな金髪が、優しい筆づかいで描かれている。白いドレスは清楚で、可憐な乙女を演出していた。穏やかな微笑を浮かべるサファイアの瞳は、当時の王妃を忠実に再現している。
エミールは初めて見る母親の肖像画を食い入るように見つめ続けていた。こんなに真剣な彼を見るのは、初めてかもしれない。
その姿を見ていると、ルイーゼは疑問を口にせざるを得なかった。
「殿下、どうして外が怖いのですか?」
以前にも聞いたが、答えを聞くことは出来なかった。
エミールはゆっくりとルイーゼの方を振り返り、サファイアの瞳を揺らす。
そして、哀しげな、それでいて、恐ろしいトラウマから逃げるように、自ら胸の辺りを掴んだ。
「……悪魔を、見てしまったんだ……」
「は?」
とても酷いトラウマでも語られるのかと思えば、第一声は、それだった。ルイーゼは冷ややかな視線を向けてしまう。
エミールはルイーゼの冷めた視線になど気がつかず、続きを語った。
「アレは、悪魔だよ。悪魔だったんだ……小さくて、よく覚えてないけど……黒い甲冑の禍々しい悪魔を見たんだ……アレは眩しい陽射しを背に、僕の前に降り立った。そして、鮮血迸る生首の山を築きあげて笑っていた……!」
ん? 黒い甲冑? あら? 生首? ん? あらあら?
ルイーゼは聞き捨てならない単語を聞いた気がして、目を数回パチクリ見開いた。
エミールは恐怖に怯えた表情のまま続ける。
「悪魔の名前はクロード・オーバン。裏切りの首狩り騎士!」
あー……。
ルイーゼは自分の思考が停止するのを感じる。同時に、何故だか申し訳なさと、面倒くささでいっぱいになってしまった。
首狩り騎士クロード・オーバン。
フランセール史上最強と謳われた騎士であり、最悪の裏切りを働いた悪党として名高い男。
そして、その名は紛れもなく、――ルイーゼの前世のものであった。
前世のわたくしは馬鹿ですか。アホですか! もう少し、自重すればよかったわ!
まさに、身から出た錆。こんな面倒くさい事態を産んだ原因が、自分の前世だと知ってしまい、ルイーゼは転生者である自身の境遇を呪わずにはいられなかった。
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