第73話 蠢く魔(5)
体を突き抜けるような大きな揺れが学園を襲った。
ひとつ、またひとつ。
地震とは全く違う、不規則な揺れ。
「きゃっ。」
よろめいたフローが小さな悲鳴を上げた。
僕はフローの体を左手で支え、自分自身も転ばないように医務室の入口近くに設置されている薬品棚に手をついた。
いくつかの茶色い小瓶が机から落ちて割れ、中身とともにガラス片を飛散させる。
「フロー、転んでガラスに手をつくと危ないから、こっちにおいで。」
僕とフローは医務室の机から離れ、ベッドの方へと移動した。
「ロゼライトさん、何が起こっているのでしょう?」
フローの問いに対する答えを僕は持っていない。
答える代わりに、僕は「分からない」とばかりに首を横に振った。
一際大きな爆音が鳴り、建物が揺れ、窓がビリビリと音を立てた。
「ロゼライトさん、あれ!」
何かを見つけたフローが、窓を指さした。
医務室の窓に走り寄った僕が見たものは、黒煙の上がる中庭と逃げ惑う同級生達。
状況が飲み込めずに立ち尽くしていると、連続した爆発音とともにいくつもの悲鳴が聞こえてきた。
「いったい何が起こっているんだ?!」
医務室の窓からでは事態の全体を把握することはできないが、少なくとも誰かが助けを求めている事は確かだった。
魔法の暴走?実験の失敗?それとも・・・。
僕はいくつかの可能性を頭に描いた。
記憶に新しいのは、王都を襲ったグランデールの件だ。
フローを助けるためにイフリートの試練に挑んだりしていて有耶無耶になってしまっていたが、グランデールが王都を襲撃した真意は解明されていないままだ。
「また魔族の襲撃でなければ良いのですが・・・。」
医務室を出て中庭の出入り口へ続く通路を走りながら、フローはが不安の表情を見せた。
やはりフローも同じ事を考えていたようだ。
出入り口に近づくにつれ、焼け焦げた臭いが鼻に突くようになってきた。同時に湧き上がる抗えない恐怖心。
直後、空気を揺らすほどの咆哮が響き渡った。
嫌な予感ほどよく当たる。
誰が言ったか知らないが、こういう状況の時に言葉通りになると、先人を恨みたくもなるものだ。
僕は、この腹の中を握り潰されるような圧迫感と圧倒的な存在感には身に覚えがあった。
間違いない!グランデールと同等・・・いや、それ以上の力を持った魔界の住人がいる!
横を走るフローの顔から血の気が引いていくのが、目に見えて分かった。
フローも僕と一緒にグランデールに遭遇している。
あの強大な力に恐怖を植え付けられなかったはずはないのだ。
僕は突然足を止め、フローの腕を掴んだ。
「ロゼライトさん?」
足を止めたフローが、戸惑いの色を見せる。
僕は迷っていた。
このままフローを連れて、中庭へ行っても良いのだろうか?
王女であるフローを危険に晒す事は避けなければならないのではないか?
だいたい僕にフローを守ることができるのか?
いや、それ以前に僕が出ていって足手まといになったりしないのか?
このまま先生たちに任せてしまった方がいいんじやないか?
様々な疑問が頭をよぎる。
それに、僕たちは魔族に見つかったわけじゃない。ここで引き返せば、無事に避難できるんじゃないか?
そうだよ。
無理に戦う必要なんかない。
ここは学園なんだ。先生もいるし、先輩だっている。
王都で一番多く魔術師が集まっている場所じゃないか。
魔族の1匹や2匹、すぐに撃退して事態は収まるさ。
僕がやらなければならないことは、フローを安全な場所に連れて行くことだ。
僕は何が正しいのかなんて、全く分からなくなっていた。
「フロー、その・・・。」
何故だ?指先が震える。
再度、爆音が響き渡った。
「ロゼライトさん。」
フローが僕の手を取り微笑んだ。
「ロゼライトさんは、早く避難して下さいね。」
いつの間にかフローの表情から恐怖の色が消えていた。
「・・・僕が、避難?・・・フローは?」
「私は、王族ですから。」
何言ってるんだ?王族だから逃げなきゃいけないんだよ。
「困っている民を置いて行くことはできません。」
そう言うと、フローは僕を置いて駆けだした。
フローに伸ばした僕の手は、すんでのところで届かず空を掴む。
僕はその場で力なく座り込み、スローモーションのようにゆっくりと流れる時間の経過の中、不自然に長い通路をフローが走っていくのを眺めていた。
通路に木霊するフローの足音だけがやけに大きく聞こえ、他のすべての音が膜を通したように不明瞭だ。
魔法が苦手だけど、勉強熱心なフロー。
少し内気で口下手だけど、興味があることになると急に饒舌になるフロー。
妹のようにいつも僕の後をついてくるフロー。
ダメだよ。
そっちは危ないんだ。
僕じゃ君を守ってあげられない。
・・・。
・・・守ってあげる?
フローはそんな事を一度でも望んだか?
・・・。
それは僕の弱さが生み出した妄想。
守れないということを理由に、逃げる理由を探していたんだ。
情けない。
本当に、情けない。
恐怖に打ち勝ち、一歩前に踏み出した少女がいるというのに!
僕は顔を上げ、フローの進んだ先を見た。
さっきまで見えていた長い通路は無く、目の前に続いているのは見慣れた短い通路と中庭に続く扉。
「ごめんフロー。すぐに行くよ。」
僕は立ち上がり、まだ震えている足を一歩踏み出した。
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