歩み出す彼女と尻込む僕
彼(とうにい)のことで知らない話はほとんどないと思っていた。それなのに、彼女から聞かされた人物像は僕が知るものとはかなり異なっていた。僕は彼の一面しか知らなかったということなのだろう。そんな些細なことがたまらなく悔しかった。
とは言え、今気にするべきところはそこではない。
「種」についての由縁や、どうして売り始めたかも明確にされていない。
「心の種」とは何なのか。それは彼女が語った懺悔よりも遥かに興味深いことだった。
「じゃあ、どうして彼からもらった『種』を売ろうとしたんですか? 彼の形見のようなものなんでしょう」
古傷を抉る質問だっただけに、彼女は苦渋を嘗めたような顔を浮かべた後、伏し目がちに顔を背けた。
「……枯らして、しまいそうになったんだ。『種』の影響については説明が記されていたし、何より枯らしたくなかった。彼が最期に遺してくれたものを失いたくはなかったんだよ。
『種』は心の成長を促す。それでも私の心は閉ざされたままだった。それがたまらなく不安で、生きているだけでも苦しくて、食事をするのも億劫になって、眠れもしなくなった私は――」
どんどんと早口になって、顔つきも呼吸音も乱れていく彼女に違和感を覚えた。
これは過去の恐怖体験がフラッシュバックしてしまっているのか? こんなところで自爆されてはたまらないと僕は彼女の肩に手を置いた。
「今はそんなことないでしょう? 落ち着いて、ゆっくりでいいですからね」
僕の甘い言葉にパニック発作らしきそれは治まったらしく、彼女は朧な目で僕をうっすらと見上げていた。それから口元だけをニヤリと笑わせて、ポツリと言葉を紡ぎ出した。
「…………種をね。初めに食したのは、深山さゆりじゃないんだ」
彼女の突然の告白に僕は声も出なかった。
初恋の人を殺したあの行為が初めてでなかったなら、どうして彼女は見抜けなかった。
さらなる憎悪の燃料が投下されて、僕は溜め込み続けた感情を抑えきれる自信がなくなってきていた。
「私は彼の形見である種を呑んだ。そうすれば、ずっと一緒にいられると思ったから。そんなことあるはずもないのにな、そのとき既に私は壊れていたんだよ。
初めのうちこそ何も起こらなかったが、それは日に日に私を蝕んでいった。毎夜眠る度、それが語り掛けてくるんだ。
『お前には幸せになる資格なんてない』
透夜がそんなこと言うわけないのにな。もう本当のあいつを思い出せもしないんだ……」
かつて共に同じ時を生きていた彼女は、僕よりもずっと彼に依存していたのだろう。その言葉を持ってして、はっきりとそれが解った。だって、心の種は心の鏡だから。
身内よりも大切に思っていた人を、本来の姿を思い出せなくなるというのは一体どれほどの苦しみなのだろうか。過去の彼の姿を今でも鮮明に取り出せる僕には判らない悩みだ。
(思い出せないんじゃなくて、思い出さないようにしているんじゃないか?)
そんな思考が生まれた瞬間、僕は思うより先にそれを口走っていた。
「ダメですよ、縁さん! 思い出せないからってそのままにしていたら、あなたの中の彼は一生取り戻せません! 過去と向き合って、本当の彼を思い出しましょう……? できることなら、お手伝いさせていただきますから!」
そしたらきっと、あなたのその苦しみは取り払われるはずですから……、
なんて甘い言葉を囁いた。けれどその実、僕の頭にあったのは罪の意識に苛まれて苦しみ続けてほしいという悪意だった。
……そう、それだけだ。
しばらくの間、泣き沈む彼女に肩を貸していた。
そうして、時計の長針が半分巡った頃、肩の重みがゆっくりと離れていった。
「なぁ、佐藤」
「なんですか」
「一緒に透夜の家へ来てくれないだろうか?」
僕は頷く。それが最善の方法だと信じたから。
彼女が彼の家に電話をかける間もずっと傍にいて、手を握っていた。
これで彼女が過去と向き合って、懺悔して、後悔して、罪を贖ってくれるなら安いものだと自身に言い聞かせた。
だから、これは違う。今全身を伝う脈動はそれに対する期待であって、決して恋愛的律動なんかじゃない。
****
浪川家へ出向くことになったのは翌週末の土曜日だった。
午前十時に約束をしたからと、僕と縁さんは店前で九時半に待ち合わせをしていた。
僕は待ち合わせの十五分ほど前に着いたが、手を掛けぬ間に内側から扉が開かれた。もう何分も前からこうして待っていたのだろう。
「おはよう。よく来てくれたね、助かるよ」
穏やかな声音と共に出迎えてくれたその人は、紛れもなく女性の姿をしていた。
「お、おはようございます。それ……」
明言さえしなかったものの、指示語一つで事足りてしまうくらいには明確な変化だった。彼女はすぐに察して、
「あぁ、これはね。一種のけじめだよ。あの格好で鏡子さんと透夜に会うのは、逃げのような気がしてね。違和感があるか?」
鏡子さんとは、とうにいのお母さんのことだ。
不安げに尋ねられては、思っていても口には出せない。狡い人だ。
「いえ、縁さんはそのままが一番素敵だと思います」
逃げに徹して毅然とした態度を装うよりも、怯えを隠さない手弱女の方がよっぽど。それは皮肉なんかじゃなく、紛れもない本心だった。
「そ、そうか……」
彼女は恥じらいを誤魔化すように背を向けると、ずかずかと歩き出した。せっかく女の人の格好をしていても、いつもの癖が抜けていない。
だからと言って特に何か指摘をするでもなく、僕は彼女の後をついていった。
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