臆病少年
彼が帰ってから、新たな客も来ないことだし店終いに取りかかっていた。
「由野さん、種を食べて大惨事になったって話、本当ですか?」
彼女はほんの一瞬だけ眉をヒクつかせたように見えた。だが、それを払拭するように鼻でせせら笑った。
「そんなわけあるか。嘘に決まっているだろう。ああでも言わないと、勝手にアレを食べる輩がいるからね。忠告はしておいた、後は自己責任だ。安全も保証できないのに、勝手に食べることを許すわけにもいかないからな」
「どうして食べられると困るんですか?」
「せっかく調理のサービスを行っているのに、勝手に食べられては利益が減ってしまうだろう。それを機に、常連客になってくれるかもしれないしな」
商いの鑑みたいなことを言っているが、動揺は誤魔化せていない。それに、彼に忠告したときだって、苦渋を嘗めたような顔つきをしていた。
きっと「何か」はあったんだろう。けれど、今の僕にはそれを追及する権利も義務もない。
「そう言えば、ここって精神が病んでいるときに足を踏み入れるって、彼が言っていたんですが、彼もそうなんですか?」
「そうだな、君の場合は『抑鬱』の傾向が見られた。自己評価が低く、誰かに助けや救いを求めている者は、その前段階である可能性が高いんだよ。だから私は、君が前向きになれるような対応を心掛けた」
(あれで?)
その思いが顔面に出てしまっていたらしい。彼女はあからさまに眉を顰めた。
「失礼だな。過度に優しい態度を取っても、君が依存的になるばかりだからある程度、自分の力で成し遂げてほしくてああしていたんだ」
「そうだったんですか。なら、彼はどうなんですか?」
「彼は『対人恐怖症』かと思ったが、どちらかと言うと、『強迫神経症』の気が疑われるな。自分に対しての自己評価が低いようにも思えたが、あれは他人から言われたことを気にしすぎている故の言動だ。ある考えがどうしても頭を離れないことを『強迫観念』と呼ぶ。まだそこまでは至ってないが、進行すると、日常生活に支障を来す。今のうちに対処しないとだ」
よくは分からない。けれど……、
「な、なんだ? 急にこちらを見つめてきたりして……」
「いえ、その。由野さん、えらく詳しいなぁと思って。精神分析学でも学んでいたんですか?」
彼女の表情がみるみる強張る。しかし、それは僕に向けられた悪意や敵意ではないようで、必死に取り繕って答えようとする。
「昔ね、人の行動原理や心理学というものに興味が湧いてね。図書館なんかで、本を読み漁ったりしたもんだ。ただあれは趣味の範疇の過ぎなくて、素人に毛が生えた程度のものだよ」
それでも彼女の態度や仕草は胸に迫る何かがあった。唇を噛んで、必死に耐えているのがあからさまで。
本当なら、その痛みに手を差し伸べて、「どうやって解決しようか」とか「和らげようか」とか踏み込んであげるべきなんだろう。
だけど僕は。
ただの弱虫な、臆病者だから。
その気付きには蓋をして、「そうですか」と薄笑いを浮かべた。
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