【KAC20218】尊いの意味はそれぞれ違う

木沢 真流

なぜ殺した?

 土砂降りの雨はさらに勢いを増し、いまだ止む気配は無い。時折混じる稲光は、大地を這う人間にまるで雷神が怒りに震えているかのようだった。

 二人の男が向かい合って立っている。

 その距離はお互いがようやくその存在を確認出来るほどの間合いだった。しかし降りしきる雨のせいで、お互いの表情はよく見えない。その地面を叩きつける大雨の怒号の中、男の叫び声が轟いた。


「オーヴィッド、どうして——。どうして殺した? 私の尊いマーマを」


 その声色は表情を伺わなくてもよくわかる。抑えきれない怒りに我を忘れている心からの叫びだった。

 オーヴイッドと呼ばれた男は微動だにせず、頭からこぼれ落ちる滝のような雨粒を、その顔面に垂らし続けていた。


「君のマーマは、私にとっても尊い存在だよ。殺すつもりは無かった」


 ゴロゴロと世界を揺らすような雷鳴が轟く。ちょうど男の理性が弾けるのと同じタイミングで。


「尊いだと? ふざけるな……じゃあ何で殺したんだよ! 殺してやる。お前なんか」


 男は懐に収めたいたナイフをとりだすと、オーヴイッド目掛けて走り出した。そして胸元目指して思いっきり突き刺した。それを静かに受け止めるオーヴイッド。瞳からこぼれ落ちる雫は、雨粒なのか彼の涙なのか、もうどうやっても区別できない。


「ただ増えたかったんだよ、ヒュルス。私はそれだけで良かったんだ。君のマーマが亡くなったのは私も心苦しく思っている、それだけは信じてくれ。私にとっても尊い存在だったということを」


 それだけ言うとオーヴイッドはバタリと倒れた。その重みでアスファルトを満たしていた水面がバシャンと音を立てて弾けた。

 じわりじわりとオーヴイッドの周りを満たしていた雨粒が、赤く染まっていった。ヒュルスは肩で息をしながら、その背中を見下ろした。自分の愛しき者を死に至らしめたその存在を。はあはあ、と荒い息を吐きながらその瞳はまだ狂気の色を消さずにいた。これで終わりではない、こいつを殺しても同じ連中は沢山いる。そいつらがまた我々の大切なものを奪いにくるだろう。そしてまた悲しみが生まれるだろう。この憎しみを終わらせるには私たちが身を守る手段を見つけなくてはならない。彼らの侵入を防ぐ、シールド、つまりワクチンだ。


***


 ウイルスとは遺伝情報のみを持った物質で、生き物ではないというのが定説です。その歴史は深く、この地球に生命が生まれる前までさかのぼります。ある時、自分という物質を増やそうとする物質がありました。これが私たちの祖先であり、今のウイルスの親戚に当たるRNAです。つまりウイルスとはある意味我々の祖先でもあるのです。

 ウイルスの目的はただひとつ、自分と同じ物体を一つでも多くのこすということ。決して生命を脅かしたいなどという思考はありません。今も数えきれない種類のウイルスは存在していると思われますが、そのほとんどが生命、特に人間に悪さすることなく過ごしているので我々が認識することはありません。

 その増える過程で我々の気付かないように増殖するのであれば問題ありません。しかし、いくつかのウイルスは我々に強い防御反応を起こさせます。咳をさせるように促し、その飛沫からウイルスをより遠くに飛ばさせるように企て、時には私たちの大事な遺伝情報を書き換えて、自分たちを増やそうとすることもあるのです。この時初めて我々はそのウイルスを害のある物質を認識し、倒すもしくは守る手段を必死に考えるのです。

 ウイルスは自分で増えることが出来ませんので、宿主と呼ばれる自分を増やしてくれる生命体を必要とします。一見病現性が強いウイルスが強いウイルスと思われがちですが、そうではありません。病原性が強いウイルスはあまり沢山増えることが出来ません。何故なら宿主が死んでしまってはウイルスは増えることが出来ないからです。

 ウイルスにとっては宿主がある程度元気で自分を増やしてくれる、その絶妙な関係が一番都合が良いのです。

 理想的なのは、私たちに全く害がなく(可能であればお互い利益になる)ウイルスの増殖が可能な関係、共生の関係です。今後ウイルスは変異を繰り返し、いずれ共生の関係にたどり着いた時、そのウイルスと人間との戦いは終わります。その日まで戦いは続くのです。

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