第72話 蠢く魔(4)

 ほのかに漂う消毒薬の臭い。

 いくら魔法の技術が発達したとしても、傷の処置の基本は洗浄と消毒だ。

 そのため救護班の人たちは、水や土の魔法知識だけでなく医療行為の基礎も頭に叩き込まれる。

 靄のかかったような思考の中、僕は漠然と講義で習ったことを思い返していた。

「先生、ロゼライトさんが目を覚ましました。」

 目を開けて最初に見たものは、白い天井とカーテン。

 直後、僕の視界いっぱいに、声の主であるフローの顔が飛び込んできた。

 せっかくの愛らしい顔が、疲れきった表情で台無しだ。

「ロゼライトさん、大丈夫ですか?」

 心配そうに僕の顔を覗き込んでくるフロー。

 その表情は今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。

 もしかしたら今まで泣いていたのかもしれない。

「・・・ここは?」

 思わずそう口にしてしまったが、消毒薬の臭いが充満する部屋など1ヶ所しかありはしない。

「ここは医務室です。」

 フローから予想通りの答えが帰ってきた。

「ロゼライトさんは、実技試験の最中に魔力が尽きて気を失ってしまったんですよ。」

 そうだ。

 闇の精霊に任せて魔法を使ったら、すべての魔力を消費させられてしまったんだった。

「フロー、僕が出した槍はどうなったの?!」

 実技試験の最中、巨大な槍がトレーニングドールに狙いを定めたところで僕の記憶は途絶えている。

 周りにはたくさんの同級生達がいたはずだ。

 初めて使う魔法であったが、消費した魔力量から考えるとかなり大きな魔法であったことが予想できる。

 直撃を免れたとしても、あの巨大な槍の巻き起こす衝撃を受けて、周りにいた同級生達が無事であったはずはない。

「グングニルっていうんですか?ロゼライトさんの魔法、凄かったですよね。」

 僕の無事を確認できて安心したのか、フローが笑顔を見せながら僕の魔法について聞いてきた。

 そういえば、僕の一番近くにいたはずのフローに怪我は無いようだ。

 フローが無事ということはスレート先生あたりが、あの槍を消滅させてくれたのだろうか?

 確かに、未だ得体の知れないスレート先生であれば、僕の魔法など難なく消滅させてしまいそうではある。

「ロゼライト、目を覚ましたか。」

 フローの呼びかけに応じたのか、カーテンを開けスレート先生が姿を現した。。

「いつのまにか、随分とでかい魔法が使えるようになっていたんだな。」

 いつもは無表情であるスレート先生も、少し疲れた表情をしている。

「すいませんでした。闇の精霊にイメージを任せたら、あのような大きな槍を創造してしまいまして。」

 僕の魔法を食い止めてくれたと思われるスレート先生に、僕は深く頭を下げた。

「闇の魔法に任せただって?何を馬鹿なことを言っているんだ。」

 自分でも馬鹿なことをしたと思う。

 今考えれば「精霊に任せる」ということは、魔法を自分で制御する事を放棄したと言うことと同意義だ。

「魔法を発動させるには、自らが明確なイメージを持たなければならないと教えただろう。」

 スレート先生の言うことは正しい。

 魔法は便利ではあるけれど、一歩間違えれば大きな事故に繋がりかねない危険なものだ。

 自分で制御しなければ、今回のような事故が起こってしまうということを肝に命じておく必要がある。

「自らの明確なイメージがなければ、魔法が発動する事などありえない。」

 何だ、この違和感は?

 僕とスレート先生の会話が微妙にズレている?

「講義で話した通り、我々は加護精霊の力を利用して魔法を発動させているのだ。そもそも加護精霊には自我など無いのだから「任せる」などという考え自体が論外だ。」

 スレート先生は僕の言葉に呆れ顔だ。

 しかし、僕が闇の魔力に意識を委ねたら大槍が出たし、土の魔力に意識を委ねたら大剣が出たのは紛れもない事実だ。

「魔力を使い過ぎて、今は混乱しているのだろう。実技試験は追試をやってやるから、今日は寮に帰って休め。」

 珍しく優しい言葉をかけてきたスレート先生が、小さな溜息をつき立ち上がった。

「あ、スレート先生。さっきは槍の魔法を防いで頂いてありがとうございます。」

 僕はスレート先生の背中に声をかけた。

「何を言っているんだ?槍の魔法は自分で消しただろう?」

 扉をくぐりながら、そう言ったスレート先生が「気絶する前に魔法を解除できた事だけは褒めてやる」と続けた。

 魔法を消したのは・・・僕?

 いや、そんなはずはない。

 僕は魔法が発動した直後に気を失ってしまってしい、魔法を解除する余裕は無かった。

 だから誰かが魔法を消滅させているはずだ。

「あんな態度をとっていますが、スレート先生も心配していたんですよ。」

 スレート先生が退室したのを確認したフローが、僕のベッドサイドに置かれた椅子に腰を掛けた。

「いつも物静かなスレート先生が大きな声を出したの、初めて見ました。」

 物静か?

 あれは「暗い」、もしくは「変態」って言うんだよ、フロー。

 僕が気絶してから随分と時間が経ってしまっているようで、窓から差し込む日の光はいつの間にかオレンジ色に変わっていた。

「フロー、一緒にいてくれてありがとう。そろそろ帰ろうか。」

「大丈夫なんですか?」

 頭痛も目眩もない。しっかり休んだから、魔力も回復していることだろう。

 僕は一度ベッドサイドに腰掛けストレッチをしてから、靴を履き、医務室の入り口の近くに掛けてあったブレザーを手にとった。

 右手に伝わる微かな振動。

 初めはどこが震えているのか分からなかったが、ブレザーの右ポケットに振動の正体が潜んでいるようだ。

 生き物・・・にしては、振動が規則的すぎる。

 自分のブレザーのため、気づかなかったことには出来そうもない。

「ロゼライトさん、どうしたんですか?」

 僕の左側から覗き込むようにフローが顔を出してきた。

 しかたない。確認するか・・・。

 僕は意を決して、ブレザーのポケットの中に手を突っ込んだ。

 ポケットの中で手に触れたのは、規則的に振動を繰り返す丸い物体。

「これは・・・。」

 中から出てきたのは、スレート先生から貰ったホムンクルスの卵だった。

 漆黒に変色したホムンクルスの卵の中では、形のある何かが動いているのがはっきりと見える。

 二つの赤い目のようなものもがこちらに向いた。

 まさか、僕達を観察しているってことは無いよな・・・。

 一番驚いたのは、卵の周囲にまとわり付いている赤黒い魔力の靄だった。

「その玉から魔力が溢れているのでしょうか?」

 スレート先生はホムンクルスの卵は、所有者の魔力を吸収して成長すると言っていた。

 フローの言うように、赤黒い靄が溢れ出た魔力なのだとしたら、この卵が吸収できる魔力量は限界を迎えているのかもしれない。

 この急激な成長が、大きな魔力の吸収であると仮定するなら、槍の魔法を消滅させたのは、もしかして・・・。

 僕がそう推理した直後、体験したことのないほどの大きな振動が学園を襲った。

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