シーン4 全てが終わる光景

 雨を降らす雲から視線を降ろす。学校裏の田園風景。その農道脇にある用水路。そこに全てが終わる光景が広がっている。

 私はポケットから受け取った贈り物を取り出す。彼がくれた、大切な物。


 唯一、私だけにくれた、私だけの期限付きの宝物。

 かたわらに近づき、そっと囁く。


「先生。だって先生はいつだって言ってくれたじゃないですか。“君はいい子だ”って。だから、先生の為に何でもしてあげたんですよ?」


 見下ろす用水路の中、水深一メートルほど下にいる大好きなあの人に向けた別れの言葉。

 もうピクリとも動かない。水中の中で見開かれた目は、空虚に私を見上げている。まるで魚のような目。私の細い身体を抱き締めた太い腕と、私の足に絡ませたたくましい足を、水の流れに力なく揺らしながら。


「初めてキスしてくれた時も、ギュッと抱きしめてくれた時も……。“いい子だ”って言ってくれたじゃないですか。先生との赤ちゃんを時だって……。私はどこにもいかないのに。だって私は全部、先生のものだったのに……」


 登校してきた生徒たちが、立ち尽くす私の視線に誘われて、水底に沈んだ先生を見て喧騒が起きる。かん高い悲鳴、困惑した足音。興奮混じりの声。

 

「嘘だろ!?」

「これやべぇーって!」

「アタシ先生呼んでくる!」


 その小さな騒ぎは、登校してくる生徒たちを呼び寄せ、あっという間に私を中心に人だかりが出来る。だが、その視線の対象はあの人だ。


 ふと少し離れたところで友達に抱きついて、ワンワンと泣きだす女の子が視界に入った。彼女のことは知ってる。二年生で、先生のお気に入りの子。私みたいに誰かと接するのが苦手な子。

 でも、よかったね。そんな風に縋れる友達がいて。私には、先生しかいなかったの。私はひとりになったのに。


 誰かが呼びに行った先生たちも駆けつけて来た。それでも生徒たちは水底に沈んだ先生から目を離すことはない。


 恐怖に表情を強張らせるが、好奇な目とスマートフォンのカメラを向け、撮影する男子生徒。一一九番に電話をかける学年主任。朝練をしていた運動部の人たちが用水路に飛び降り、全身を濡らしながら先生を用水路の底から畔まで担ぎ上げる。


「お前たちいいから退がれっ!」


 怒号をあげた体育教師と数学教師が広げた手によって私は周囲の皆とともに押し退けられる。先生と離される。名残惜しいが、どうすることも出来ない。


 ふと振り返ると、好奇心で群がる生徒たちの中に彼はいた。学ランとセーラー服の森の中に、赤いパーカーを着ていればなおの事見つけやすい。私は群衆の隙間をすり抜け、彼に近づく。その表情は相変わらずだ。


「あなたにも、会えなくなるんだね……」


 分かり切ったことを口にした。

 きっと変わることはない、定められた運命。でも本当は、彼からも見捨てられるのが怖いのだ。

 彼は半ば呆れたように口角を上げる。


「勘違いするなよ。俺はいつだって水先案内人なんだ。俺は見届けるだけ。あんたの恋人でも、友達でもない。ましてや、ヒーローでもな」


 私は泣きそうだった。しでかした事の大きさに押し潰されそうだった。

 大好きな先生は死んだ。皆は事故だと思うだろう。いや、確かに事故だ。先生は自転車ごと用水路に落ち、そして運悪く服が自転車に引っ掛かり、その自転車が昨日から大雨で増水した水の流れに負けて蓋の下に滑り込んだせいで抜け出せなくなった。呆気なく、情けない死に様。

 けど、先生の死は約束されたもの。私が望み、下した選択。


 それが今更になってこんなにも恐ろしいものだと思わなかった。だって、そう言ってくれなかったんだもの。

 貰った砂時計が、こんなにも恐ろしいことを叶えてくれるなんて……。


 ― ― ― ― ― ― ―


「こいつは対価の砂時計。不幸返しの砂時計って呼ぶやつもいる」


 彼の手のひらには台座が木で出来た、アンティーク調の砂時計が置かれていた。球体のガラスが上下にあり、上の中に入った砂は不思議なことに落ちてくる気配がない。


「対価の砂時計……」


 彼はゆっくりと頷く。


「あんたをおとしめたやつに、復讐できるシロモノだ。あんたが望んだ通りに、復讐を叶えてくれる」


 そういって喫茶店のテーブルの上にコツンと優しく置いた。この喫茶店は現実ではない。テーブルも、外に見える雨が降る街並みも、テーブルの上に置かれたティーセットも、すべて私の夢が作り上げたもの。だが、妙なリアルさに包まれている。


「受け取るも受け取らないも自由だ」


 まるで早く受け取れと、促すように私の手前まで移動させる。

 目の前に差し出されたその砂時計に躊躇っていると彼はまた口を開いた。


「あんた、何にもないんだろ? 奪われたら、奪い返すのもひとつの手だ」


 奪い返す? その言葉に疑問を抱く。


「でも私……奪うものなんて……」

「そうだ、奪い返すものなんてない。あんたの奪われた心は、奪い返して戻るもんじゃあない。だけど、何も得られない人生なんて、面白いか?」


 とても倫理的じゃあない。けど、彼の言葉にはどこか重みがある。理由はわからないが、納得している自分がいた。


「白紙に戻してやれよ。あんたを踏みにじって、高いところにいると勘違いしてるヤツらに。なにもないあんたが、如何に怖いかを教えてやるんだ」


 ま、これは俺の個人的な意見だけど、と彼は付け加えた。

 そうだ。私はずっと踏みにじられていた。“人畜無害な操り人形”それが、これまでの自分の人生。

 家族からも、学校の同級生からも、そしてあの人からも……。私は踏みつけられ、その上で誰かが怒ったり、笑ったりしてるだけ。私はなにもしてこなかった。

 でも今は違う。彼に出会えたことで、私は自分の力を手に入れることが出来る。反逆の力を。

 私は頷き、「わかった、ありがとう」と砂時計をそっと受け取ったのだ。



 ― ― ― ― ― ― ―



 そうして、砂時計を使った結果がこれだった。

 祈った結果は、いとも容易く人の命を奪い取った。それが如何に恐ろしいものか、いまさらになって気付いた。


「ねぇ……どうしたらいいと思う?」


 震える声で問う。

 あの屋上の時のように、もう一度助けて欲しかった。もう視界は涙なのか雨の雫なのかわからないほど淀んでいた。

 でも、彼の衣服は一切濡れていない。出会った日からずっと気付いていた。そして、それが何を意味するのかも理解していたのに。


「知らない。あんたが決めろ。あんたが終わらせたんだ。あんたが始めるんだよ」


 冷酷な言葉だった。そうだ。彼は役割をこなしただけなんだ。頭のどこかでは分かっていたのに。でも私は最後には助けてくれるんだと勝手に信じていた。

 彼は踵を返し、降り出した大粒の雨に溶けるように消えていく。追いかける暇もなかった。

 

 雨は酷くなるばかりだ。この打ち付ける大粒の雨が、全て洗い流してくれたらいいのに。あの甘い日々も、この胸に抱える憎悪も、虚しさも、私のすべてが、全部水になって。そのまま目の前の用水路に流れて、川に流れて、誰も知らない海に流れて。けど、私はここにいる。


「ナズ……」


 彼の名を口に出して見ても、彼が現れることはなかった。

 雨が止むことはない。むしろ、ずっとこんな強く降るだろう。

 いや、もうこのままずっと降ってくれればいいのに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不幸の対価〜雨の日のスカート〜 兎ワンコ @usag_oneko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ