『尊い』

入川 夏聞

本文


 お父さんは、酔っぱらいに殴り殺されたそうです。


 その連絡をくれたのは駅長さんで、私がもう眠ってしまった深夜のことでした。お母さんは夜中に着の身着のままに出ていって、そのまま、お父さんが運び込まれた病院で一晩を明かしたようでした。


 私の方はそんなことも知らずに朝普通に起きて、歯を磨いて、寝ぼけまなこでテレビをつけて、お母さんがいつも通りに起きて来てくれるのをリビングでじっと待っていたのでした。


 ところが、いつまで経ってもお母さんは起きてきてくれない、台所はいつまでも無人のままで、私もさすがに髪をとかしたり、その日は午前中から体育があるので前髪をピンで抑えておきたかったりで、少しの時間も惜しかったのです。


 そこで仕方なく二階の寝室へ起こしに上がって、そこが空だったものですからすぐに一階へ降りてきて、おトイレを覗いたり、和室を覗いたりとウロウロしていたところ、ようやく電話機の留守という文字が赤く光っているのを見つけたのでした。


 私はまだ小学生でスマートフォンを与えられておらず、そのわりにはこの電話機の使い方もまったく知らないままでした。お父さんとお母さんはスマートフォンしか使っていませんでしたし、私も友達とはゲーム機のチャットで普段は連絡を取っていました。


 心臓の鼓動よりも早く点滅していたその赤いボタンは、幽霊のような青白さを持つ白とのコントラストがとても不気味で、家の中のがらんとした静けさと相まって私の背中には冷たいものが流れたのをよく覚えています。


 私が恐るおそるボタンを押すと、ピ――――と無機質な電子音が鳴りました。


「みなちゃん、お母さんだけど。ちょっと、今日は帰れそうもないの。あのね――」


 そこで、少し間がありました。私は立ったままで、電話機のボタンに大きく書かれた『留守』という文字が頭の中でバラバラに分解されるまで、じっと見つめていました。この字は、いったい私に何を伝えるため、この世に存在しているのでしょう。止め、ハネ、カタナに田んぼのた――――。


「お父さん、死んじゃった」


 足元の廊下の冷たさを紛らわしたくて、私は電話機を見つめたまま、足の指をくねくねと動かしていました。だから、その一言の意味がよくわかりませんでした。

 そのあとスピーカーからは鼻をすする音が何度かするだけの無音が続き、やがてガチャンという音のあとにツーツーツーという、よくある音が響きました。


 あのとき、私は泣けば良かったのですか。よく、わかりません。


 あまり覚えてはいませんが、その電話のあと、私は普通にランドセルを背負って学校に通い、普通に授業を受けたと思います。覚えていないほどなので、きっと過ごし方も普通だったと思います。


 家に帰ると、親戚のおばさんがいました。いつも太って無愛想な人です。


「なんね、学校行ってたの。あんた、よーけ大したもんね」それが皮肉だと気がついたのは、ずっとあと、二人目の彼氏に初めて抱かれたあとの、しらけたベッドの中でした。ともかく当時、このおばさんは鈍い反応を示す私の手を引いて、病院まで連れて行ってくれました。


 病院には幾人か、すでに親戚の人も来ていて、でも、なぜかお母さんにはなかなか会えませんでした。

 かわりに、無愛想なおばさんの旦那さんが、霊安室外の腰掛けに座っていた私の隣に現れました。


「いま、ちょっち、俺の仲間が中で集まってっから待っててな。あんたのお父さん、よーけやったよ! ほんに、よーけやった。おかげ様のサマンサ・タバサだあ」


 最後の一言の意味は長らく不明でした。私はだいぶあとになって、それは若い女性の気を引くためによく使われるおまじないのようなものなのだと、仕事で年配の方へ飲み物――もちろん、今では禁酒法がありますのでジュースです――をつぐようになって知りました。


 当時の私の関心は、そんなことよりも、このおじさんの後退した歯茎から醸し出される悪臭の方にありました。鼻をつまむことも、顔の表情を変えることも、とても悪いことだと理解していたので、私はじっと涙をこらえて耐えていました。それが、小学五年生程度の子供が大人の人にできる、せめてもの抵抗でした。


 その臭いは、私の脳裏から、お父さんはどうやって殺されてしまったのかという疑問を考えるための集中力をどんどん奪っていきました。


「あんたのお父さんは、昨日の夜、駅のホームで酔っ払ったサラリーマンに絡まれったんだ。ほら、最近法律かわって、酒飲んで暴言吐くだけで逮捕になるようになったっしょ?」


 はあ、と返事ともため息ともつかない返事しか出来ない私の肩を抱いてゆすりながら、おじさんは続けました。


「で、あんたのお父さんは警察呼ぶっつうことになった。ほしたら、相手のヤツな、殴った。手、出したんだ。ついにだ、これ、懲役もんだ、ほれ。こんなんだ、ほれ、こんなんだ」


 おじさんは相変わらず私の肩をゆすりながら、こちらは抵抗できないところばかりを骨ばったゲンコツでぐりぐり、ぐりぐりと何度もこすりつけてきました。

 腐った臓物のような臭いを撒き散らす笑顔も、私の鼻先で踊っていました。


「こりゃあな、俺らの悲願だった禁酒法成立の呼び水になったなあ。もう新聞社のやつらも、テレビ局も、ぜんぶ話はつけてある。あんたのお父さんはよお、顔がなくなるまでぶん殴られて死んじまったけんどよお、ニッポン全国の酔っぱらい被害者全員の無念を晴らすための礎になったんだあ。ほらあ、『尊い犠牲』、ってヤツだあ」


 そう言って、おじさんは私に向かって、ありがたや、ありがたや、と手をすり合わせていました。


 結局、私がお父さんと会えたのは、おじさんの仲間だという人たちが全員いなくなったあとのことでした。

 白い布のかかったお父さんのベッドの脇に、冷たい長椅子が置いてあって、私はそこに腰掛けていました。


「お父さんと、会わないの?」


 いつの間にか、お母さんが幽霊のように近くに立っていました。会わないの、という意味がよく理解できなかったのでもう一度聞くと、お父さんの白い布を取ってご挨拶しないの、という意味だったのでした。


「ううん。いい」

「どうして? もう、次に会う時は、お骨になっちゃうよ?」

「いい。だって、見たくないもん。お骨の方が、いい」

「そう。そうね。そう、かもね……」


 お母さんは足音もなく、ストンっと体が落ちるように私の隣に座りました。

 霊安室という空間は、誰も話す人がいないと、本当に静かなところなのだと思いました。


「お母さん。『尊い犠牲』って、なに?」

「……忘れなさい、そんな言葉」


 そのときのお母さんの瞳には、ろうそくの炎以上に燃えたぎる何かが映り込んでいるようでした。

 なぜかはわかりませんが、私はその燃えるような何かに魅せられました。

 お父さんの枕元のろうろくを模したライトの光がお母さんの瞳に映って、そして私がそれを、横から覗く。この図式が、そのときの私をひどく安心させてくれました。


 だから、その瞳に映る炎に引き寄せられるように、私はもう一つ、質問しました。


「ねえ。『尊い』って、どういう意味?」


 お母さんは、すぐに私を睨みつけました。


 すると、どうでしょう。瞳の中の炎はもう消えて、そこにはただの黒いグジャグジャとした得体のしれないものしか映っていないのでした。

 それにがっかりして、「『尊い』って、良い意味なんでしょ」とため息まじりに呟いたところ、私はお母さんに頬を強くぶたれました。

 頬の内側と奥歯の詰め物がこすれて、皮がべろりとむけて濃い血の味がしました。


 それで、私はぶたれた方に向いたままの首をそのままにしていました。お母さんの顔を見るのが、とても怖かったからです。

 少しすると、ぶたれて腫れた私の顔はお母さんの胸のうちに沈むのですが、やはり、口の中には濃い血の味がいつまでも広がっているのでした。


 その次の日、ニュースでは私のお父さんが殺された事件が取り上げられて、しばらくしてから世界で五カ国目になる禁酒法は成立を果たしました。

 そのころの摂酒人口はすでに二〇%以下でしたので、世間はこぞってお父さんを『尊い犠牲』だともてはやしました。


 結局、私はなぜ、お母さんにぶたれたのでしょうか。これも未だによく、わかりません。


 それ以来、私は言葉の意味を正しく把握することが困難になりました。

 もちろん、私は辞書で何度も『尊い』の意味を調べましたが、良い意味の内容しか見つけることはできず、でも、母に殴られた頬の痛みは本物で、母の瞳に渦巻いていたあの得体の知れない何かも、嘘やおふざけなんかではなかったと思うのです。


 唯一、『尊い』には、『近寄りがたい』という意味が載っているのを見つけました。

 お父さんは死んでしまって、たしかにもう近づくことは出来ないところへ旅立ってしまいました。

 それで、お母さんは私をぶったのでしょうか。お父さんが遠くへ行ってしまって悲しかったから、それを認めたくなくて、私をぶったのでしょうか。


 私がこの問いをすると、男の人は大抵、優しく肩を抱いてくれます。

 けれど、ついに誰も、その答えを私には教えてくれませんでした。


 私はいま、お酒を飲もうとしています。

 父を殴り殺した人と同じ気持ちになれば、何かわかるかも知れません。

 母が私を殴ったわけが、少しでもわかるかも知れません。


 昨日、改正禁酒法と刑法の一部改正は施行されて、飲酒は死刑と決まりました。

 

 私には、今回の改正がまるで、私にお酒を飲むことを世界が勧めてくれているように、とても輝いて見えるのです。


 きっと、神様は私の苦しみについて、誰よりも深く理解してくれていたのです。

 きっと、普通の人間では解けない問題を、私は無いものねだり、していたのです。


 ようやくこれで、私は『尊い』という言葉の本当の意味について理解することができると思います。


 それでは、いただきます――――。

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