赦す側である限りは――。


 あの後、アキラさんに彼女の内容が記された頁だけでも切り離して渡そうとしたのだが、断られてしまった。



「オレはサリィの気持ちが知れただけで十分だ。それに、日記みたいになってんのを一枚だけ破るなんてなんか、悪いじゃんか」



 照れ笑いと苦笑いをまぜこぜにしたみたいなくしゃくしゃな笑みは、彼女の素顔なのだろうと思わされた。

 この人はこの人なりに思うところがあって、あんな行動に突っ走ってしまっただけで悪い人ではないのだろうなと思い直していると、途端に思い詰めた顔になった彼女が頭を下げてきた。



「それからごめんっ! 本当に悪かった。もし、オレの手紙のせいで怖い思いをさせていたなら、詫びをさせてくれ。警察に突き出してくれても構わないし、慰謝料が必要だっていうなら言い値を払わせてくれ……っ!」


「いりませんよ、そんなもの」


「えっ……だって、それじゃ」



 彼女は反論するように顔を上げた。そこには驚きと呆れが浮かんでいた。無理はないのかもしれない。仮にも僕は、見知らぬ他人に住所と生活時間を調べ上げられ、脅迫までされていたのだから。

 でも、でもさ。



「こ~んな不器用な人が悪人だなんて思えないんですよ。僕に悪気や敵意があったんじゃなくて、助けてほしい気持ち半分、知らせなくちゃって気持ち半分だったんじゃないんですか?」


「そ、それはそうだけど、でも……」



 彼女が言おうとしていることは分かる。悪気がなければなんでも許されるというわけじゃない。それに彼女が行ったことは被害届を出せば、罪になってしまう行為だ。許されるにしても、ただで引き下がるわけにはいかないのだろう。全く、変なところで義理堅い人だ。



「そーですかっ! せっっか~く、人がただで許してあげようと思ったのに……それなら、」



 僕は由野さんに負けないくらい悪戯っぽい笑みを浮かべ、



「アキラさんって漫画家さんなんですよね! じゃあ今出てる漫画全巻にサインしたものをください。それから、田所さんよりかはマシですけど、アキラさんも不健康そうなので、うちの店に来て、健康な食事をして行ってください! はい、これ店のチラシです! ていうか、月に一回……いや、二週間に一回は必ず店に来てください。そんで、店の売り上げに貢献してください!! …………って、これだけはさすがに欲張りすぎですかね?」



 いくら罪を許す代わりとは言え、プロのサインを要求したり、食生活や行動を勝手に設定するのは干渉しすぎなのかもしれない。そう反省して、尋ねてみたのだが……、



「「……………………っぶ。あっはっは、あはっ、あっはっっっははっはっ!!!!」」



 二人が声を揃って、哄笑した。それも、腹を抱えて、何もないところを叩く動作を取ってだ。


(……なんだよ、何がおかしいんだよ)



 キッと睨み付けた視線に気付いたのか、由野さんが口を開いた。



「いやぁ、すまないすまない。君があまりにもかわいいことを言うものだから、つい、ね。

 ――アキラさん、この子ってこういう子なんですよ。馬鹿だけど、かわいいでしょう?」


「……そうですね。本当に、あどけなくって、かわいいです。サリィが気に入ってたのも分かるかな」



 褒められているのか、貶されているか分からなかったが、その後アキラさんは条件を全て呑むと約束してくれた。


 だって、いくらその行為が罪だったとしても、待ってくれる人がいるなら許してあげたい。許す側が僕である限りはそうしたい。そう心に決めた。



  ****




 店に着くなり、由野さんはレシピを元にお姉さんのクレープを再現してくれると言った。


 僕は、彼女がクレープを作っている傍らで質問を投げかけていた。



「由野さん。田所さんの家で言ってた、お姉さんは幸せでいることが怖くて死を選んだって、本当ですか?」


「彼女は彼女なりに、彼を本気で愛していたんだろう。それでも、いや――だからこそなのか、彼女は、彼に支えられて生きていく未来が怖かったんだろう。ぬるま湯の幸せが、不安定で幸せとも不幸せとも言えない日々が、彼女にとって一番の幸せだと気付いたから。最高の幸せへと向かおうとする彼とでは、いけなかったんだよ」



 どこへ? とはとても聞けるものじゃなかった。



「――だからって、お姉さんは自分で死を選んだんですか?」


「恐らくは」



 私に断定することはできないがな、と切なそうに彼女は目を伏せた。


 なぜ、幸せを避けることが死へと繋がってしまったのだろう。お姉さんには、生きていてほしかったのに。



「そんなのって、あんまりですよ……」


「死というものは往々にして納得できるものではないさ。それが彼女の場合、他人には理解すらできないというだけだった、それだけのことだ」



 あまりにも冷たく、お姉さんを淘汰するような物言いに、僕は彼女を睨め付けた。

 だけど。そこにあったのは無力を嘆くような、彼女の死を儚むような……優しくも痛々しげな表情だった。



 ――どうしてあなたがそんな顔をするんですか。そんな顔をされてしまったら、僕は何も言えないじゃないですか。



「それでも彼女は残したかったんだろう、甘いものが苦手な君に」



 コトリ、と目の前に置かれたチャイとミルクレープ。チャイから立ち上がる湯気はシナモンとカルダモンの刺激を漂わせた。エンゼルブルーのクレープからは清涼感溢れるミントが香る。



「ミントの花言葉に、『かけがえのない時間』というのがあるそうだ。彼女がそれを知っていたかどうかは定かでないが、遺書の代わりにこれを遺したんだ。そう思っても差し支えないだろうさ」



 幸せであることが苦痛だったお姉さんが唯一遺したレシピ。


 天然色素で薄い青に着色されたミルクレープ。クリームは白色だった。



「いただき、ます……」



 一口頬張ると、微かな甘みと同時にサァーっとした刺激が鼻を突き抜けた。


 それはまるで六月の蒸した梅雨に嗅ぐ、二月の凍る匂い。

 舌を滑る生クリームとクリームチーズは、ねっとりと酸味をもたらしてくれる。

 


 ねぇ、お姉さん。



 僕は今でも、甘いものはそんなに得意じゃありません。食べられるのは、由野さんが作ってくれる甘さ控えめなお菓子くらいです。だけど、



「どんなに甘くても、食べたいと思えるのはお姉さんのクレープだけなんですよ…………っ」



 あの日の匂いが繰り返される。


 蕩けるほどに甘くって、噎せ返りそうだったお姉さんのクレープ。

 だけど、ほんのちょっぴり辛くて苦かったチャイミルクティー。


 ――どうして平らげられたんだっけ?



「ぁ、ぁぁ……おねえ、さん…………!」



 脳裏に浮かぶ柔らかな笑み、跳ねる髪、甘い声。

 それは、




  『好き』




 ただそれだけだった。


 もう戻らないあの日々を、言えなかった後悔を繰り返さないでおこうとどれほど悔やんでも、結局僕はまた繰り返してしまうのだろう。



「佐藤……泣けるなら、好きなだけ泣くといい」



 自分の胸にそっと抱き寄せてくれる手は、しとやかでふわふわだった。


 由野さん、あなたはいつもそうやって甘やかしてくれるから、僕はつけあがってしまう。

 いつにも増して慈しみに溢れた彼女へ心の灯がともり、かけたときだった。



「その代わりに、一つ聞いてくれまいか」



 僕が応えるよりも先、事後承諾とばかりに彼女が語り始めた内容にじんわりと滲みかけていた目からスゥッと熱が引いていく。



 由野さんとお姉さんは生前に知り合っていた。それもこの店で。時期は昨年。就職活動に失敗して、就職浪人が確定した四月頃のことだったそうだ。


 お姉さんはこの店に辿り着き、由野さんに悩みを打ち明けた。

そこで由野さんは、どんな状況にあっても幸せを見つけられ、幸せを感じられるという「幸せの種」を彼女に譲渡したのだと言う。

 それで状態がよくなればそれで良かった。けれど、事態は悪化していった。


 数ヶ月して店を訪れたお姉さんは「幸せ」に縛られていた。

 せっかく、今のこの状態を愛せるようになったのに、周りは自分の価値観とは異なる「さらに大きい幸せ」を要求してくる。他にも、周りは有能な人間ばかりで何もできない自分が嫌になるのに、周囲は田所に囲われて生活できている今のこの状況を、これからの「専業主婦になれる」未来を幸せだと謳い、押し付けてくる。

 それが辛くてたまらないのだと。


 だからもう一度、「幸せの種」を売ってほしいと懇願されたという。

 まだ一粒目の成果も出ていないのに二粒も売ることはできないと初めは反対した。しかし、


『私にはもう、頼れる術が他にないんです……どうか、お願いです。幸せを、ください』


 そう乞われて、由野さんは二粒目を売る他なかったそうだ。

 これで彼女がどんな形であれ、幸せになれるなら……と。


 その思いに反して、彼女は半年後に亡くなったのを知った。しかも、自殺だという。

 


 知らぬ間に由野さんは両手で頭を抱えていた。顔はひどく歪んでいて、端正な顔立ちがまるで分からなくなるくらいに涙や鼻水でぐしゃぐしゃだ。



「もしあのとき、私が二種目を売らなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。もし。私が本当のカウンセラーであったなら……せめて、彼女の悩みの根本を聴き出せていたら――」



 その後悔と自責の念があったからこそ、僕から彼女の名前を聞いたとき、協力することにした。

 後悔ともう一つ、別に浮かんだ疑念を確かめるために。


 その疑念は田所さんの家に着いたとき、確証に変わった。

 密かに掘り起こした根は一つしかなく、二粒目の種はどうしても見つからなかったというのだ。そこである仮説が、由野さんの中で浮かんだ。



(彼女は二粒目の「幸せの種」を呑んだのではないか?)



 そう考えると、全ての点が線で繋がった。

 彼女が幸せになるために田所との別離ではなく、自らの死で人生を清算させたこと。

 それは他でもなく、「今」の幸せを守るためだ。


 彼女は種を呑んだことによって、幸せに取り憑かれてしまった。これから先、幸せになれるかもしれないために今、我慢して生きることよりも、今の幸せを永遠にするために……。



 由野さんが語ったことは今となっては確認のしようもない、あくまでただの憶測だ。


 それでも、彼女が以前語っていた「種を食した人に災厄が訪れる」の意味が分かった気がした。



「あそこでもそう言えば良かったのかもしれない。いや、そうに違いない。そうしたら、彼らは自責の念から解放されることができたのだから……だけど、どうしても私にはそれができなかった。自分のせいで他人が亡くなったという事実を受け容れたくないんだ」



 彼女は何一つ冷徹な女性ではなかった。

 彼女は何も頭脳明晰な探偵ではなかった。

 自分自身の言動に悩まされるただの人で、女だったのだ。


 それなのに。僕は身勝手にも、彼女に完璧人間の偶像を造り上げ、崇め奉っていた。そのことを、その愚鈍さを今になって知らしめられた。



 目の前で泣き沈むこの人は、僕に手を差し伸べてくれた人。二人を結びつけた人。そして、

 ――僕の初恋の人を助けられなかった一人。



 かつて憎んでいた(お姉さんを自殺に追いやった)対象だったかもしれない。

 それなのに僕は、このどうしようもなく脆弱な彼女を思い初めてしまうのだろう。


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