物語の幕開け
世にも甘い芳香を放つビー玉を拾った、あの雨の日。僕と由野さんが出逢った日。
物語は始まったのかもしれない。
「良かったら、雨宿りしていかないかい?」
その問いに僕は応えられなかった。
「す、すみません。遠慮しておきます」
「そうか、すまない……気を、遣わせてしまったな」
寂しそうなその声に何も返せず、地面とにらめっこを再開した。
すると、次第に彼の影が遠ざかっていくのが見えた。
この間にさっさと帰ってしまおうか。その方がどちらにとってもいいはず。
それなのに、踵を返したときに背後から呼び止められた。まさかと驚いて反射的に振り返る。
彼はよかったと言うようににっこりと笑みを浮かべ、僕の所へ駆け寄ってきた。そして、手にしていた傘をそっと差し出してくれた。
「これ使いたまえ。君、傘は持ってないだろ? 返すのはいつでもいいから。このまま濡れて帰ると、風邪引くぞ」
「はい、ありがとうございます」
傘を受け取り、彼にきちんと頭を下げる。それからさようならと一声かけてから、帰路に就いた。
彼に傘を借りたお陰で僕は風邪を引くことなく、翌週も元気に登校した。
ところがこの日。僕が庇おうとしたクラスメートがいじめの標的にされてしまった。僕が不用意に声を掛けなければ、彼がいじめられることはなかったのだろう。
――それは先週の金曜日のこと。クラスで孤立していた彼はある本を読んでいた。僕の好きなライトノベルだった。
朝の早い時間で、まだグループの彼らも来ていない。僕らを除くと他に二人しかいなかった。
弱虫な僕にはそれぐらい閉ざされた環境でないと彼に近づくことすらできない。
「なっ、何の本読んでるの?」
声が裏返ったからか、それとも、初めて声を掛けられたからか。彼は目を丸くして、一瞬だけ僕を視界に入れた。
「そ、その本面白いよね、僕は空木さんが好きなんだ」
すると伏し目がちなままで彼の唇が僅かに動いて、
「俺も……空木雪が一番好きだ」
その答えに僕は歓喜して、小学生のように飛び跳ねた。
「同じだね! それじゃあ鈴木くんはどのシーンが好き?」
そこからは僕だけが息を荒くして、彼は冷静に口先だけ動かして。だけど、オタクで楽しい有意義な時間を過ごした。でも、それはひとときの幻に消えた。
その日の放課後、彼らが口にしたのだ。
「鈴木さー、一匹狼気取っててウザいからー『更生』させようぜ?」
彼らの言う「更生」とは、気に入らない人をいじめること。僕の所属する四人グループはクラスで一番強い力を持っている。不満があっても大抵は逆らわないし、逆らえない。
過去に唯一、彼らのいじめをものともしなかった猛者もいるけれど。
今回はそうじゃないから。
「そんなこと、するほどかなぁ」
「は、なんて?」
「ううん、なんでもないや」
そうして事態は悪化の一途を辿った。
翌週には鈴木くんの鞄がゴミ箱に捨てられていた。だけど、彼らが怖くて正面切ってなんか助けられない。
彼へのいじめは日に日にエスカレートしていき、それはもう犯罪と呼べる代物になっていた。それでも僕は陰からいじめを妨害することしかできなかった。
それからさらに一週間が経過したある日、
「君は狡くて、臆病だ。真っ向から立ち向かえないなら、これ以上余計なことはしないでほしい……君とは、仲良くなれそうだったのに。残念だよ」
鈴木くんからそう言い渡されてしまった。
僕だって、そうだった。友達になれると思っていた。
でも、目の前の彼はもう笑ってくれない。眼鏡のレンズ越しに落胆したような眼を向けるだけだった。
情けない自分が嫌になり始めていた帰り道、あの店へと続く裏道が視界に飛び込んできた。
(そうだ、傘を借りていたんだった! 返しに行かなくちゃ)
思うよりも先に身体が動き出していた。
家に着いた僕は傘と財布を手に取り、自転車に跨がってあの店を目指した。
息せき切らして着いたはいいものの、扉を開ける勇気がなくて右往左往していると、店の奥から声がした。
「どうぞ、開いてますよ」
声を合図に扉を開けると、カウンターに立っているあのときの彼がいた。
「いらっしゃいま……ああ、この前の! 傘を返しに来てくれたのかい?」
「はい。この前はどうもありがとうございました。それと、この店に入ってみたくなったので」
彼に目を向けると、前とは服装が異なっていた。先日はギャルソンの制服だったのに、今日はワイシャツに黒の前掛けエプロンとジーンズというラフな格好をしている。それにしても見目麗しい。同性なのに、笑いかけられると妙に緊張してしまう。
「カウンターとテーブル、どちらにするかい?」
不意に声を掛けられるようものなら、身体が反射的に跳ね上がるほどだ。
「じゃ、じゃあ! カウンターで!!」
「では、好きな席に座るといい」
カウンターがいいな。僕は六つの席の内、右から二番目の席に腰を下ろした。
すぐにおしぼりとグラスが手渡される。
僕は渇いた身体に水分を補給しようと、グラスに口を付けた。
さっと、口の中に爽やかな甘さが広がっていき、汗だくになっていた身体中に清涼感が行き渡る。すっきりした甘さとみずみずしい香りが心地好くて、ごくごくと飲み干していた。
「っぁぁ~! これ、すごく美味しいです! 何のお茶ですか?」
「そうか、気に入ってもらえて良かった。これは、マスカットティーという紅茶の一種で、セイロンティーに香料を加えたものだよ」
「紅茶って、もっと渋くて酸っぱくて、飲みにくいものかと思ってました」
そんな歓談を楽しんでいると、彼は申し訳なさそうにメニューを差し出してきた。話に夢中ですっかり渡しそびれていたそうだが、僕は一向に構わない。
それに結局僕はメニューを決めあぐねて、彼に店の奥から甘くないスイーツを取り出してきてもらったのだから。
三種類のデザートが載せられたトレイ。バナナとくるみのマフィン・苺ソースがけの杏仁豆腐・レモンの蜂蜜漬けヨーグルトムースだと言う。
無礼を承知の上で値段を尋ねると、彼は快く答えてくれた。
大抵三百円前後だったので、一番さっぱりしていそうなヨーグルトムースを選んだ。
「さあ、召し上がれ」
スプーンを受け取り、ムースを掬い上げてドキドキしながら口まで運ぶ。
口の中に入れると、なめらかな舌触りと控えめな甘さながらも濃厚な味わいが僕の舌を喜ばせた。くどくなくて、固すぎず、絶妙な食感だった。
「とっても。美味しいです……」
「そうか、気に入ってもらえて嬉しいよ。それは、私の手作りなんだ」
「こんなに美味しいスイーツを作れるだなんて、すごいですね。尊敬します。これなら、何度でも食べたくなります、から……僕、なんか」
そこまで言ってからハッとした。ほぼ初対面の人になに愚痴垂れようとしているのだと自分を叱責するが、涙はそこまでせり上がってきている。顔を上げることはできなかった。
「…………何か、思い悩んでいることがあるようだな。今は他の客もいないことだし、よければその話を聞かせてくれないか? 誰かに話すだけでも楽になるかもしれない、気軽に話してみてくれ」
その言葉で僕の心は決壊した。どうしてそこまで素直になれたのか分からない。ただ、パンクした胸から溢れ出した思いが、取り留めもないほどの言葉になっただけだった。
口を挟む暇も与えないくらい喋り続ける僕を、彼は呆れずにじっと見守ってくれていた。
そして、僕が話し終えると、
「君はどうしたい? 私に話してごらん」
あの日、声を掛けた自分を否定したくない。
情けない自分を変えたい。
「僕は彼と……友達になりたかった。今さらかもしれなくても、彼へのいじめを止めて、それから彼と友達になりたい」
「つまり君は勇気がほしいんだな?」
僕は頷く。周りの機嫌を窺ってばかりではダメだ。自分の意見をしっかり言わないと。
彼はそっと、僕に手を差し伸べてくれた。
「そうか……君の願いを直接叶えることはできないが、その手助けはできる。選ぶも選ばないも君次第だ」
願いを叶える「手助け」という言葉に惹かれた。他人に願いの履行を委ねて、利益だけを得るなんてそんなのは違う。願いを叶えた責任も、成功も自分のものにしたいから。ただ、少し手を貸してくれるだけが、きっとちょうどいい。
「力を貸してください。彼にちゃんと謝りたいんです、お願いします」
彼は頷く代わりに店の奥からあるものを持ってきてくれた。
「君にこれを売ろう。これは『種』だ。心を育てる種だよ。種が育つごとに、育てた本人の心も成長する。種は心を映し出す鏡だ。つまり、この種を枯らしてしまうと、心まで枯れてしまう。君はそれでも……この『種』を欲するか?」
「はい、欲します」
何が育つかは僕次第だという。まるで御伽噺だ。けれど話はサクサク進んでいく。
それから種を育てるための鉢と土も合わせて購入した。
気に入った鉢植えを眺めながら僕はふと疑問に思ったことを尋ねてみることにした。
「そう言えば、実が生ったら食べられるんですか?」
「……食べられるが、店に最低一つは返すわけだし、足りないと思うぞ。もし食べる気なら、うちに持ってこい。くれぐれも勝手に食べるんじゃないぞ」
今にして思えば、この言葉は戒めだったのだろう。
このときの僕はさして、気に留めなかったけれど。
帰宅して、部屋に戻った僕は早速『種』を鞄から取り出した。そうして、両手で抱き抱えるようにそっと包み込んだ。心を育て、心の鏡ならば大切に扱うべきだと思ったから。
僕はそれに願った。
『少しだけでいい、僕に力を貸して』
そうしたら、僕も勇気を出して声を上げるから。彼へのいじめを止めて、助けるから――。
祈り終えた後は教えられた通りに水をやった。特にやることはないからと軽くなった身体を布団に預けて、眠りに就いた。
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