過去と後悔


 その週末のこと。僕はまたバイトに入っていたのだけれど、珍しく由野さんが頭を抱えていたのだ。



「……はぁぁぁ」



 時刻は午後二時少し前。昼食のピークを過ぎたために、店内にお客さんはほとんど残っていなかった。窓から差し込む日差しもなんだか頼りない。


 とは言え、営業中にこんなに思わしいというか、だらしない姿を晒しているのは珍しい。



「どうしたんですか、由野さん。何かあったなら話くらい聞きますよ?」



 だからと言って手を貸すとは一言も言わないが。安請け合いは良くないからね。

 そんな一声さえ、彼女には救いの手だったようで藁にも縋るような顔を向けられた。



「さ、佐藤…………! 実はだな――、バレンタイン教室を開いてほしいと頼まれていてね」


「っ……!」



 繰り返しため息を吐いている彼女にその動揺は悟られなかった。


 不意打ちだったとは言っても、今はそういう季節だ。いつこの手の話がきても平静を装えるようにしなければ。この間も紫苑に迷惑をかけたばかりなんだから……。



「そうなんですか! すごいことじゃないですか、個人経営の店でそんなことをお願いされるなんて名誉なことだと思いますけど……もしかして、希望人数がめちゃくちゃ少ないんですか? 一人からお願いされたとか?」



 彼女は即座に首を振った。



「いいや違うんだ……むしろその逆だよ。この辺りの近隣住民ら二、三十人からの署名を頂いていてね」


(え、いや、それもはやそれ一種の商売になるのでは……?)



 僕の単純な思い付きなど見透かされてしまっているようで、彼女はそうじゃないのだと額を押さえた。



「私は辞退したいと思っているんだ。でも、これだけの人の期待を裏切るのも申し訳なくてな。どう、断ったものかと……」


「なんでですか由野さん。いくら今店が軌道に乗っているからと言っても、これからもそうとは限らないんですよ? 店の存続のためにも絶対その依頼受けるべきです!!」



 無礼を承知の上で、彼女の両頬を思い切り両手で挟んでやった。


 彼女は面食らったらしく、呆然と僕の顔を見上げている。

 それから二分間。時計の秒針が時を刻む音を耳にしながら僕は震えていた。



(ややややや、やっちゃったよねええええ????)



「なぁ」


「はひぃぃっ!!」



 その一声は勇敢だった心を一瞬にしてチキンへと戻してしまった。


 それでも僕は、バクバクと震え上がる心臓を抑えつけて、僕は優しい男の子を演じるのだ。



「話、を聞いてくれないか? 長い…………話になる。それこそ、今から日が落ちるまでかかるかもしれない。愚かな一人の女、由野縁の昔話を聴いてほしいんだ。君に」



  ****



 窓越しに降り出した雪が視界に映った。ああ、やめて。その景色は僕にあの日を思い出させる毒にしかなり得ないから……。


 否定も肯定も返さない中、彼女は静謐さを保ったまま続けた。



「この話を聴いた後でもどうか、いきなりいなくならないでほしい。嫌になったらそう言ってほしいんだ、どんな答えでも甘んじて受け容れる覚悟はできている。だからどうか、急に消えたりだけはしないでくれ……」



 それはたった一つの愛を乞い求める告白のようでいて、紛れもない依存だった。


 いつになく弱々しさを体現したかのような振る舞い。ガラス越しの雪にさえ掻き消されてしまいそうな希薄さだ。


 僕しかもう後がないのだと、僕の袖口を摘まんで切願する様はひどく哀れで。

 心からの憎悪をぶつけて、これ以上ないまでに叩きのめしてやりたいと思うほど呪っていたのに、



「はい、大丈夫ですよ。よし……縁さんと一緒にいるのが好きですから。それに、お別れも告げずにいなくなったりするほど、僕は恩知らずな人間ではないですよ」



 口を吐いて出てきた言葉はあまりに思いやりに満ちていた。


 みるみるうちに、彼女の頬に柔らかな赤みが差して、いくらか元気を取り戻したようだった。



「そうか……ありがとう。今からする話は誰も救われなかった事実だ。重くて、悲しくて、ひどく浅ましい。だから、覚悟して聴いてくれ」



 違う、そうじゃない。僕が聞きたかったのはもっと懺悔と後悔に襲われて、阿鼻叫喚とも言えるような悲鳴だ――いや、今じゃなくていいのか。もっと信頼させきってからの方が痛みもより増すに違いない。


 普段の自分とは似ても似つかないどす黒い感情を胸に秘めて、僕は優しい男の顔を作った。



「はい」



 だって、本当に「誰も救われなかった話」なんてことはとうに知っている。その悲壮さを、僕は知っている。

 ――大丈夫ですよ、縁さん。僕が今よりもあなたを嫌う事なんてあり得ません。だって、あなたの名前(縁)を知ったときから、僕は世界で一番あなたを嫌いなりましたから。


 僕のGOサインを合図に彼女は一息吐く。そして、彼女自身であり「浪川透夜(とうにい)」との過去を語り始めたのだった。



  ****



 ――私が物心つく頃には、既に母親は病気で他界していた。


 父と二人暮らしだったが、私の学費を稼ぐために父は必死に仕事をしていたから、私はよく祖父母の家に預けられていたんだ。そこに彼がいた。


 今は亡き「浪川透夜」という少年だ。

 小学校入学当時からの付き合いでよく遊んでいた。幼馴染みと言える仲だった。


 彼はとても心優しくて、穏やかで温厚な性格をしていたよ。

 鍵っ子で人見知りが激しかった私ともすぐに打ち解けて、笑顔で接してくれるような奴だ。だが、打たれ弱いところもあって、私が彼を励ますこともあった。彼が私の言葉で元気になるのがとても嬉しかったものだよ。


「支え合う」


 そんな言葉がピタリとはまるくらい、一緒にいるのが当たり前になっていたよ。

 


 中学生になる頃には、彼も身長が伸びて顔付きも引き締まってきていた。そのせいだろうね、彼がモテ始めたんだ。

 中身を知っている私としてはその変化は些か不思議なものだった。なんにも変わってないのに急にどうしたのかってね。


 それでも、いつも一緒にいることが当たり前になっていたからか、彼は他の女子とはあまり交流を深めようとせず、いつも私や男友達といた。


 そんな中、私の父が他界した。お金をたくさん残すために過労死してしまったんだろうという話だった。お金よりも、父さんがいてくれる方が大事だったのにとは、思っていても伝わらないものだ。


 父を亡くして今度こそ私は祖父母に引き取られた。

 そのときも彼は私の傍にいてくれて、ずっと励まし続けてくれたよ。でも、その頃の彼は心がひ弱で、ストレスのために学校を早退することも少なくなかった。


 彼に多大な恩義を感じていた私は何かできることはないかと模索して、カウンセラーを目指すようになった。


 それなのに。彼は自分のことよりも私のメンタルケアに努めた。トラウマになったり、自分の殻に閉じ籠もったりしないようにと気を張っていた。

 しかしこれ以上彼にいらぬ気を遣わせたくなかった。無理はさせられまいと奮起した私は彼に苦言を呈することにした。



『私は透夜がいなくても平気だから、世話を焼いてくれなくても大丈夫だよ』


『そんなつもりないよ。僕が一緒にいたいからいるだけだよ、気にしないで』


『でも』


『大丈夫だから』



 何を言っても埒が明かないと、私はもっと強力な刃物を手に取った。



『ずっと傍にいられてもうっとうしいの! これからいちいち世話を焼いたりしないで!』


『……分かったよ』



 彼はそのとき、寂しげな目をしていた。



 そう答えて以来、彼は随分変わったよ。社交的になっていって、二人でいる時間が目減りしていった。


 他でもなく私の発言のせいだ。それでも、そうなることが本意ではなかったから、それを物悲しく思っていたものだよ。


 

 それから月日が流れて私たちは高校生になった。その年の冬のことだった。彼は交通事故でなくなったんだ。でも、それは私のせいだった。


 ……彼が亡くなる一週間ほど前、彼は私に告白してきた。


 私は彼を兄のように慕い、誰よりも信頼していた。親族よりも近しい存在だったから、恋人だとかそんな風には考えられなくて、断ってしまった。そのとき、


『気持ちだけでも受け取ってほしい』


 そう手渡されたものが、手紙と、同封された三つの「種」だった。

 手紙の内容は「種」の育て方と裏側に記されたたった一言の愛。



  『愛してる』



 その一言にどれだけの想いが込められていたか。それが分からない私ではなかったよ。だからこそ、彼が亡くなったと聞いて私は震え上がった。私のせいで死んだと思ったからだ。

 ――だってそうだろ? 彼は突然いなくなったんだ、私が告白を断った一週間後に。


 事故の状況から誰かが自殺だと言い出して、私は告白のことを言い出せなくなった。それどころか、通夜も葬式にも行けないくらい憔悴しきってしまったよ。


 罪の意識に苛まれ、悪夢でうなされる日々が続いた末に、私はカウンセラーになる夢を諦めた。彼の未来を絶った私に、誰かの未来を紡ぐ資格なんてないとね。


 だから、よく褒められていた「料理」を仕事にしようと考えて、調理系の専門学校に進学した。それから他所で数年実務経験を積んでから、自分の店を建てた。資金は父が遺してくれた財産を元手にすることで事足りたよ。


 そして、この姿もそのときに考えたんだ。


 彼を傷付けた女の私は要らない、隠してしまおうって。男装姿で店に立つようにして、口調もそれに合わせてこうなったんだ。



 と、彼女は自嘲的な笑みを漏らした。

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