堕落欠落物語集
床豚毒頭召諮問
絹の中の少女
目の前に写る光景が一瞬にして変わる。戻ってきたんだ。最悪な現実に。
「お前なんかよりさ…」
次に出てくる言葉は分かってる。聞きたくない。その一心で右腕を後ろに引いた。男はその事に気づいて話すのをやめ、驚きと恐怖、焦りで顔を歪めた。だがもう遅い。男の顔の左頬にあたしの拳が直撃する。
「てっめぇっ!…このっ…」
男が呪詛を吐きながらあたしに顔を向ける。だが、あたしは呪詛を吐き終わる前に拳を引いた。反撃はさせない。ま、反撃されたところで当たらなければどうということはないが。
そんなことを思いながら、男を殴り続けた。夜の公園でただ一方的に振るわれる暴力を公園の街灯が頼りない光で照らした。
男は地べたに倒れ込むと咳き込んだ。
同情はしない。お前が悪いんだ。
「もう…関わらないで」
男のうめき声を尻目に、あたしは公園を去った。
帰るか。あたしはそんなことを思いながら、ふと、パーカーの右ポケットを探った。呼び出された時、とっさに入れた、使ったはずの折り畳み式ナイフがそこにはあった。
やっぱり時間は戻ってる。
あの日々の記憶は鮮明に覚えているわけではないが、いままで、感じたことの無い心地よい感覚がいまもあたしの脳に焼き付いて離れなかった。あれは、自分が作り出した幻なんかじゃない。現実だったんだ。
そう思うと、なんだかお腹の辺りが冷えるような感覚がした。
あの、まるで異世界転生系のライトノベルやマンガの世界に自分がいたと思うとなんとも言えない畏怖、とでもいうのだろうか。それに似た感覚が自分の頭の中を駆け巡った。
自分が経験したことは全て現実で、あの世界にいた頃は何度でも死ぬことができた。まぁ、言われた通りの物を持ってきたり、言われた事を達成しなければ復活させてもらえないから、無闇矢鱈に自殺なんかを繰り返していたわけではないが。
そもそも、死ぬことに対してあたしはこれといった感情を持ってはいなかった。死に対する恐怖というものがあまりにもなかった。毎日を無気力に生きているため、生への執着はないし、あたしが死んでも誰が哀しむんだろうか。
孤児院の院長先生は哀しむかもしれない。でもそれは、彼女があたしのことを愛しているからだ。だが、あたしに“愛されている”という感覚はない。“愛”。これが分からないのだ。おまけに“好き”という感情も分からない。だから、あの男に告白をされた時、あたしはどうしたらいいか分からなかった。けど、愛というものがどういうものか分からなかったあたしは、この人はあたしの事を愛しているんだ。愛を知っているんだ。と思って少し羨ましくなった。それから、あたしは、“愛”というものについて知りたくなった。だから、この人があたしを愛しているならあたしもこの人を愛せるかもしれない。そう思ったんだ。
あの時…別の選択をしていれば…あの時断っていれば、こんな、こんな事にならずにすんだ。目の前で自分に対して愛がない。そう告白する男をみることもなければ、いままで、自分を愛していた人間を失うことない。愛されているという気持ちを知ることもなければ、“愛されたい”と渇望することもなかっただろう。そうした自責の念が頭の中を埋め尽くしていくなか、あたしは思った。
愛が目に見える物ならいいのに。
孤児院に戻ると、奥から院長先生の声が聞こえた。『お帰り~!お風呂できてるからね~!』
院長先生はあたしを咎めることはない。別にあたし以外が夜に出てってもなにも言わない。というより、この孤児院にはそこまで俗にいう“不良”はいない。ここにいる子どもたちは俗にいう陽キャと陰キャがごちゃ混ぜになっていて、同年代でグループを作っている。
みんな、不良じみたことはしないから夜に勝手に出かけるなんて事はしない。出かけるにしても院長先生に一声かけてからだ。あたしだって一声かけて出てきた。でも、院長は落ち込んでいる人間に対して、話しかけるべきか、そっとしておくべきかを雰囲気や仕草で分かるんだとおもう。この間失恋して、一人で夜に泣いていた子にそっとハンカチを渡してたのを見たことがある。だから、院長はきっとあたしが落ち着くための時間が必要だと、勘か、虫の知らせで分かったのかもしれない。事実、院長はその夜、あたしに話しかけてくることはなかった。
はぁ。
湯船に浸かりながら、あたしはため息をついた。
分からなかった。“愛”とはどんなものか。“愛”とはなんなのか。
結局これで振り出しだ。あたしは“愛”というものが分からない、“普通の人”とはかけ離れた存在に戻ってしまった。いや、そもそもなっていなかったのだ。あの男と一緒にいる時は、あの男が愛してくれているという自負があった。だから、あたしは“愛”を知っている、理解している、という錯覚をおこしていたんだ。あの男と付き合っている時は“愛”について考える時間はなかった。私はなんとなく高揚していたんだ。“愛されている”という確信を初めて持ったから、嬉しかったのかもしれない。でも、本質は何も変わっていなかった。あたしは“愛”が分からない、何かに愛着を持てない異常者なんだ。そして、ついに“愛されている”という確信すら失った。あたしは何も得ることはなかった。
ただ、“彼氏”というものを期間限定で得て、失った。
そして、心の中の穴がさらに広がって、いままで以上に無気力な人間になってしまった。あぁ、何してんだろ。もう、何もかもどうでも良い。
「どうでもいい?そんなの許さない。何に対しても無関心であることなど、この私が許さない。君は今、生存しているんだ!だったら、全身全霊で、君は精一杯誰かのために、何かのために存在しようとしなければならない!なぜなら、君は、君は…」
懐かしい声が頭の中で響いた。
あいつだったら、こういうこと言うんだろうな。それにあいつ、「異常者?なら通常者とはなにか!?」なんて言うだろうな、というかそんなこと言ってなかったっけ?
思い出があたしを自暴自棄から脱却させた。まぁ、それでも存在するしかないよね…あぁ、傷つきやすいなぁ、心って。
『心?そんな部位は人間の肉体にはないね』
理屈っぽい声が頭の中で思い起こさせれた。あぁ、もう、理屈っぽいと嫌われるよ。なんて、小説のヒロインが言いそうな言葉を返したんだっけ?あいつらは、何してるんだろうな?元気…かな?離れて初日でなに恋しがってんの、あいつらは大丈夫だよ。あたしみたいに弱い人間じゃないもの。
なんて自問自答した後、お風呂をあがって自分の部屋に行く。
床が畳の部屋には、背の低い机と布団が敷いてある。机には高校の鞄があって、明日持っていくものは用意できていた。あたしは持ってきたドライヤーで髪を乾かして、それをあった場所に戻してから布団に潜り込んだ。
もちろん、睡魔は襲ってくるどころか姿さえ見せる事はなかった。長く、頭が疲れる夜がやってきたのだ。あたしは、無意識のうちに様々なことに思いを馳せていた。あいつらの事、高校の事、あの男の事、院長先生の事などに思い耽っていた時、ふと、なぜ自分はポケットナイフを持って行ったのか?という疑問が湧いてきた。
どうしてだったか、自分でも思い出せない。でも、確かにあの男に呼び出された時、唯一、自分の事を愛していると確信できる男を失うんじゃないかという恐怖があった。それに、ポケットナイフは元々、自殺用に買っておいたものでそれを果たせていないまま、無用の長物と化していた物だった。もしかすると、あたしはあの男を殺して、自分も死のうとしていたのかもしれない。
あたしがあの男と付き合ったのは、あの男があたしを愛していると言ったから、あたしも愛することができる。“愛”がどう言うものか分かる。と思ったからで、あの男と付き合うことによって、“愛”を理解できる。“愛”について考えなくて済む。“愛”を知らない。というあたし自身の劣等感を消滅させることができる。そう思ったからだ。
だが、それは達成することはできなかった。だから、もう生きている意味などない。と、思っていたのかもしれない。でも、その時のあたしはポケットナイフを持つことについて考える暇はなかったし、疑問を呈することもなかった。完全に無意識のうちに、自分の人生を終結させるかもしれない凶器を持って行ったのだ。
あたしが、いや、あたしの本能がもし、あの男が自分を愛していないと告白した場合は、彼を殺し、自殺しよう。とでも自分に気づかれずに計画していたのだろうか。それとも、あたしはそれとなく分かっていたのかもしれない。あの男があたしに対してもう、“愛情”を抱いていないことを。だから、あたしは裏切られる。と思ったのかもしれない。失いたくない。失うくらいなら、誰にも渡したくない。そう思ったのだろうか。
あのときは、本当に無意識に体が動いていたし、もう、あたしの記憶ではずいぶんと昔の事なのだ。“この世界じゃないところ”で過ごした年月はどれぐらいだったのだろうか。現実とは思えない世界だったが、現実だったのだろう。そうでなければ、あの男が生きていて、あたしが手に血のついたポケットナイフを持っていないのはおかしい。というより、本来、そうあるべきだったのだ。あたしは、あの時、あの公園で、殺人者になるべきだったのだ。それが真実で、本当の事なのだから。
時間が巻き戻った今、あたしは違う選択を選んだ。これによって、なにか、時間軸?みたいなものがずれたりするのかな。なんて、ラノベの広告の見すぎか。
朝、目覚まし時計の献身的な働きによって、目覚めたあたしは支度を整えて、顔を洗いに行く。
孤児院には、普通の家庭のリビングよりふた回り程大きい食堂があり、隣にあるキッチンから、孤児院の住人達が院長先生を筆頭に食事の準備をするのだ。あたしが起き始めた頃には、早起きして食事の準備をしている住人達は起きていて、キッチンではしゃべり声や足音がしており、食堂からは机に食事を盛った皿を置く音がしていた。その音を尻目に洗面所に行き、顔を洗う。
孤児院の住人のなかで高校生なのはあたしだけで、その他は大学生が五人、中学生が四人、小学生は十二人だ。
手洗い場で自分の顔が久々に目にはいる。長いこと、鏡がない状況で暮らしてきたから自分の顔を見るということすら忘れていた。どこか、悲しげで無気力だと、自分ですらそんな印象を持つ顔立ちをしている。顔は…整ってはいる…のだろうか。でも、美人か?と、問われればそうではない。と否定できる中途半端な顔だ。心から笑うことができたら少しは美人だと思われるだろうか。
そう思って、鏡の前で笑顔を作ってみる。だが、心からではなかったし、長年笑顔なんて、自分にも、もちろん人にも見せていなかったから、ぎこちなく、ただ口角をあげただけの顔になってしまった。
はぁ、あたしは笑い方すら忘れてしまったのか。
あたしはそんな自分に少し失望して手洗い場を後にし、食堂で定位置につく。あたしがいつも座る椅子だ。食堂の隅っこ、扉から見て左のキッチンから一番離れた一番奥の椅子だ。ここ周辺の椅子に座るのは大学生達で、他の住人達は座らない。昔からそうだ。小学生達の変な気まぐれさえなければ。
食堂に音もなく入ったあたしに一番早く気づくのは院長先生で「おはよう」と挨拶してきた。あたしが返すと食事の準備をしている住人たちも挨拶してくる。これらにも返事をして、目の前の朝食に目をやる。お茶碗に盛られたご飯に、卵焼き。鯖の切り身の塩焼きと味噌汁、飲み物は麦茶といった、いかにも日本らしい食卓だ。
「いただきます」
あたしがそういうと、「召し上がれ」と院長先生が言う。これが、あたしの毎朝の光景だった。少し、というより、長い間、毎朝宿で暮らしていたときもあれば、食にありつけるかどうかの瀬戸際の生活を送っていた時もある。だから、この光景は久しぶりだった。ま、この世界じゃ、“この世界じゃないところ”で過ごした日々は反映されてなくて、この世界を去った日に戻っているのだけど。朝食を口に運びながら、そんなことを思っているあたしの耳に複数の足音と話し声が聞こえてきた。中学生達が起きたのだ。楽しげに笑う声が食堂に近づいてくる。あたしは彼女らとは何一つ親交がない。話しかけたことも、話しかけられたこともほぼない。彼女らが話していることのなかであたしが理解できるものは一つもない。
そもそも、高校のクラスメイト達が話していることもあたしは理解できていない。クラスの女子達が話す言葉はわかる。アイドル、モデル、お店など、話している単語はわかっているのだ。だが、それがどこにあって、どういったものなのかはわからないのである。詰まる所、流行についていけていないのだ。そしてこれは、いまに始まったことではない。
小学校の時すでに、話題にはついていけていなかった。この“病”を発祥したのは幼稚園の時だ。大抵、幼稚園児が話すことは毎日の日常や戦隊もののヒーローのことだが、あたしは戦隊ものには全く興味がない子供だったので、毎日の日常の事を話していた。
「きのうねぇ、院長先生がねぇ…」ここまで話すと、聞き手の顔が困り顔になるのだ。そして、どうして困り顔になっているのかわかっていない当時のあたしに、決まって聞き手はこう言う。
『院長先生ってだぁれぇ?』当時のあたしが驚いたのは言うまでもない。この日から、あたしは幼稚園で誰とも話さなくなった。
この頃、幼稚園では授業参観や運動会などの行事の際、親が来ていないと言うこともコンプレックスと化していた。あたしは気づけば、いつも一人ぼっちでいた。幼稚園の先生はあたしをグループ分けの時などでひとりぼっちから卒業させようとしたようだが、何一つとして効果はなかった。そのまま、あたしは年を重ねていき、いまでも、“友達”と言えるものはできていない。食堂に入ってきた中学生達は元気良くキッチンにいる住人たちに挨拶をする。どうしてあんな社交性を持っているのだろう。あたしはつくづくそう思うが、それは、孤児院育ちと孤児院に引き取られたという決定的な違いがある。最初から孤児院にいた人間であるあたしとそうではない中学生達。孤児院育ちは今のところあたししかいない。あたしと同じ境遇の人はいないのだ。同じ孤児院で暮らしているとはいえ、あたしはここでも、親しい人はいない。あたしはどこでも、一人ぼっちなのだ。
バス停にいくまでの道のりは体が覚えていて、あたし自身、登校するのは久しぶりなのだが、迷うことなく着くことができた。バスの時間もいつもと同じなので、高校には余裕をもって着けそうだ。
バス停に止まったバスに乗る。いつも乗っていたバスだ。まぁ、乗るのは久しぶりなのだが。バスの吊革に掴まりながら、外の景色を眺める。都会が近くにはあるのだが、あたしの住んでいるところは田舎の方で、孤児院の周りは田んぼや竹林が広がっている。バスに乗ってからは、前にバス停の近くの農家の人たちの家々、後ろには、小高い丘の斜面の竹林が見える。
この風景を眺めるのも久しぶりで、懐かしい気持ちに浸りながらバスのなかを見渡した。あたしがいつも使うバス停を、あたし以外に使っている人を見たことはない。今日もそうだったから、乗っている人たちはここより前のバス停で乗った人たちだ。その中にあたしと同じ高校の制服を着ている人はいない。ま、分かってたんだけどね。もしかしたらって思ってね。なんて淡い希望を抱いてしまう自分を軽蔑した。
“分かっているならなんでやったの?あんたはいつも一人ぼっちなのに。”冷やかな声が頭のなかで聞こえた。
“現実逃避したかったんだろ。お前はいつも、自分が可愛いんだ。現実を見れていないんだよ。”冷酷な声が頭のなかで告げる。
“だから、お前は傷つきたくないから必死で理由を探してるんだ。なんもしない理由をな。このままが良いんだろ。このままなら、だれも傷つかない。傷つけたくないって思ってるんだろ。だが、遅い。居るだけで気ぃ遣わせちまってるんだよ。あーあ、お前なんで死んでないんだよ。”
自分を批判する声は辛辣で、汚い言葉がこれでもか、と言うほど湧いて出てくる。その反面、自分を擁護する言葉は出てこない。
だが、無意識のうちに自分のために行動している。という節はある。昨日の夜だって、自分がその後の言葉を聞きたくないから、自分が不快になりたくないから、あーゆうことをしたんだ。
あたしはそんな自分が嫌いだ。自己中で、自分のことだけで精一杯なくせに自分の身の丈に合わない幸せを求めて、その結果があれだ。嫌になったら捨てる。自分のためだけに生きているじゃないか。あたしはあたしが思うより、醜い。醜くて、なにかを求めて、全てを失うことを恐れる。だから今回も、なにも、なにも得ることはなかった。
「人間は醜いよ。醜くて、一言で言えば救いようの無い生物だ。それでも、君はその生物として誕生したのだ。人間は自己中心的な生物だ。それは、無意識であり、本能であると言えるだろう。だから、思い詰めることはない。それは無意味なことだ。自己中心的な思考のなかで、少しでも他人のために人間が何の未練も疑問も抱かずに行動するには、一つ一つの出来事のなかで他人のために思考を巡らせていくしかない。ま、そんなこと、天才でもできないさ。できたとしても、未練はなくとも何度かは疑問を抱くだろうね」
ふっ。つい、鼻で笑ってしまった。
あいつの言葉を思い出すなんて。でも、あいつの言う通り。
はぁぁぁ。あたしは大きな溜め息をついた。
結局、あたしは自己中だ。だから、どうにか人のために…なんてことは出来ないだろうけど、人が不快になることはしないようにしなきゃ。あいつが言うみたいに、大勢のためにはなんも出来ないけど、せめて、個人が不快にならないようにしなければ。
昨日みたいなことはもうしちゃいけない。
そんなことを考えながら、バスに揺られた。いつの間にかバスから見える風景は住宅地と激しい車通りと化していた。
あたしの通う高校は、孤児院から少し遠い。勉強もそこまで出来るわけではないから、偏差値は低めの高校だ。
ここでも、あたしは一人ぼっちだ。バス停から歩いて高校に向かっていると、女子たちの群れが見える。同級生のもあれば、上級生のもある。女子の群れというのは、歩くスピードが遅い。喋りながら歩くから、歩くことに集中できていない。そんな遅い女子の群れをうつむきながら追い越す。こういう時に、目があったりすると話しかけてくるかもしれないし面倒だからだ。話について行けないことが露呈するのはすごく不味い。目をつけられでもしたら、ない居場所がさらに無くなる。あたしはこの手の人にとっては、と言うより、“ここの人たち”にとっては、空気でありたいのだ。目に見えない、触れられない、居ても、なにもしない。そういう存在でありたいのだ。関わらない。関わりたくない。あたしは、ここでは特に一人ぼっちでありたいのだ。あたしはここでは生きてはいけない人間なのだから。ここで、生き抜くことが出来ないのだから。
昇降口のロッカーから上履きをだしてクラスに向かう。近くでは、男女問わず群れができているが、単体でいる者もいる。クラスでのあたしの席は窓側から二列目の四番目の席だ。斜め後ろが陽キャの男子のなかで、リーダー格のよう存在なのでここは男子の溜まり場となる。けど、あたしは他に居れる場所はないから、後ろがどんなに騒いでいたとしても座って音楽を聞くか、本を読むかのどっちかをやっている。でも最近は本ではなく、イヤホンをつけて、音楽を聴きながらスマホをいじっている事が多くなった。時々、男子が馴れ合いの最中にぶつかってくることはあるが、特に謝られることも、謝罪を求めることもないから、空気としていられているのではないだろうか。
あたしの意味がない毎日は意識せずともすぐに時間がたつ。気づけば、ホームルームが終わり、クラスメイトたちは騒ぎながら帰り始めていた。あたしも荷物を背負って、クラスを出ようとする。開けっぱなしのクラスの出入口の先に目をやったとき、男がいた。“彼氏”であった男だ。男はあたしに気づかずに、廊下から階段に消えていく。あたしの“去り際の言葉”は守ってくれているみたいだった。だか、それ以外に特に思うこともなかった。あたしにとって、あの男はどうでも良い存在となったのだ。だが、少し気になったことがあった。あたしがつけた、殴った時のあざである。あざと言えばあざかもしれないが、少し、あとが残っていると言う程度だ。だが、その事で、あたしが殴ったりしたことが発覚しないだろうかという恐怖があたしの頭のなかで渦巻いていた。どうってことない。と楽観視する声もあれば、深刻に考える声もあった。しかし、どのような考えが浮かんだとしても、あの男に接触することはもうない。関わるなと言っておいて、自分から関わるなど、本末転倒も良いところだ。それに、あの男は“去り際の言葉”を守ってくれている。こちらからそれを反故にする意味はないだろう。そんなことを考えながら、昇降口へと向かう。もうこの時には、バスに乗り遅れたら大変だ。くらいの事しか考えていなかった。
孤児院に帰ってくると、小学生や中学生は皆、食堂で食っちゃべっている。あたしはそれを素通りして、自分の部屋へ向かう。笑いあったり、じゃれあったりしている“同居人”たちはあたしに声も掛けない。
あれ…いつもなら院長先生が…。
“なに?期待してるの?まさかね。”そんな言葉が頭のなかから聞こえた。別に、いつもなら聞こえる声が聞こえなかったから、疑問に思っただけだ。そう自分に言い聞かせて部屋の前に行く。部屋のドアのドアノブに手を掛けた時、
『お帰りなさい』
院長先生の声が後ろから聞こえた。ゴム手袋をはめ、雑巾を持っている。
なんだ、掃除していたのか。と内心ほっとしていると、
“やっぱり、期待してたんだ。”頭のなかでまた、声が聞こえる。
『ただいま』
そう返して、あたしは自分の部屋に入った。
夕食の時でも、あたしは一人。定位置についてただ、手を動かした。周りにいるのは大学生達。その向こうに小学生達がなにやら喋りながら食べ物を口に運んでいる。喋りながらだから、舌を噛んだり、ほっぺたの裏側を噛むんじゃないかと思った矢先、
『おしゃべりしながら、食べるのも良いけど、舌を噛まないでよ~』
と、院長先生が小学生達に注意をした。
『はーい』やら、『ならないよ~』などと小学生達が返している。夕食はオムライスとコーンスープだった。あたしは食べながら、あたしってそういえば、料理一切やったことないや。と思った。院長先生に教えてもらおうかな。などと思った時、
“へぇ~、上達しないのにやるの?”頭の中から声が聞こえた。
別に、上達しなくても良いじゃん、いつかは一人暮らしするんだから。そう返したあたしに辛辣な声が浴びせられる。
“は?お前、ここを出て生きていけると思ってんの?お前は、院長先生が守ってくれる孤児院じゃなきゃ生きていけないんだよ”
そうだけど、でも、いつか、必要になることだ。
“へぇ、お前、自分が使える人間だと思ってる訳じゃないよね?自己中さん” 別に、良いじゃん。興味をもっただけだよ。そう言い返して、あたしはもくもくと手を動かした。あたしは、これまでなにか特技があるというわけではなかった。というより、なにも特筆すべき物がないと言った方が正しい。なぜなら、全てが平均以下だからだ。勉強も運動も何もかもあたしは満足にできなかった。だから、幼い時から“なにもしないほうがいい”と思うようになった。時々、これを破って、なにか物事に挑戦することがあった。でも、それは大体失敗した。ちょっとできても続ける気が起きなかった。失敗するんじゃないか、恥をかくんじゃないか、と思い、なにもしなくなっていった。
いつの間にかあたしは、無気力で何をするでもなく、ただ毎日を溶かし、日々、鬱憤を募らせるだけの人生を送っていた。
鬱憤が募る毎日の二日目が始まった。作業化している毎朝は、何事もなく過ぎ去った。強いて言うなら、中学生達が起きていなかったことだ。寝坊でもしたのかもしれない。荷物を持って、孤児院の玄関のドアを開けようとした時、
『いってらっしゃい』
という優しい声が聞こえた。あたしはすぐさま振り返った。
昨日は中学生達がいたので、声をかけられなかったのだろうか。微笑みながらこちらを見ている院長はいた。あたしは、こうやって送り出されるのは久しぶりだった。あたしはなんだか、帰ってきてよかったと思えた気がした。
『行ってきます』
そう返して、あたしはバス停に向かった。嬉しい。とまではいかないが、その類いの気持ちがあたしのなかで湧いていた。
『嬉しい、か。もうそんな感情を抱くのは何年ぶりだろうか。私は、私の期待するような結末にならなければ、そんな感情は抱かないはずなのにな…。ふふっ、私も変わったな』
嬉しいと感じることが久しぶりだといっていたあいつは、結局嬉しい。という感情を知っていたんだ。羨ましかったけど、あいつは
『嬉しいなんて感情を感じることのできるやつは、満たされているやつだよ』
なんて言っていた。あたしは、満たされているのだろうか。
バスに揺られながら、あたしは、自分が喜怒哀楽の喜の部分を自分が感じることができ始めているのではないか?と思っていた。
社交性が一切無いあたしは、喜怒哀楽全ての感情がどういうものか忘れてしまった。それを取り戻せているのではないかと思うと、自然と心が弾んでいた。
あたしは“普通の一般的な人間”の感情を取り戻せている。普通の人に近づける。普通になれる。そう思うと、あたしは内心はしゃいでいた。今まで感じたことがないほど上機嫌だった。これが、嬉しい。という感情か。これが嬉しいなんだ。
自然と心地よくなったり、上機嫌になったり、心が弾んだりすることが、“嬉しい”ということなんだ。やっとわかった。わかったよ。理解できた。
あたしの心を“嬉しい”が満たした。
あたしは上機嫌のまま、バスを降り、余韻冷めやらぬまま学校の昇降口へと入っていった。
クラスに入る時には、もう平常心を取り戻していた。それでも、体は暑いしたままだった。いつもと同じように席に座り、イヤホンをつけて音楽を聴きながら、スマホをいじる。冷めた高揚感が再度燃え上がらないようにスマホに集中した。いつもとなんら変わらないことをしていた。
いつも、あたしはクラスメイトと目が合わないように極力、見ないようにしている。クラスに入った時なんかはそうしていた。そのため、気付くことができなかった。周りの視線が普段と違うことを。上機嫌で音楽を聴いていたせいか、あたしは教師があたしの肩を軽く叩くまで、自分が呼ばれていることに全く気がつかなかった。
イヤホンをはずして席を立ったあたしは、初めて周囲が自分を注視していることに気がついた。あたしは悪寒を感じた。恐怖したのだ。自分の事を見ている目に、何か、害虫でも見るような蔑むような目に。
あたしは、その時自分が空気ではなくなってしまったと感じた。自分が彼らと同じ人間ではないと、ばれてしまったような気がした。
「行くよ」
教師の声であたしは我に返って歩を進めた。あたしがクラスを出ると、
「呼ばれたね~」「やっとだよ」「自業自得」なんて声でクラスは騒がしくなっていた。
担任の教師(あたしは担任の顔すら忘れていたが状況的にそうだと思った)に連れられて、生徒指導室に足を踏み入れた。そこでは、生徒指導の教師(状況的にそう思った)が椅子に座って待っていた。生徒指導の教師の座っている椅子の右隣に一つ、机を挟んで一つ椅子があった。
「座って」
担任がそう促した。机を挟んで、教師たちと向かい合っている椅子にあたしは座る。
あたしは、自分がなんでここに来る事になった原因について考えていた。
何となくわかる。あの夜のことだろう。だが、一体どのようにして学校の耳に入ったのだろう。そんなことを考えていた時、生徒指導の教師が口を開いた。
「今日、あなたを呼んだのは、クラスのグループラインであなたが、××××君に暴行を行ったという話がなされていたため、××××君に確認したところ、事実だと証言したので、あなたを呼ばせていただきました」
あたしはこの時、グループラインというものの存在を身をもって認識した。
(そんなものがそういえばあったな。だけど、あいつとはクラスが違うし…)
などと考えていると
「この事は事実ですか?」
生徒指導の教師が聞いてきた。
「はい、事実です」
あたしはそう返して、今、自分の身に起きていることを再認識した。
あたしは怒られるのだ。なんで暴力を振るった?とか、すること自体がおかしいとか言われるんだ。あたしはそもそも、教師という存在に好印象は抱いていなかったが、今、これから始まるであろう出来事の予測をしたため、教師達に嫌悪感を抱いた。担任が質問してきた。
「どうして、そういうこと…暴力を振るったんですか?」
「それ以上、貶されたくなかったからです」
生徒指導の教師が続ける。
「その時、暴力を振るった時、どんな気持ちだった?どんな気持ちで殴ったの?」
「…とにかく、傷付きたくなかったです。一言でも、悪く言われると…自分の事で精一杯で、自分のことだけでいっぱいいっぱいなのに、針で突いたら、自分が張り裂けてしまうと思うほど、いっぱいいっぱいなのに、貶されて、傷付けられて、自分を制御をできなかったんです」
しゃべりだすと我ながら意外と感傷的な言葉を吐く自分に嫌気がさした。
“自己中め。裁きを受けろ”頭のなかで感情が叫ぶ。
“え?まだ、こいつが自己中じゃないって思ってたやついたの?今更じゃない?”なんて声も聞こえた。
「つまり、君は、傷付きたくないから、暴力を振るったの?」
生徒指導の教師が問う。
「はい」
「まずさ…自分が傷付かないために、傷付けるのはおかしい。これは、僕の持論だけど、殺られる前に殺るって本当に限定的な言葉なんだよ。本当に殺るか殺られるかって状況でしか使えないからね。これと、君は同じことをしたんだ。傷付く前に、傷つける。しかも、物理的にね」
あたしは、自己中心的な行動を正論で打ち負かされた。そりゃそうだけど、あの時は、そうすることしか頭になかった。それ以外に考えていることは無かったんだ。
「その時、そうするしか考えられなかったの?それ以外の方法で解決しようとは思わなかったの?」
生徒指導の教師がさらに尋ねる。
「それ以外の方法は一切考えていませんでした。ただ、傷付きたくない。この事しか考えてませんでした」
あたしが返すと、生徒指導の教師は予想だにしないことを言った。
「君が本当に傷つきたくないなら、人間社会で生きてはいけないから、一人で、一切外にでないで暮らしていくしかない」
あたしは、拍子抜けした。心の底から、あたしは驚いた。
こんなことを言って良いのか、教師という人種は。
「でも、それだと、満たされる生活は送れないし、自分らしく生きれない。鬱憤と不満がたまるだけだ。自分らしく生きるためには、傷付く覚悟を持たなきゃいけない。失敗したら、傷付いたら、成長すると言うけれど、傷付く勇気がない人が一歩踏み出して、やりたいこと、したいことができるわけがないよね」
あたしは、勇気がないのか。初めて、あたしは自覚した。
考えてみればその通りだ。批判も、悪口も、受け止める精神力を私は持っていなかった。
それに、耳を傾ける勇気が出なかった。耳に入った時には、足早にそこから逃げてしまう。
ふうん、だから何?と聞き流すことができなかった。あたしは、ずっとそんな嫌なものから逃げてきたんだ。それで良いんだろうかとかそんなことも一切考えることもなかった。ただ、逃げたかった。そんなものがあること自体、知りたくなかった。だから、塞ぎ込んで最低限、人と接しないようにしてきたんだ。
「君は特に交遊関係を持つ。ということが一切無いみたいだけど、そういう風に孤立しているのは良いとも思わないし、悪いとも思わない。ただ、自分のやりたいようにやれる勇気を持つことだ。勇気を持つことによって、最低限の自由を謳歌することができるんだからね。君は、自分に対する批判なんかを受け止める勇気がなくて、今回みたいなことを起こしてしまった。けれど、それは常識的に考えて、やってはいけないことなんだ」
“勇気がない”か。“勇気”それを持ったら、自分のやりたいように生きれるのだろうか。あたしは勇気がなくて、怖くて、傷付きたくなくて人と接することを避けてきた。でも、勇気を持っても、自分らしく生きれるかは、どうせ、自分次第というやつなんだろう。たかだか一感情の類いを持って変われるのなら誰もが幸せに生きているよ。
(ま、やったことに関しては開き直る気はないし、反省はしてるけどね)
「まぁ、僕も勇気を持ったからって変われるとは思っていないよ。でも、持たないより、持っていた方がいいし、恐怖に打ち勝つことができる。打ち勝つというのは…少し違うな。無視する。の方が正しいかな」
(は?無視?)
そんなことができるというのか。恐怖心から逃れる術があるのか。
「どうやって、どうすれば、恐怖を無視できるんですか?」
気づけば自分から質問していた。
生徒指導の教師は表情を変えずに答えた。
「心を落ち着かせれば良い。一度、思考を止めてみれば良い。自分がやらなきゃいけないことをもう一度、自分の頭の中で確かめるんだ。ありきたりだけど、深呼吸をしたりして、思考を一度、リセットすれば良い。そうすれば、少しは恐怖から逃げられる。やらなきゃいけないことをまっすぐに見つめて、それをやることに集中するんだ」
(心を落ち着かせる、か)
そんなこと、やったことが無い。
それに、恐怖がある時はそれに、心を支配されてしまう。出来ない要素を考え出したらきりがない。本当にやれるんだろうか。
「恐怖は過去のことであろうといつまでも追いかけてくる。完全に打ち勝つってことはできないさ。だけど、恐怖を遮断することはできる。やるべきことだけを見定め、考えれば、恐怖について考える暇は無くなるからね。それをしても、頭のなかを支配するほどの恐怖なのなら、それは、精神力で締め出すしかない。ま、できないならこれで終わりだが。それでも、恐怖をどうにかしなければ、君はずっとこのままだ」
ぼくはもうこれ以上は何もできない。遠回しにそう言われた気がした。
(結局最後は自分でどうにかしろってことか)
そりゃそうですよね、方法は教えることはできても、それを実践するのはあたしですから。
「できそうかい?」
生徒指導の教師が聞いてくる。
「わかりません。本当に頭が恐怖でいっぱいになっちゃうんです。だから、恐怖を遮断するのは難しいかもしれません」
「そうかぁ。ま、焦ることはないよ。それに、君に今すぐそんな事態が起きるとは限らないしね。でも、出来なきゃ、君は君らしく生きてはいけない。やりたいことが出来ない人生を送ることになってしまう。だから、心を落ち着かせて、恐怖を遮断するというやり方は教えた。効くかはわからないけど、その時が来たらやってみてくれ」
「はい」
「まぁ、頑張ってみて」
生徒指導の教師がそう言うと、話は終わったと思ったのだろう。担任があたしに言った。
「あなたには、それ相応の処分が下ります。近いうちにまた、呼び出して処分を言い渡すから」
「はい」
あたしが返すと、担任と生徒指導の教師が立ち上がった。
「それじゃあ、授業に戻って。もう二時間目始まってるから」
気づかず間にチャイムがなっていたようだった。
あたしがクラスに帰ると、クラスメイトからの視線が凄まじかった。もちろん目を合わせもしないし、後ろを向いたりもしないがじっとこちらを凝視をしている複数の視線を感じるのは良い気持ちはしなかった。
ただただ、早く帰りたかった。早く時が経てば良いとしか思えなかった。だが、時間は空気を読まない。早すぎると思う時も、早く過ぎろと思う時も、平等に進んでいく。その確証だけがあたしにとって一筋の希望だった。
この時間が過ぎ去るという唯一の確証なのだから。
時間が進み、ついにホームルームが終わった。待ちわびた時がやってきたのだ。あたしは教科書を鞄に入れて、帰り支度を始めた。しかし、その間もクラスメイトからの視線は強く注がれていた。
あぁ、あたしは本当に不純物となってしまった。これからどう高校で過ごしていこうか。離れていく友人知人はいないが、この、圧倒的な疎外感はあたしを心底憂鬱な気持ちにさせた。
(早く、この場から立ち去りたい)
その思いだけがあたしの思考を支配していた。鞄をしょって教室を出る。階段を小走りに降りて、昇降口に向かう。このまま、外に出れば、こことは今日のところはお別れだ。
そう思って昇降口の出口の先に目をやった。その瞬間、あたしは驚きで立ち止まってしまった。昇降口の出口の近くに院長先生がいたのだ。
(あぁ、あたし、“あそこ”でも、一人ぼっちになるのか)
そんな考えが頭のなかに駆け巡った。院長先生が迎えにきた。この事があたしにとって良いことだとは思えなかった。
軽蔑されているのだろうか、それとも、完全に見放されたのだろうか。手のかかる問題児、迷惑なやつだと思っているのだろうか。
とにかく、これは問題を起こした児童を保護者が迎えに来るのと似ている。いや、実際そうか。あたしはすぐにロッカーから靴を出し、足をねじ込んだ。靴のかかとの裏にくる部分を少し潰してしまったから跡がついたかもしれない。でも、そんなことはどうでも良かった。とにかく、院長先生のもとに向かいたかった。そして、一刻も早く聞きたかった。あたしのしたことに対して、どう思っているのかを、そして、それをしたあたしの事をどう思っているのかを。あたしはその事を一刻も早く知りたかった。
そして、もし、自分の事を悪く思っているのなら、どうにか、どうにか印象を変えたかった。余地はないが、弁解したかった。
唯一、あたしに優しく接してくれる人を失いたくなかった。
院長先生もあたしを見つけたようでこちらを見て、微笑んだ。あたしは安堵を覚えかけた。だが、安堵してから、嫌な言葉を思い出してしまった。
「笑顔、微笑み、笑い声。これらは意図的に作り出すことができる。だから、私は、少なくとも笑顔なんかの表情で人間を判断しないね。表情、言葉は偽りだよ。思っていなくてもそういう表情をすることができる。ほとんど意味を成さない。それが表情だ。私は、たくさんの名言を知っている。名言を言う偉人の顔は大抵、絵や写真でしか見ることができないが、決めポーズ的なものが多いだろう。どういう場面でそう言い放ったかにもよるが、言った時の表情が優しかったとか怖い表情だったとか、そういう話がない偉人は写真、もしくは肖像画でしか想像できない。だが、それは虚像だ。名言の本質は、どういう場面で、どういう状況で、どう言った心境で言ったかだ。表情、容姿、ポーズは関係ない。人間は嘘をつく生き物だ。時に他人に、時に自分にね。嘘は武器だ。その武器で何人もの人間が追い詰められ、死に追いやられたか。それは図り知れん。だから、人間を表情、容姿、外面で判断してはならない。なぜなら、腹の中までは目に見えないからね」
あいつの言葉だ。あそこまで、人間不審に陥っているやつは居ないだろう。
だが、あいつが信用した人間の一人として思うことがある。その考えは“一理ある”と。
院長先生もなにを考えているかわからない。でも、今はそんなことより、早くここから離れることが先決だ。あたしは院長先生に駆け寄った。しかし、駆け寄ったのは良いものの、その後、何を話せば言いかわからなかった。謝れば良いのだろうか。それとも、普通に接すれば良いのか。
あたしが、考えがまとまらず、黙ったままでいると
「さ、行きましょう」
と、院長先生が言った。
「あ…はい」
あたしは拍子抜けしながらも、返事をして院長先生についていった。
バス停でバスを待っている時間は本当に生きた心地がしなかった。行きは、遠くのバス停から乗るため、途中から同じ高校の人が乗ってくることはあった。だが、帰りは途中で全員いなくなるものの、同じ学校の人と同じバスに乗ることになる。
もちろん、そのなかにはクラスメイトもいるわけで、
「あ、アイツいるよ」
「横にいる人、母親かな?」
「ほんと、なんで別れ話されて殴るの?意味わかんない」
「教育が悪かったんじゃない?」などという陰口が耳に入ってきた。
それは、バスに乗ってから変わることはなく、あたしは平静を装ったが心臓が早鐘を打っていた。
一刻も早くここから出たい。逃げたい。バスから降りてしまいたい。
そんな気持ちで心が一杯になっていた。院長先生は陰口が聞こえているのかいないのかは分からないが、じっと窓の外を見つめて、焦点をずらさなかった。陰口は止まるどころか、逆にエスカレートしているようで、
「あーあ、なんであんなやついんのかな?」
「まじでそれ。あんな精神異常者はさっさと出てってほしいんだけど」
「どうせ退学か停学になるんじゃない」
「あいつ、精神科行った方がいいんじゃない」などどいう声が聞こえてくる。
だんだんと笑いを帯びているようだった。
そんな中、院長先生が口を開いた。
「あなたが何をしたか聞いたわ」
あたしは身の毛が逆立つという言葉を身をもって感じた。ただでさえ、早鐘を打っていた心臓は、今や早鐘という言葉では表せないほど、速く動いていた。
「確かに、いけないことだと思うけれど…わたしもあなたの立場だったら、同じことをしていたかもしれない。だから、そんなに思い詰めることはないわ。誰だって、耐えることの出来ないことはあるもの」
微笑みながら院長先生の言った、静かで、優しげで、柔らかい言葉が、あたしの心臓の速度を元に戻していく。
(あぁ…この人は…)
私に同情してくれている。こんな私に…。なんで、なんでこんな言葉をかけてくれるんだろう…。
私がそう思った時、人一倍大きな陰口が飛んできた。
「まじでさぁ、なんで生きてんの?って話だよねぇ、死んじゃえば良いのに」
「××××君が言ってたけど、愛が分からないんでしょ。意味分からなくね?愛が分からないって。親から愛情もらってないの?」
大きな笑い声がした。
あたしは一つ一つの言葉が自分の葛藤の核心をついてきていて恐ろしかった。
確かに、死ねば全てから解放される。逃げられる。
でも、それじゃ、今までのあたしと同じ。せっかく、チャンスを得たんだ。そう簡単に諦めたくない。
そうだよ、そうだよ。親から愛情なんてもらってないよ。それが何?院長先生が、院長先生があたしを育ててくれた。確かに、愛をもらっているんだ。あたしは院長先生から愛をもらっているんだ。
確かに、無意識に“愛されてるな”と思ったことはないし、見ることが出来なくても今のあたしは愛されている。と断言できる。
なぜなら、間違いを犯した人を迎えに行って、ここまで寄り添って、優しく話しかけてくれるのだから。
愛が無くて、ここまで出来るわけがない。
確かに、愛がなくても出来るかもしれないけど、あたしは院長先生のことは、育ての親だもの、人一倍知っているつもりだ。
院長先生はやりたくないことをやる時、微笑んだり笑ったりしない。
だから、何となくだけど今、“愛されている”と、思っている。
だから、あたしは、院長先生から愛されてるから、愛をもらってないなんて事はない。
あたしは、院長先生がくれる愛を初めてちゃんと認識できた気がした。
いつもあたしが使っているバス停にバスが止まる。その頃には陰口を言っていたクラスメイトたちも降車していて、あたしと院長先生はこの辺に住んでいることがばれずにすんだ。
帰り道は特に会話が弾むことはなかったし、喋ることと言えば今日の晩御飯の献立ぐらいだったから、ほとんど無言であたしと院長先生は孤児院への道を歩いた。
孤児院に帰ってくると、いつも通り院長先生は食堂に行った。小学生達のおやつを準備しに行ったんだろう。あたしもいつもと同じように自分の部屋に引きこもった。晩御飯まではまだ時間がある。それまでの間にあたしは自分の心の中の怒りを静めようとした。陰口を言うクラスメイト達にとってあたしは格好の餌だろう。あいつらはただでさえ群れていて、嫌いだったり、いけ好かない人間を集団で苛めるような人間達なのだから。
結局、あたしは猟師に狙われた獲物か。なんて思って怒りを静めようとしていたが、どうにも収まらなかった。なぜなら、怒りをつき詰めれば激しい自己嫌悪になるからだ。こうなったのも、全部自分のせいだ。あたしのせいで院長先生までいわれの無い誹謗中傷を受けることになった。
あたしが欲を出さなければ、あたしが愛を知りたいと思わなければ、あたしが、いまある愛に気づくことができたのなら、こんなことにはならなかった。こんな目に遭うことはなかった。あたしだけなら良い。あたしは耐えられる。でも、院長先生まで、同じ目に遭わせてしまった。
思えば、あたしは自分の心配ばかりだ。それに、院長先生が迎えにきた時に私が起こしたことを謝っていない。でも、終わってしまったことは、過ぎたことはどうすることもできない。とにかく、これからに目を向けなきゃ。
あたしは時計を見た。あと一時間ほどで晩御飯の時間だ。それが終わった後、院長先生に謝ろう。
(謝って、もう、二度とこんなことをしないようにしなきゃ)
あたしを愛してくれている人に迷惑をかけるなんてもうごめんだ。あたしも変っていくんだ。
晩御飯の時間になるとぞろぞろと孤児院の住人たちが食堂に集まってきた。晩御飯の時間は七時と決まっている。
小学生たちがはしゃぎながら食堂の中に入ってきた。孤児院の時計は一時間ごとにチャイムが鳴るというような機能はないから、各々が時計に目を配らなければならない。
今日の晩御飯は帰り道に院長先生から聞いていた通り、ハヤシライスだった。丸い平たい皿に各自ご飯をよそって、ルーをかける。あたしはこういう盛る系のご飯が苦手だ。どれぐらい自分が食べられるのか、どれぐらいなら取りすぎでないのかわからないのだ。
だから、ほとんどの場合何も考えずによそっている。考え出すと時間が掛かるし、面倒な上に、今は食後に院長先生に謝るという目的がある。あたしは手早くハヤシライスを盛り付けて席に戻ると、小学生達が座るのを待った。
晩御飯の時は、みんなで“いただきます”というのだ。過ぎ去っていく一秒一秒が遅く感じて、本当にもどかしかった。
(早くしろ、早くしてってば)
気づけば、心の中で小学生たちに怒鳴っていた。
彼らはご飯をよそうのにも、ルーをかけるのにも時間がかかる。あたしは苛立ちを心の中にどうにか押さえて、全員が席に着くのを待った。一番最後にご飯を盛り付けた小学生が席に座り、院長先生が手と手を合わせた。
「手と手を会わせて、いただきます」
と院長先生の合図の後に「いただきます」と復唱してから、あたしは素早くスプーンを手に取った。一刻でも早く、あたしは院長先生に謝りたかった。その気持ちだけが先走っていたため、ハヤシライスを口に入れては噛んで飲み込み、また口に入れて噛んでは飲み込みを繰り返した。ハヤシライスの味なんてどうでも良い。とにかく謝りたかった。あたしのせいでかけた迷惑で院長先生が傷ついていなかったとしても、自分なりにけじめをつけなければならない。その一心でただただ手を動かした。
あたしは、食べる速度もそこまで早くなかった。しかし、今日は一心に手を動かしていたからか、食べ終わるのが早い大学生達と同じ時間で食べ終わっていた。
院長先生はどうかと言うとまだ、食べ終わってはいないものの、あと何口かで終わりそうだった。
あたしは手を合わせて、「ご馳走さまでした」と言うと食器をキッチンの流しに持っていく。流しの中のボウルに食器をいれて水をいれる。こうしておけば、こびりついたハヤシライスのルーは洗う時に取れやすくなる。小さい頃に教えてもらったやり方だ。
後は院長先生に話しかける機会をうかがうだけだ。そう思ってあたしは院長先生を見やりながら席に戻った。食堂では、まだ食べ終えていない中学生と、喋りながら食べている小学生がいる。あたしはなるべく目立ちたくはなかったので、早く食べ終わって自分の部屋に戻ってくれと思いながら院長先生が食べ終わるのを待った。
院長先生のスプーンを運ぶ動作すらもあたしにはもどかしかった。
(早く食べ終わってくれ、どうか話せる機会を与えてくれ)
あたしはひたすらそう願った。
院長先生が「ご馳走さまでした」と言って立ち上がった時には、ほっと胸を撫で下ろした程、あたしは焦燥感にかられていた。
院長先生が食器を片付けて席をテーブルの中に入れるために戻ってきた。
あたしはすかさず、席を立って院長先生に話しかけた。
「院長先生、あの、今日は、ごめんなさい。いろいろ、迷惑かけてしまって」
あたしがそう言うと院長先生は少しの間黙ってあたしを見つめてからこう言った。
「あなた、もしかして自分の事責めてる?」
あたしは拍子抜けと同時に驚きで頭の中は疑問で一杯になった。
(なんで、なんで院長先生は自分の事を顧みないの?なんであたしの心配をするの?)
あたしはどうしたら良いかわからなくなった。
「あたし、院長先生に心配をさせて、迷惑をかけて、その上、院長先生にはなんのいわれもない悪口を浴びさせてしまって、その、もうそんなふうなことをしないようにしたくて、だから、院長先生に謝って、自分なりに、けじめをつけたいんです。だから、その、そういう風に言われると困ると言うか」
そうあたしが言うと、院長先生は、思いがけないことを言った。
「私の部屋にいらっしゃい」
「え?」
あたしは予想していない言葉に驚きを隠せなかった。
「ほら、来て」
そう言うと、自分の部屋に歩みを進める院長先生にあたしは唖然としながらもついていった。
「座って」
院長先生が自分の椅子を勧めた。
「い、いえ」
「いいから」
あたしが断っても、院長先生は椅子を勧めた。あたしの頭のなかではたくさんの疑問が湧き出ていた。
なぜ院長先生はこんなことをするんだろう。なんで、院長先生は自分の部屋にあたしを招いたのだろう。ここで叱るため?そんなことはしない人だ。叱るところ見たことはあるが、いつも、みんなの前で叱る人だ。ではなんでこんなことを。
「今、紅茶いれるわね」
院長先生はあたしの動揺をよそに、戸棚からティーパックを出してカップの中に入れる。
あたしは言われた通りに椅子に座った。ここで拒否するのもなんだか悪いし、紅茶をいただけるなら喜んでもらおうと思ったからだ。
孤児院ではインスタントのコーヒーやらココアやらは用意してある。だが、あたしはあんまり人と関わりたくなかったから、いつの間にか甘い飲み物を飲むことも無くなっていた。
だから、あたしにとっては何年かぶりの紅茶なのだ。院長先生がポットに水を入れて火にかける。それから院長先生はドアの方へ歩きながらこう言った。
「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
その言葉通り、院長先生は一分もたたずに戻ってきた。その手にはアイスがあった。
あたしはさらに動揺した。紅茶をいれてくれる上に、アイスもくれると言うのか。なぜ、こんなことをするんだ。あたしは何がなんだかわからなかった。ただ、院長先生がすることを呆けた顔で眺めていた。
ポットがグツグツと音をたてながら注ぎ口から白い湯気を吐き出す。それを見た院長先生が、火を消して注ぎ口の蓋を開けてカップにお湯を注ぐ。細長い湯気が立ち上る様を、あたしは何も考えず、ただ眺めていた。カップが目の前にきた時にはあたしもさすがに呆けた顔からいつもの顔に戻したが。
目の前に紅茶、そしてアイスとスプーンが置かれた。
「さ、召し上がれ」
院長先生がそう言うと、あたしは最大の疑問を院長先生にぶつけた。
「どうして、こんな事をするんです?」
そう言ったあたしに院長先生は微笑んでこう言った。
「あなたが自分のことを責めすぎてるんじゃないかと思って。あの件はあなたのせいもあるけど、痴情のもつれなんてそんなものよ。これから先いくらでも経験するし。だから、そんなに重たく考えることはないのよ。確かに、あなたがしたことはダメなことだったけど、全てあなたの責任というわけではないしね。それに、私に迷惑かけたと思ってるんでしょう?あんなの迷惑でもなんでもないわ。私は孤児院の院長なんだから。ここのいる子たちを守ってなんぼってもんよ。あなたに言われる悪口の矛先が私に向いてあなたが傷つく言葉を言う人たちが減れば私にとって万々歳だわ。だから、そんなに思い詰めないで。あなたがそんなに思い詰めたり自分を責める必要はないんだから」
そういうと院長先生は部屋のドアのドアノブに手をかけこう言った。
「食べ終わったら言って。私は食堂で洗い物してるから」
ドアが閉まった。
あたしは沸き上がる思いをこられることができずに、嗚咽をもらしていた。頬に涙がつたり、顎の先から雫となって落ちていく。あたしは涙を流しながらアイスの蓋を開けた。プラスチックのカバーをはがして、スプーン突き立てて、白い冷たい食べ物を口の中に入れた。バニラの甘く、優しい味があたしのからだに染み渡った。そうしている時でも涙は一向に止まらず嗚咽も止まらなかった。
院長先生はなんて高潔なんだ。こんなあたしでも責めないでいてくれるのか。庇ってくれるのか。なんで、なんであたしはいままでこの人の愛に気づかなかったんだろう。自分は本当に鈍感という言葉では例えようのないほど鈍感だ。あたしはあの人のお陰で、今の今まで生きている。生かされている。
誰が愛情の無い子供に美味しいご飯を食べさせることができるだろうか。誰が本気で親身になって寄り添えるだろうか。誰があたしみたいな、いやあたしみたいなと言うのはもうよそう。誰があたしを愛情なく育てることができただろうか。育てることはできないはずだ。なぜなら、いまあたしは“愛”を感じているではないか。院長先生の、育ての親の愛を感じているではないか。愛情を与えられずに育てられたら、いまこの瞬間だって愛を感じることは出来ていないはずだ。いや、いままで感じていたのに目に見えるものではないから、実感が湧かず、自分は愛がわからないと思い込んでいたのかもしれない。あたしの心の中のたくさんの感情が溢れだしては涙を作った。涙を拭う袖がぐっしょりと濡れている。涙を流しながら口にいれたアイスの味が少ししょっぱい。どうやら涙がアイスにも落ちていたらしい。
あたしは顎を拭ってアイスをすくった。甘くて、少ししょっぱい、優しい味がした。
アイスを食べ終えて、はぁ、と一息をつく。興奮も収まってきて、涙も乾き始めていた。あたしは院長先生のいれた紅茶のカップに手をかける。
青リンゴのような匂いがするその紅茶を飲んでいるうちに気持ちも穏やかになり、カップを置いてから、また一息をついた。
リラックスとまではいかないが、興奮が完全に覚め、穏やかさがあたしの体に戻ってきた。
紅茶の種類には詳しくないので、名前なんかはわからないが、この紅茶の効果なのかもしれない。紅茶を飲み干したあたしはアイスの容器と紅茶の入っていたカップを持って、院長先生の部屋を出る。
(あぁ、あたしの顔は涙で真っ赤になっているんだろうなぁ)
などと思いながら、あたしはキッチンに向かった。
あたしはその日、よく眠れた。穏やかな気持ちのまま寝むれたお陰だろう。
あたしは、目覚まし時計を止めて、布団から出る。学校の支度をしながら、あたしは昨日のことを思い出していた。
院長先生の愛に気づけた昨日のことを、あたしは絶対に忘れない。バスの中でクラスメイトに陰口を言われたこと。院長先生の部屋で泣きだしてしまった事。
これら全ての出来事が今のあたしを形作っている。
あたしは、もう自分を卑下したり、愛がわからないとか、自分はなにも出来ないとか思うことはないだろう。
なぜなら、あたしは変われたからだ。あたしは今までのあたしじゃない。途中で諦めたり、自分を自分で貶して、暗い気持ちになったりしない。そんなこと、なんの意味もないことだからだ。
起きてしまったこと、過去を悔やんでもどうにもなら無い。今をどうするか。それが一番大切だとあたしは知ることが出来たんだ。
今日、学校に行ったら、きっと、クラスメイトから陰口を叩かれるだろう。悪口を浴びせられるだろう。だけど、もう、過去は変えられない。
ふぅぅ。
あたしは息をはいて、覚悟を決めた。その瞬間、あたしは部屋のドアに手をかけた。
学校に着いたら、案の定陰口を叩かれた。だけど、今のあたしにはなんの障害にもならない。朝のホームルームの前から悪口や陰口を叩かれたが、あたしは無反応だったし、何回か授業を挟んでも、まだ言っていたので、あたしはまだ言ってる、飽きないなぁ。くらいしか思わなかった。
それに、一つ一つの言葉を聞いてもなんともない自分に対して好感を持つことができた。あたしは自分が“鋼のメンタル”でも持ってるのかなぁ、なんてことを考えていられるくらいあたしは傷一つつかなかった。そんな風になんともない普通な感じで過ごしていたら、すぐに帰りのホームルームになっていた。
体感、5分くらいだったが、心の中で、はぁ、やっと帰れる。と思ったものだ。傷はつかなくても、居心地は悪いのだ。というか良いわけがない。
とまれ、学校に居るべき時間は終わった。あたしは荷物を持って昇降口へ向かう。あたしの足取りは心なしか軽かった。
もちろん、学校が終わったからといって陰口を叩く連中から逃げれたわけではない。
最後の難関たる、バスという空間から出ることができた瞬間にこそ、やっと一息付けるのだ。
ま、難関といっても結局、基本は学校と同じ。叩かれる陰口、悪口の類いを聞き流すだけである。もう、何を言われても動じない。
あたしは叩かれる陰口と悪口をBGMにバスの車窓から外を眺めた。
住宅地の風景からどんどん田舎の風景へと変わっていく。
(あぁ、人間は山やら平原やらを自分達の都合の良いように作り替えてしまったんだなぁ)
なんて感傷に浸りながら外を眺めているときだった。
ちょうど、外の景色は河川敷で、小さな原っぱになっていた。あたしはぼーっとしながら、目の前に広がる、青と緑の色彩を眺めた。
バスのアナウンス音声が次のバス停の名前を告げた。
その瞬間、あたしの目の前の青と緑の色彩の中に黒いものが入ってきて、去っていった。あたしは無意識のうちにそれを目で追いかけていた。カラスや鳥の類いじゃない。帽子だ。それもよく見た種類の。
あたしは降車ボタンを押して、バスの運転手に「降ろして下さい!」と告げた。
急いでバスを降りて、周りを見渡す。凝らしたあたしの目が視界の端に黒い帽子を捉えた。
黒い帽子は風にさらわれて、上昇したり、風が止んだときにはゆっくり下降したりと、上に上がったり、下に下がったりを繰り返していた。あたしは全力で黒い帽子を追いかけた。帽子は風がやみ、下降してきていた。今が好機だ。あたしは帽子に向かって手を伸ばす。伸ばした手が届きそうになったとき、突然吹いた風にのって帽子は上昇と加速を始めた。
くそっ。あたしは悪態をついて、ジャンプした。
最大限伸ばした右手の指先が帽子を捕らえた。はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…。
あたしは息切れを起こしながら、帽子をつかんだまま自分の足を止めて後ろを振り返った。何となく人の気配がしたのだ。するとそこには、呆気にとられたような腑抜けな顔をした男がいたではないか。
理屈っぽく、乱暴で、手先が悪く、仲間に優しく、自分が嫌いな、紳士風の男。
あたしは懐かしさを感じながら、男に言った。
「久しぶり。はぁ、はぁ、シュバイン。はぁ、はぁ、これ、はぁ、シュバインのだよね」
息切れを起こしながらあたしは貴族や紳士が身に着ける黒いシルクハットの主の名を呼んだ。
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