これが恋だって言わないなら、

 一条さんという摂食障害の女性が二度目の来店をしてから、三日後のことだった。

 彼女は息を荒げて、やや興奮した様子で店にやってきた。



「あ、あのあのっ!」



 由野さんが席に誘導してから「どうかしましたか」と声を掛けると、食らいつくように話し始めたのだった。



 ――種に水をあげたら、翌日には芽が出ていたので軽やかな気持ちで出社したんです。でも、また過食になってしまうのが怖くて、昼食を食べるのに躊躇っていたんです。

 そうしたら会社の同僚の男性が……、




『昼食は食べないのか』



 私は食欲がないからと意地を張ってしまったんですが、そのときにお腹の音が鳴りました。



『ダイエット中かもしれないが、飯はちゃんととらないと身体を壊すし、すぐに痩せるわけでもない。それに、また会社で倒れられでもしたら迷惑だ』



 心配してくれているのか、貶されているのか分からなくて、最初は腹が立ちました。でも、



『今から食欲が湧く店に連れて行ってやるから、ちゃんと食え』



 それで分かったんです。彼は不器用だけど私のことを心配してくれているんだなって。


 彼は私の腕を引くようにして、強引にお店に連れて行きました。


 その店のご飯は、出汁の利いた健康的で優しい味付けで心暖まるものでした。実家のお母さんがつくってくれたようなそんな温かさです。


 出された定食は食べ切れて、その後吐いたりすることもありませんでした。もちろん、このお店で食べた後もないんですが、自分で食事したときはどうもダメみたいで……。


 ただ、こんな風に心配してもらえたのは家族や由野さんたち以外では初めてで、嬉しかったんです。私のことを気にかけてくれる人がいると思えただけでとても気が楽になりましたから。




 ひとしきり語り終えた一条さんはにこりと微笑んだ。心なしか、三日前よりも肌艶が綺麗になった気がする。たった数日で劇的変化を遂げることはそうそうないし、体型がスリムになったわけでもないから、ただの思い過ごしかもしれないけど。



「それはいい傾向ですね。あとは、ストレスの捌け口があればいいんですが」



「あの、それでですね。私、由野さんのアドバイスを受けてから、彼に摂食障害のことをそれとなく相談してみたんです。そうしたら、


『つまり、ストレスのせいでやけ食いしたり、食欲不振になったりしたってことか』

 正確には違いますが、そこまで話せないので私は頷きました。


『それなら、そこまで自分を追い詰める前にこれからは俺に相談しろ。倒れられるよりずっといい』



 なんだかんだ言って、私の面倒を見ようとしてくれる彼は照れ屋なだけなんでしょうね。今まで気付けなかっただけで。

 ただ、それでも私は人に甘えるのが苦手でした。迷惑になるからと渋っていると、痺れを切らした彼がこう断言してくれたんです。


『お前の食生活が改善されるまで付き合ってやる。強制はしないが、お前の健康状態が良くないのはいつも見てるから分かる。辛いなら早いうちに頼れよ』



 上から目線な物言いなのに、さらっと私のことを気にかけてくれてるって言われたせいで、すごく胸の辺りがぽかぽかしました。他の誰でもなく、私だけに向けられた言葉です。

 それに普段、他人に干渉なんてしないはずの彼がここまでしてくれることに「特別な意味」でもあるのかな、なんて妄想を抱いてしまって……気付いたら、頷いていました。



『うん。じゃあ、お願いするね……』


『頼られるのって、案外嬉しいな』



 そう笑ってくれた彼はまるで、いつもと別人のように爽やかでキラキラ輝いて見えました」 



 …………由野さんのサラダに対して、彼女の返答は豚骨ダブルヤサイマシマシニンニクカラメだった。そんなしょうもないことを考えてしまうくらい、長話を聞いているのは辛かった。


 男は会話を情報と捉えていて、女は会話をコミュニケーションやストレス発散と捉えているとか、聞いたことがあるがそういう理屈だろうか。現に、由野さんは真面目に聞いていたようだ。



「心配してくれて、頼れる人がいるというのはいいことですね。少しずつでいいので、気を許したり、甘えたりしてみてもいいのではないでしょうか」


「そう、ですね。これからは人に甘えるというのもしてみようと思います」



 由野さんは三日前と同じように、問い掛ける。



「ところで夕食はもうお済みでしょうか? もしまだでしたら、夕食を召し上がって行かれませんか? 本日のおすすめは鶏釜飯定食です」


「はい、お願いします」



 数十分後には、バイト中の僕の胃袋さえ鷲掴みにするほどの定食がやってきた。


 鶏釜飯・野菜たっぷりのポトフ・鶏肉のオーブン焼き。

 ご飯は艶やかで出汁の香りがぷんぷんしている。ポトフは柔いながらも爽やかなハーブの香りを漂わせている。メインのオーブン焼きはそれはそれはもう涎が溢れそうなほど、スパイシーな香りと、パリッと焼けた皮が……あぁ。


 それを目の前で食べているのを見せられるのは拷問に近かった。



「ん、美味しい……」



 でも、このんんわりと綻んだ顔を見たら、そんな私怨は吹っ飛んでしまう。


 食べることが障害になっている彼女がこんなにも美味しい顔をしているなら、それより優先することはない。だって、美味しいってことは幸せってことじゃないか。


 過食にしても、拒食にしても、きっと食べ物を美味しく感じられなかったはずだ。それは、食べることが生き甲斐だった彼女にとって何よりも辛かったことだろう。だからこそ、回復してから食べるご飯はとびっきりに美味い。



「……っ……ん」



 彼女はほろほろと涙を流していた。


「彼」に話を聴いてもらい、さらにその喜びを僕らに話して心が満たされた。摂食障害で「食べること」との距離を見失っていた分、その感動は倍増してしまったのだろう。


 由野さんがサービスで、食後のアイスティーを運んでくる頃には、一条さんは夕日のような笑顔になっていた。


 彼女は今度もすっきりした顔つきで退店した。だから、次に彼女が店を訪れるときは嬉しい報告を土産にしてくれると、身勝手な期待を押し付けていたのだ。

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