開花のとき
治安のいいこの国だって生きていることは当たり前ではない。当然のように死が訪れて、その日は突然やってくる。
約七十年前の亡者だってそうだったように。
今日は一条さんの来店から一週間経って八月十五日、終戦日だ。何もこんな日まで働くことはないと思うのだが、由野さん曰く「こんな日だから営業するんだ。今日はお盆の最終日で食事を外で済ませようという人が多いからな。かき入れ時だよ」とのこと。僕も家族からきっちり了承を得てしまった。解せぬ。
そういうわけで今日は、十時から一時までと五時から八時までのダブルシフトだ。
そろそろ客足が伸びそうな正午前という頃。カラリと扉の開く音がして、僕は身構えた。すると現れたのはいつの日かに種を購入した彼だった。その手には見覚えのある鉢植えを抱えている。
「こんにちは。君とは、久しぶりだね」
「はい、お久しぶりです。いらっしゃいませ」
「こんにちは、氷川さん」
厨房の方からすっとやって来た由野さんは健やかな笑顔で彼を迎え入れた。ていうか、彼の名前、氷川って言うのか。初めて知った……しかも二人はなんだか親しげで頬に力が入った。
「氷川さん、雰囲気が変わりましたね。何か心境の変化でもありましたか?」
「最近よくそう言われます。俺、好きな人ができたんです!」
これは驚いた。一人称が僕から俺に変わっている。これも種が為す心境の変化だろうか。
以前の彼は、否定され、傷付けられた直後だったからか、軟弱な印象を抱いたけれど、今日は清々しい空気を纏っている。
「そうでしたか、おめでとうございます。好きな人ができてからどうですか、自分自身で何か変わったと思うことはありますか?」
「はい! その人を好きになってから、相手の話に親身になれるようになりました。他にも、好かれたくて見栄を張ったりすることも、その人だけ特別扱いしてしまいたくなるような気持ちも、その人のことを考えるだけで胸がいっぱいになる気持ちさえも分かってしまうんです。自分の心に花が咲いたみたいに、日々が彩られたものに変わりました」
背筋を正し、由野さんの目を捉えながら会話をしていた。そんな彼が持つ鉢には、小さな花が二つ咲いている。
その花を愛おしそうに見遣る彼の横顔があまりに蕩けていて、つい口を挟んでいた。
「あの、氷川さんは幸せですか?」
「はい、幸せです」
「氷川さんが幸せで何よりです。花、何が実るか楽しみですね」
その語り掛けに彼はさらに口元を綻ばせた。
ここを訪れた人が幸せになってくれるのは嬉しい。特に何をするでもない僕だが、少しでも誰かの役に立てているってそう思えるから。
「ありがとうございます、また来ますね」
彼はショーケースにあるクルミのマフィンだけを購入して帰っていった。目的は報告だったに違いない。
さて、次会うときに彼の恋は成就しているだろうか。
今の彼は誠実な人だから、誠心誠意込めて相手に想いを伝えたら、恋は叶うように思う。単純だけど、相手の為に由野さんの下で習い事まで始めたのだし(あのときの内緒話は料理指南のお願いだったと由野さんから聞いた)。
ただ彼は少々、思い込みが激しいところがあるから変な方向に突っ走らないといいけれども……今まで執心することがなかった分、夢中になるあまり、相手に嫌われる言動を無意識に取るかもしれない。
気をつけてくださいね、氷川さん。
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