雨とクレープとお姉さん

  ☂☂☂☂



 あれは三年前の、中学二年生のときのことだった。


 学校からの帰り道。土砂降りの雨に打たれた僕は、視界に入ったキッチンカーの軒下に滑り込んだ。

 ずぶ濡れになって変色した制服を絞ると、ぼたぼたと大粒の水滴が落ちてくる。



「――あら、愛らしい濡れねずみさんね」



 そう笑いかけてくれたのはクレープ屋さんのお姉さんだった。キッチンカーの中にいた彼女はマロンクリーム色のふわふわな毛先を揺蕩わせながら、クレープを焼き始めた。



「……愛らしいなんて、言われる年頃でもないんですけど」



 中学二年生になって梅雨入りしたばかりのその日は、天気予報で晴れだと言っていた。だから傘一つ持たずに家を出てしまった。その結果がこのざまだ。

 首筋に張り付いた髪から水滴が背筋を伝って、気持ち悪い。おまけに、夏服に変えたばかりだったこともあって、半袖のカッターシャツが肌に張り付いていた。日本の梅雨という怪物は天気予報にも勝るらしい。ていうか、ちょっと寒い。



「そうかしら? 梅雨入りしたばかりだっていうのに、傘もレインコートも持たずに出かけてしまうなんて、ドジっ子で愛らしいと思うけれど……」


「うぐ……」



 それを言われたら返す言葉もない。


 お姉さんはふんふんと軽やかに鼻歌を歌って、焼けたクレープ生地を鉄板から外していく。

 その器用な手付きは見ているだけで胸が弾むものだった。



「それに、愛らしいのはいいことじゃない。それってね、一目見ただけで相手を心地好い気持ちにさせられるってことなのよ。すごく、素敵なことだと思うわ」



 ふふっと静かに微笑む声がなんだかくすぐったい。お姉さんの視線は手元に向いていて、直接僕を見ていたわけではない。それなのに、僕のことを見つめてくれているように思えた。



「それを言うならお姉さんの方が……」と言いかけた口を押さえて、胸の奥に仕舞い込んだ。

「可愛い」なんて言葉は軽はずみに使うものじゃない。しかも初対面で、それも年上の女性に言うのは憚られたから。



「それよりもあなた、服も髪もびしょびしょよ。タオルを貸してあげるから、ちゃんと拭いていきなさい」



 お姉さんはキッチンカーの前にあった椅子を指差した。そこに座りなさいということだろう。



「……ありがとうございます」



 僕はタオルを受け取ると、それを頭に被せて髪に染み込んだ水気を拭き取っていく。



「タオルはちゃんと返してね」



 彼女はタオルを渡してすぐにキッチンカーの中へ引っ込んだが、くるりとスカートを翻すと、カウンターに肘を着いてそこに顎を乗せた。



「ねえ、可愛い濡れねずみさん」



 なんですかと言葉を挟むのも無粋に思えた僕は黙って続きを待ってみた。



「こんなところにクレープを置いておいたら、お腹を空かせたねずみさんに食べられちゃうわね。雨だもの」



 と、今作ったばかりのクレープを目の前のカウンターに置いた。



「それに……きっと、身体を冷やしているに違いないわ。だからね、このぬっくぬくのミルクティーも飲み干されちゃうと思うの」



 コト、と湯気の立つ紙コップも隣に並べられる。ふわりと、独特なシナモンの香りが舞い上がる。



「でもね、私はそれぐらいで怒ったりはしないわ。だって、ねずみさんのすることだもの。怒るなんてバカバカしいでしょ?」


「そう、ですね」



 僕は吹き出しそうになるのをグッと堪えて、笑みを作った。


 踵を返して中へ戻っていったお姉さんの耳は、ほんのり赤く色づいていた。


(なんて可愛い人なんだ)


 もちろんそんなことはおくびにも出せないが。



 クレープとミルクティーの紙コップを手に、改めて椅子に腰掛けた。



「いただきます」



 これほど、この言葉の重みを感じ入るときはないだろう。

 はむっと一口頬張ると……、



「あまっっ」



 慌ててミルクティーを流し込んだけれど、それも相当な砂糖が含まれていたようで口の中は甘茶を飲んだ後のように甘ったるくなる。ただ、僅かに残る香辛料の刺激が程良かった。




  ☂☂☂☂





「――という出逢いがあって、僕はお姉さんが働くクレープ屋さんにちょくちょく通うようになったんです」



 でも、彼女はもうこの世にはいない。あの甘ったるいクレープを食べることはできないのだ。



「感傷に浸っているところ悪いが、それのどこが根拠なんだ?」



 しまった。すっかり思い出に浸ってしまったせいで、大事なことを言い忘れていた。



「クレープ屋さんに通っていたとき、お姉さ――いえ、深山さんに言われました。


『甘いものが苦手な君でも、美味しく食べられるクレープをいつか作ってあげるから、期待して待っててね』


 って。だから僕は……どうしても謎を解き明かしたいんです」


 

 彼女の作ったものが二度と食べられないのだとしても、彼女が僕に遺してくれたものがあるかもしれないなら、僕は何をしてでもそれを手に入れたい。いや、そうしなければならない。


 いつか、幸せを掴むことを怖れる一条さんに説教したように、今度は僕が向き合うんだ。

 胸の奥でそう堅く誓った。



「……………………」



 ……とは言え、由野さんが協力する義理はない。義理もなければ、メリットも大してない。長考&沈黙も仕方ないものなのだ。それだけ無茶なお願いをしているのは重々承知だ。


 だから断られたら、最悪僕一人でも謎解きに乗り出す心積もりでいる。さっきまでは躊躇ってばかりいたが、彼女に話すことで決心がついたのだ。



 それから五分ばかり沈黙が続いた。これ以上待っていてもいい回答はなさそうだと、申し出を撤回することにした。



「あのー……無理なお願いだっていうのは重々承知の上なんで、断ってもらっていいです、」


「おい、佐藤」


「は、はいぃっ! なんでしょう……?」



 背筋が震え上がるくらい無感情な声だった。いや違う、仄暗く、呪術を唱えるような声だ。



「その女性は深山さゆりという名前で、キッチンカーのクレープ屋に務めていた。そして、君に甘くないクレープを作るのだと約束した、そうだな?」


「え、ええそうですけど……」



 人を呪わんばかりのトーンで尋ねてきたのは単なる身元確認。僕の一人語りから抜粋した個人情報の確認というべきか。


 表情や態度と行動がちぐはぐなその様に、僕はすっかり拍子抜けしてしまっていた。

 結局何が言いたいのかと、首を傾げかけたときだった。



「…………いいだろう、その話に乗ってやろう。ただし、それがどんな結末を迎えようとも、君だけはけして目を逸らすな、拒むな。それが条件だ」


「はい! ありがとうございますっ」



 僕はそのとき、彼女の吐いた言葉の意味をこう解釈していた。


 どれだけ悲惨な真実を知ることになろうとも、現実を受け容れろ。

 過去を受け容れて強くなれと、そういう類いのものだとばかり思い込んでいた。



 それがまさか、あんな結末を迎えるだなんて…………知っていたら、僕はを嫌いになれたのだろうか。

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