堰が外れて狂いだす
“あぁ、面倒だ。”
深夜の一時に十何分も立ち続けながら、罵倒を受ける少年は心のなかで悪態をついた。
『お前よぉ、毎回そうじゃん。お前勉強しろっていっても一切しねぇよな』
椅子に腰かけ、酒のはいったコップを左手の届く範囲に置いている男がそう吐き捨てる。
“嫌いな人間の言うこと聞く奴がどこにいんだよ。馬鹿。自分のためになろうと、やりたくもないこと誰がやる。”
またも少年は心のなかで悪態をつく。
『お前こんなんでよぉ、大学行きたいだぁ、学者になりたいだぁ、無理に決まってんだろうぉがよ!おい!ぼんくら!』
もう聞きなれた言葉が飛んでくるだけなのでもはや少年は男の話に耳を傾けながら、心のなかで悪態ばかりついていた。
“はぁ、もう年中行事みてぇなもんだからどうでも良いがよ。蛙の子は蛙じゃねぇか。自分は俺より頭が途方もなく悪いくせに馬鹿の一つ覚えのように怒鳴るんじゃない。それに、誰が大学行く=決定事項みたいに言ったんだ。ただ、自分の夢の中で一番まともなのを言ったまでだよ。行けるとは自分でも思ってねぇ。でも、行ける大学だってあるんだぞ。”
『それに、俺はお前みたいなボンクラに金なんて払いたくねぇんだよ。もうお前良いよな。もう高校やめろ。金の無駄だ。どうせ勉強だってこれっぽっちもしやしねぇだろ。ま、どっちにしろ大学なんて無理だけどな、バカ。もうお前もう働けよ。俺の職場で働かせてやるから。それでちっとは家計の足しになれよ。バカ』
“はい出た。そうやってこいつは人を支配しようとするんだ。お前なんかより、俺は頭良いし、学者は学者でも歴史学者になりたいんだから良いだろうがよ。得意なんだからよ。バカ?ボンクラ?ブーメランだよ。頭悪くて、専門学校行って、料理人になったのは誰だっけ?それも不味い料理しか作れない、出世もできない、DVの屑は誰だよ。お前みたいな人間、今すぐ殺…”
『何とか言えよ!おい!』
男の怒号が響いた。だが、少年は最後まで怒号を聞き取ることが出来なかった。鼻周辺に激痛が走り、頭の奥深くまで広がると、脳の機能を一瞬停止させた。指揮系統を一瞬とは言え失った体は、激痛とぶつかった時の圧力で押されて倒れる。
バリィーン
酒の入っていたコップが床に砕け散った。
『おい!どうなんだよ!答えろよ!』
男はそう言い立ち上がった。だが、男が立ち上がるより速く少年は立ち上がり、息つく間もなくキッチンに歩を進めた。男は少年の背中になにか言おうとしたが、口が開かれ、今まさに言葉が発せられようとした時、男は恐怖と驚愕を顔に張り付けて固まった。
ずっと罵倒されていてもあまり、なにも感じなかった。そう、どうでもよかった。面倒で、ただ、速く終われば良いなくらいにしか思っていなかった。奴は殴るなど危害を加えてくるだろう。そうなったら、殴り返して、とことんやりあえば良い。そう思っていた。罵倒され続けても、元々自分の心は負の感情で黒く染まっていたから罵倒のような黒い染料が入り込んだところで黒のままだからなにも思わなかったし、殴られても痛みはあるが心に一切の痛みを感じることもなかった。もちろん殺意はあった。しかし、殺したところで心の闇はもう晴れることはない。負の感情が占領する黒い心はたかだか人の死、生命の消失という出来事によって白くなる訳がない。元より、奴がいようといまいと、心は常闇の奥深くで負の感情と悪意を産み続けていただろう。そもそも、俺の心は物心ついた時既にどす黒く、漆黒と言うより何かが蠢く夜の闇のようだった。事実、残虐にも弄び殺すことを要求する狂気やいつも、周りにいる人間の殺害方法を考えているいる異常な煩悩が蠢いていたわけだが。だから、人には優しく、思いやりをもって接しようと心がけなければすぐに悪心と負の感情による悪魔の囁きの類い外道すら踏み外したような邪悪な思考を実行しようとしてしまう。このような邪悪な思考を無視するのは大変だった。でもそれをも御せることが出来る今、完全に感情をコントロール出来る。そう思っていた。だが、不測の事態とはまるで想像も出来ない場面で起こるものだ。今回はその一例のようだった。
ナイフを持った右手は、この場では絶対的強者になったことを自覚した少年の本能によって本能の命ずるまま標的にナイフを突き刺す機械と化した。良心は意識の蚊帳の外、理性が作り出した少年の最終決定措置であるRPGのはい、いいえと書かれた表示のような行動をおこす時のこれでいいのか?と問いかける声さえも封殺され頭の中から放り出された。そして、物事は物の数秒で片がついた。恐怖に顔を歪ませ、死ぬ最期の瞬間まで生にしがみつこうとした男は、少年の右手をどうにか止めようと、両手で少年の右手首をつかみ、ナイフがそれ以上自分の体に近づかないようにしようと試みた。だが、一秒もせずに壮年を過ぎた男の握力を上回る力を少年の右腕は放出した。
ジュキュゥゥ。
ナイフが、鉄が、男の服を貫き、肌を裂き、肉を断ち、心臓を流れる熱い血に新たな分岐を作り出した。
快感だった。今まで人生で一度も感じた事が無いような快感がどす黒い心を満たした。
“心地良い。楽しい”
無意識の内に、そのような感情が湧き出てきた。ナイフを引き抜き、もう一度刺す。人体に、肉に、生物に鉄を突き刺し、脂肪や筋肉を裂いていくその感覚が愛おしく楽しかった。これほどまでに人間に快楽を与え、ストレスや悩みを忘れさせる事象はないと思えた。そして、血。流れる血。鉄を滴る血。飛び出す血。とにもかくにも、血が美しかった。鉄と共に出てくる血が、鉄の衣服になれず、鉄の先端で滴ると言うには多すぎるほど落下していく血、鉄が肉を出ていく時に衣服からはぐれて飛び散る血、鉄がまとう衣服のように見えていた血が次々に下に垂れて落ちていくのが狂おしいほど、美しかった。そんな心象に溺れていた少年の左目に鋭くはあるが儚げで、最期の力。というべき男の一撃が届いた。だが、少年は止まらなかった。何度もナイフを突き刺して、その度に快感を感じながらこの瞬間が永遠に続くことを無意識に願っていた少年に理性、良心が戻り、本能の力が弱くなる楔を打ち込んだのは母の悲鳴だった。少年は正気に戻った。理性、良心、正の感情が思考停止に陥った少年の脳に返り咲いて次々と命令を発した。
“ここからはなれろ”
“服を着替えろ、血塗れだ”
“家を出ろ”
“母親が問い詰めてくる前に逃げるんだ”
命令が脳で飛び交い、少年は放たれた矢の如く世話しなく動いた。しかし、全ての命令を全うしても体の中の熱が冷めることはなく、息が切らしながら家を飛び出した。夜の闇が彼を冷たい空気が迎え入れた。
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