病弱な彼女と雨やどり


 この頃、梅雨も終わったというのに一週間ほど雨が降り続いている。せめて、今週末までに雨が止んでほしい。そこまで雨が嫌いでなくても、長期の雨は人を不快にさせるものだ。例に漏れず、彼女もご機嫌斜めだった。



「なあ佐藤。雨の日は、雨宿りに喫茶店なんかに寄るものじゃないのか」


「突然の雨ならそうですけど、こうも降り続いているんじゃあ傘は持ってるでしょうし、必要に駆られなければ、わざわざ外出する気にはなりませんよ」



 苦笑気味に答えると、彼女は一層不機嫌になり、ぶつくさと文句まで言い始めた。



「雨なんて嫌いだ。湿気で髪がべたつくし、買い物も億劫になるし……」



 こんな子どもっぽい由野さんは初めてかもしれない。いつも毅然に、沈着を装っている彼女が僕にだけに見せる一面。そう思うともう少し堪能していたいが、そろそろ営業時間だ。そうも言っていられない。



「夜になったら少しは雨も収まるんじゃないですか? それに準備時間も終わりますよ、そろそろ準備にかかりませんか?」



 そう促してやると、彼女はハッとしたように厨房へと駆けていった。


 さて、僕は僕で任された仕事をこなしていくか。

 僕が店に来て一番にする仕事は、心の種の世話だ。


 心の種と言っても、この店で育てている種には大きく分けて二つある。


 一つはものが生る「樹」。

 もう一つは、何も生えてこない「種」だ。


 さらに部類分けすると、「心の種の生る樹」「心の実の生る樹」。最後の一つだけは不明で、彼女も僕も「種」と呼んでいる。いつしか芽生えることを祈って、そう呼び始めたらしい。


 樹と種の世話は水やりとたまに専用の肥料を与えることだ。

 水やり自体は大して重要ではないらしく、「真心込めて世話をする」という行為自体に意味があるとか。店で出しているスイーツに使用しているのも、これから生った果実だ。

 定期的に収穫するためにも、僕にこの仕事を任せたそうだ。由野さん曰く「君のように素直な少年が育てた方が樹も健やかに育つだろう。それにその方が客ウケもいい」とのこと。



 その他の仕事は、店の内外問わず掃除・皿洗い・ストックの点検・接客・レジ打ち・後片付け・たまに買い出し……らしい。


 働き始めてまだ日が浅い僕は店が暇になると、あらゆる場所の掃除をさせられる。そのため、閑古鳥が鳴く状態だけは極力回避したいものだ。



 由野さんはディナーの仕込みが終わり、僕も掃除が一段落して一息つき始めた頃だった。

 それまではしとしとと穏やかに降り続いていた雨が、窓を打ち付けるにわか雨に変わりだした。気になって窓辺から見上げた空模様は鬱を彷彿させる。



「この雨じゃあ……電車も止まってそうですね。帰れるかな」



 自転車こそ、店の裏手にあるガレージに置かせてもらってはいるが問題はそこではない。どうにか送ってもらうことはできないかと上目遣いを試みてみるが……、



「すまないが私には店があるのでな。雨が止むことを祈っているよ」



 他愛ないやりとりをしていると、カラリと店の扉が開く。咄嗟に振り返り、笑顔で迎えた。



「いらっしゃいませ」



 入店してきたお客さんは色々な意味で線の細そうな女性だった。ただ、礼儀正しいのか、僕のお辞儀にお辞儀で返してくれた。



「いらっしゃいませ。お席はカウンターとテーブル、どちらになさいますか?」



 滅多にないお客さんの反応に戸惑い、リアクションできずに固まった僕に代わり、由野さんが応対してくれた。



「か、カウンターで……」



(この人、天気痛持ちなのかな?) 



 メニューを手に取る傍ら、思わずそんなことを考えてしまうくらい彼女は元気がない。萎れた花のようだ。ほんの二秒くらいだったが、扉から入り込んだ空気はじっとりと重く粘ついていた。それは茹だるような暑さと喩えてもいい程度のものだったのかもしれない。


 由野さんは僕にそうしてくれたように、とかく生気のないお客さんへマスカットティーを差し出した。



「どうぞ。すっきりした甘さで飲みやすいですよ」



 彼女は黙って頷き、ちびちびとそれを飲んでいく。深く腰掛けられた椅子からして、長居するつもりだろう。運行休止の電車待ちとかだろうか。


 それにしても……彼女の肌は透き通るように青白い。その上、やけにほっそりした体格で、頬は痩けている。



(放っておいて大丈夫なものだろうか?)



「よろしければ、お食事はいかがですか? 食欲がなければ、サラダや雑炊などもお作りしますが、どうでしょう」



 由野さんも似たようなことを考えていたらしい。なんだかんだ言ってお節介焼きめ。



「じゃあ……雑炊をお願いします」



 相変わらず、芯のない消え入りそうな声だった。



「では、トマトと玉葱の雑炊などはいかがでしょう?」


「それを……お願い、します」



 それから十数分ほど経つと、由野さんが一人用の土鍋を持って戻ってきた。


 もわぁんとした蒸気と共に出汁の香りが広がる。



「どうぞ、お召し上がりください」



 目の前に置かれた土鍋を前に、彼女は手を合わせて「いただきます」と言う。律儀な人だ。

 レンゲで粥を掬い取り、ふうふうと粗熱を取ると口に放り込んだ。二口目以降は少しずつレンゲを進める速度が上がっていた。そして全て食べ終わった彼女は、



「ご馳走様でした、美味しかったです」



 小声だったが、確かに微笑んでくれた。



「電車が、運行休止になってしまったので、それまで時間を潰そうと思ってここに入ったんですけど……それまでここで待たせてもらっても、いいですか?」



 彼女の殊勝なお願いに乗じる形で、囁くように由野さんは提案する。それは催眠術の如く。



「それでは……暇潰しも兼ねて、日々のストレスや愚痴を吐き出してしまうのはいかがでしょうか?」



 彼女は由野さんのおかしな提案に目を丸くしたものの、何かを悟ったように語り始めた。



「私は……今の自分が嫌いです。

 今日、仕事の途中に貧血と栄養失調で倒れてしまいました。社会人失格だと呆れていた帰り道、この悪天候で電車が止まってしまったので、雨宿りと暇潰しに喫茶店に入ろうとしました。でも、みんな考えることは同じようで、混み合っていました。疲れていた私には却ってストレスになりそうで……落ち着ける場所を探していたら、ここに着きました。

外観から落ち着いた雰囲気で、静かそうだったので入ってみたら、本当にとてもいい店でした」


「ありがとうございます。それから……貧血と栄養失調で倒れたと、おっしゃっていましたが、原因に心当たりはありますか?」


「はい……。恥ずかしながら、食生活が良くなくて。ダイエットを始めてから、あまり食事を摂らなくなったんです。それを続けていたら胃が小さくなって……だんだん食べるのも面倒になってきてしまって、そのうち食べ物を受け付けなくなりました。

そのせいで、倒れてしまうのに、どうにもできない自分が嫌で、変えたいんです」



 胸元をグッと握り込んで、細々と身の内話を語る彼女だったが、僕は違和感を覚えた。



「あれ、でもさっきは雑炊完食できてましたよね?」



 そ、それはその……と顔を覆う彼女の様子にやってしまったと猛省するも、由野さんから出てきた言葉は叱責ではなかった。



「お客様のおっしゃることを疑っているわけではありません。ただ、彼も言っていたように食べられるものは食べられるのではないでしょうか? 無理に『一日三食』『栄養補給』と義務のように考えずに、好きなものだけでも構いませんので、一日に一度は何かを召し上がるようになさってはいかがですか?」



 お客さんは由野さんの言葉に救われたらしく、手を握って「ありがとうございます……」と繰り返していた。


 それからしばらく経って、落ち着いたお客さんがスマホで運行情報を確認すると、運行が再開していたようだ。


 痩身の女性は会計を済ませて、店を後にした。




「彼女は重度の拒食症だ。あれは精神的なものが関与しているだけに、治すには時間がかかる。すぐに解決するだなんて思わない方がいい」



 安直な僕は、今日食べられたからもう治ったんじゃ? なんてことを考えていたが、そんな簡単なものではないらしい。



 翌週の木曜日、バイト終わりに由野さんを花火大会に誘ってみた。しかしながら、予想通りの答えを返されてしまった。



『すまないが、私には店があるのでね。君はあの件で親しくなった友人たちと楽しんでくるといい。案ずるな、ちゃんとシフトは空けておいてやるから』



 と。たまには彼女も骨休めが必要だと思ってのことだったのに。まぁ、下心がなかったわけでもないけれども……(ぶっちゃけた話、由野さんの浴衣姿見たかった)。


 実は人生初のデートのお誘いはこうして無残に散ったのだった。

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