愛してる
今頃、彼はどんな顔をしているだろうか?
…………想像しただけで顔から火が出そうだ。いやもう、出ているかもしれない。
それくらいに恥ずかしくて、回りくどいことをした。漫画でもあるまいに、三十路目前の女が、まだ二十一歳の青年にプロポーズしたというのだから、恥ずかしいことこの上ない。そもそも、付き合ってもいない。
告白はしたことがあるが、過去に一度振られている。
もちろんそれは感情的なもので本意ではなかったものの、振られたことに変わりない。翌日彼はその非礼を詫びに来てくれたが、改めて断りの言葉を向けられるのが怖かった私は一緒にいることを拒んだ。
とは言え、他にも理由はあった。前を向くためにはカウンセラーを目指したいと思ったし、惰性で一緒にいるのはお互い良くないことだと思ったからだ。
「あぁでも、やっぱり痛い女、だよなぁ……」
この数年仕事を含めても、これほど頭を抱えてやきもきしたことはない。
それぐらい私にとって彼は、佐藤昇汰はかけがえのない存在なのだ。
だからこれは一世一代決心の末の、最初で最後の告白。彼と添い遂げられないなら、他の人なんて要らない。そのくらいの覚悟はできている。
「さて、そろそろ上がるか」
受付の女性事務員に挨拶をして、病院を後にした。
それから車に乗り込み、さあ走らせようかとエンジンを付けたときだった。
――ティロロリン。
「ん? この音は…………鏡子さんか」
ドライブに切り替える手を止め、スマホを手に取った。
そこに記されていた文面を見て私は憤りを覚えた。
この五年のうちで最も強い感情だった。
「あいつはっっ、何を考えているんだ……っ!」
行き先を自宅から浪川家へと変更して、私は車を走らせた。
****
車を三十分ほど走らせて浪川家に着くと、鏡子さんは戸惑った様子で私を出迎えてくれた。
いや、戸惑いというよりも困惑と喩えるべきかもしれない。
「これ……渡すべきかどうか迷ったんだけど」
彼女は薄汚れた三つ折りの紙を私に手渡してくれた。
開けてみてもいいかという視線を向けると、彼女はすぐに頷きを返してくれる。
私は意を決して薄いその紙を開いてみた。
「…………っ本当に、あいつって奴はどうしてこうも馬鹿なんだ」
目頭に熱が籠もる。泣きたくないのに、堪えきれず涙が溢れ出す。喉の奥からアルコールのような臭いと灼けるような痛みが迫り上がってきて、抑えきれない。
それは私が昇汰に渡したはずの婚姻届だった。土か何かで薄汚れているものの、字は識別できる。彼もサインをしていたのだ。
「これね、あの子のお墓で忘れ物しちゃったの思い出して、取りに戻ったら男の子がお墓に落ちてましたよって渡してくれたの」
私は彼女の言葉に一抹の違和感を覚えた。
「それって変じゃありませんか?」
「え?」
彼女はどうして、と首を傾げている。どうやらまだ気付いていないらしい。
「なぜって、鏡子さんが落としたわけでもないのにどうして鏡子さんのものだって思うのでしょうか? おかしいと思いませんか?」
鏡子さんはうーんと首を傾げたけれど、その意見に納得はしなかったようで、
「でも、わたしがあの子のお墓の前まで行った後だったし、そこで拾ったのなら、わたしが落としたものだと思ってもおかしくはないんじゃないかしら」
そう言われてしまうと黙らざるを得ない。些細な違和感だ、別段糾弾することでもあるまい。自分にそう言い聞かせて、この話を終えることにした。
「……それにしても、あいつはどうしてこんなことを。嫌なら捨てればいいじゃないか、丁寧に署名と捺印までしておいて」
「ホントそうよね。あの子も不器用だわ」
鏡子さんはそう呟くと、遙か彼方を思い馳せるような目をした。
その目は澄み渡る泉のごとく静謐な彩をしていて、憎しみも妬みも存在していなかった。
彼女のその姿を見て、ただ周囲の幸せを願う良き淑女だという印象を抱いた。
****
翌朝。けたたましい着信音で僕は叩き起こされ、気付くと時刻は十一時を回っていた。どうも、昨日の疲れでかなり眠っていたらしい。
電話の相手は鏡子おばさんだった。
どうしても伝えたいことがあるからと、実家の近所にある公園に呼び出された。
特にすることもないからと公園に向かうと、まだ彼女の姿はなかった。
それから何分かして、約束の十分前になって彼女は姿を現した。そして出会い頭、彼女は謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい」
唐突な謝罪に閉口していると、彼女は続けざまに口を開いていた。
「ずっと踏ん切りがつかなくて……そのせいで昇汰ちゃんを傷付けてしまって、ごめんね」
何かを知っているとしか言えない物言いに思わず尋ねそうになる。しかしそれは彼女に差し出された手紙によって思い留まらせられてしまう。
「これ……。あの子が、昇汰ちゃんに宛てて書いた手紙なの」
僕は愕然として、受け取った手紙を落としてしまった。
なんだって、僕宛の手紙があったって? それならどうしてもっと早く……。
手紙を拾いながら、僕の中にフツフツと怒りが湧き上がっていた。
あのとき、僕にだけ手紙が残されていないことを知って、どれほど傷付いたと思っているのだろう。彼にとって、僕はそれだけの存在でしかないのだと諦めてしまうほどに苦しんだといのに。
ハッと我に返り彼女の顔を見上げると、その瞳は後悔に濡れていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…………あの子だけがみまかって、他の子が幸せになることが受け容れられなかったの。あの子が望んでいたことなのに……悪い母親だわ」
「そんな……鏡子おばさん、顔を上げてください。今、こうして決心してくれたから、それで十分です」
慌てて取り繕い、彼女の肩に手を置いて宥めるも、その涙は留まることを知らなかった。
「ずっとずっと、渡す勇気が出せなくてごめんなさい。わたしのせいで昇汰ちゃんが傷付いてるって知ってたら、もっと早く渡せたかもしれないのに」
さっきから彼女が語る言葉に疑念しかない。
どうして、とうにいの手紙を受け取ることが僕の幸せに繋がるのだろう。
その答えは手紙にあると思い、ようやく手紙を開封することにした。
【昇汰へ
元気でいますか。
この手紙を読む頃には、僕はもうこの世にいないでしょう。
初めに一つ謝りたいことがあります。病気のことを話さなくて、ごめん。昇汰はまだ小学生で理解できないってことも理由にはあるけど、一番は、昇汰が悲しむ顔を見たくなったからなんだよ。
昇汰が大人になった姿を見られないのはとても残念です。いつか昇汰の結婚式でスピーチするのが夢だったけど、無理そうですね(笑)
好きな人はいますか? もしいるなら、時間がいつまでも続くと思わず、明日が必ずあると思い込まずに想いを伝えてください。伝えられずに死んでしまうことだってあるんだから。
それがたとえ、縁だったとしても。むしろ、そうであってほしい。
俺の知る昇汰はまだまだ幼い男の子だけど、二人は相性が良さそうに思います。縁は素敵な女の子だし、昇汰も素直な男の子です。
できたら僕の代わりに傍にいて、支えてあげてほしい。どこぞの馬の骨とも知れない輩より、年下でも昇汰の方が安心です。
僕のためを思ってくれるなら、好きな人と幸せになってください。
追伸:結婚式の晴れ姿、期待して待ってるからね。世界でたったひとりの弟へ。
透夜より】
僕は彼のただのいとこだ、兄妹でもなんでもない。だからこそ、その言葉が胸に深く突き刺さる。それに、
「なんだよ、これ…………とうにい、予言者じゃないの? なんで死ぬ間際だってのに、こんなに人のことばっか心配してんの? なんで死ぬ前に叶えたいことが自分のことじゃなくって、残された人のことなんだよ、馬鹿じゃん、お人好しすぎるよ……………………っ」
「あの子って、そういう子じゃない」
鏡子おばさんはいつの間にか泣き止んでいた。それどころか、知らぬ間に泣き始めていた僕の涙を拭ってくれていた。
今際の際に、好きな人と僕との幸せを願うことなんて本当にできるのだろうか。今となっては真偽は確かめようがない。ただ一つ言えるのは、これがとうにいのどうしても伝えたかったことだということだ。
「鏡子、おばさん……」
「なぁに?」
彼女はこれから僕が言おうとしていることを予期しているかのように、温かな笑顔を浮かべてくれていた。
「僕、縁さんのことが好きなんです。結婚して、一緒に暮らして、今まで贖罪で苦しんでた分幸せにしてあげたいって思ってます」
「うん」
「彼女にプロポーズされたのに、とうにいの好きな人だからって自分に言い訳して、幸せになることから逃げてました。本当は、彼女と結婚したいってそれが一番の願いだって分かってるのに」
「あら、そう」
言葉こそ淡泊なものだったが、そのトーンは柔和で心地好い。続きを話したくなるおっとりとした慈しみに溢れたものだ。
「だから鏡子おばさん! 僕と縁さんが結婚することになったら、とうにいと一緒に結婚式へ参列してくれますか?」
彼女は驚いたように目を見張ったけれど、すぐに相好を崩して、
「もちろんよ」
応えてくれた。
それから僕は急用ができたということで彼女に断りを入れて、その場を去った。
尋ねる先はもちろん、縁さんだ。
スマホを取り出し、電話をかけようとすると、僕は着信履歴の多さにどん引きした。
「…………え、着信履歴32件?? 全部、縁さんからだ……」
恐る恐る留守番電話を再生すると、耳を劈く罵声が飛び込んできた。
「っっっおい佐藤!!!! お前、一体何を考えているんだっっっっ!!! この伝言を聞いたら今すぐあの店に来い。そこでたっっぷり、話を聞かせてもらうからな…………」
メッセージは以上ですというアナウンスが流れる。
怒声も恐いが、最後の方が「締め上げてやるから覚悟しておけ」という副音声が聞こえてくるだけに末恐ろしかった。
あれれ~~?? もしかして、鏡子おばさん一枚噛んでるの~~~?
だけど、行かないわけにはいかない。
せっかく鏡子おばさんに宣言した決意が無駄になる前にと、僕はあの店へ足を向けた。
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